コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

光西寺 (中津川市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
光西寺
所在地 岐阜県中津川市山口1411
位置 北緯35度33分34秒 東経137度32分32秒 / 北緯35.55944度 東経137.54222度 / 35.55944; 137.54222座標: 北緯35度33分34秒 東経137度32分32秒 / 北緯35.55944度 東経137.54222度 / 35.55944; 137.54222
山号 古渓山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏[1]
札所等 木曾西国三十三観音霊場三十一番
法人番号 6200005009556
テンプレートを表示

光西寺(こうさいじ)は、岐阜県中津川市山口にある曹洞宗の寺院。山号は古渓山。木曾西国三十三観音霊場三十一番。

歴史

[編集]

岐阜県関市にある龍泰寺の末寺である。

明治5年(1872年)、火災で諸堂宇が焼失した際に、古記録も焼失したため、創建された年月や開山・開基などの由緒が不詳である。

明治8年(1875年)3月16日、庫裡と長屋の再建が完了。

明治28年(1895年)に本堂の再建が完了。

明治33年(1900年)に全ての堂宇の再建が完了した。

そのため、他の寺院に残されている古記録を参考にすると以下のとおりである。

延宝2年(1674年)2月7日、恵那郡駒場村福昌寺から光西寺あての寺請証文[2]が残っている。  

希利志丹 宗門御改之所弥 今度堅御制禁ニ付 宗門寺請状事

一 山口村 七郎右衛門養子まつ 年十一、生所 濃州恵那郡 中村庄右衛門世伜、宗旨禅 代々当寺拙僧旦那ニ紛無御座候、自然幾利志丹宗門之由訴人御座候ハハ、拙僧何方迄も罷出急度申わけ可仕候、為後日依而一札如件

延宝二年二月七日 濃州恵那郡駒場村 禅宗 福昌寺                          

山口村光西寺

このほか、宗門改に関係があるとみられる宝永5年(1708年)3月5日の転出者の書上げがある。この文書は光西寺の襖の中から出たもので、その一部分であるが、18~32年以前に遡って婚姻による坂下村への転出者が書上げられている。末尾に「右之通村中詮議仕、書付指上申候」とある。

与三郎娘 くれ 弐拾八歳

右 くれ儀 拾壱年以前、元禄十一寅之年 濃州苗木領坂下村 源助所ニ 縁付罷有候

同村 半十郎妹 阿ま 三拾弐歳

右 阿ま儀 拾八年以前、元禄四未年 濃州苗木領坂下村 又兵衛所へ 縁付罷有候

同村 弥右衛門妹 みや 三拾三歳

右 みや義 弐拾九年以前、延宝七申之年 濃州苗木領坂下村 善右衛門へ 養子ニ遣シ罷有候

同村 弥平次妹 うめ 三拾歳

右 うめ義 拾壱年以前、元禄十二卯年 濃州苗木領坂下村 半六所へ 縁付罷有候

同村 吉兵衛姉 はな 五拾八歳

右 はな義 三拾弐年以前、延宝四年己年 濃州苗木領坂下村 傳右衛門所へ 縁付罷有候

同村 同人娘 まつ 弐拾五歳

右 まつ義 拾壱年以前、元禄十二卯年 濃州苗木領坂下村 傳吉所へ縁付罷有候

〆八人

右之通 村中詮義仕、書付指上申候以上

山口村庄屋共

寶永五年子三月五日

ふくしま寺社[3] 御奉行所[4]

また『外垣庄屋萬留帳』の天保3年(1832年)から文久2年(1862年)に至る間のうちに、婚姻による転入・転出者と村内の異動者の書上げが「乍恐奉願上候口上」と題して、木曾代官所に提出されている。

天保3年(1832年)の書上げについては以下のとおりである。  

乍恐奉願上候口上

一 当村辰治郎家内なつ 弐拾歳

右之者 落合村 勘十妻ニ縁付参申候、宗旨代々禅宗 当村光西寺旦那ニ而御座候得共、彼地 善昌寺旦那ニ罷成度旨願申候故 光西寺より請状取り善昌寺江遣シ申候

一 当村仁左衛門 妻ます 弐拾八歳

右之者 当村仁左衛門妻ニ縁付参申候、宗旨代々禅宗彼地 永昌寺旦那ニ而御座候得共、当村え参申候付 当村光西寺旦那ニ罷成度旨願申候故、寺請・地請状取、当宗門御改より当村帳面ニ書上候様奉願上候

一 当村照吉 弐拾九歳

  母 五拾四歳

  弟 九蔵 弐拾七歳

  妹 しか 弐拾壱歳

  同 さめ 拾六歳

右之者〆五人、是ハ当村鉄太郎家内ニ而御座候得共、当春より別居仕候

一 当村弥助忰鍬吉 拾九歳

右之者 当村儀平聟ニ、去春遣シ申候

一 当村慶治郎伯父忠六 三拾四歳

右之者 当村要助聟ニ、去春遣シ申候

一 同人妹ぶん 弐拾五歳

右之者 行方不知、去秋罷出申候

一 当村弟助妹なみ 弐拾壱歳

右之者 当村松之助妻ニ、去春参申候

一 当村伝治妻なべ 弐拾六歳

右之者 不縁ニ付、当村兄嘉助方え去秋罷帰申候

(以下九件省略)

右之者共 宗旨代々禅宗 当村光西寺旦那ニ而御座候得共、村内入替之儀ニ御座候得ハ寺替は不仕候

右之通奉願上候間宜敷被 仰付被下置候ハヽ難有仕合ニ奉存候以上

天保三年辰正月                    山口村庄屋両人、組頭四人連署

  以上にみるように、他村間の転入・転出と村内における異動者の届出を毎年提出していた。他村間の転入・転出は、地請証文・寺請証文によって身元確認が行われていた。

宝永4年(1707年)、湯船沢村の天徳寺が再建され、正徳3年(1713年千旦林村 大林寺より本尊を申請入仏供養が行われた際の模様について、光西寺の住持も出席していたことが記されている。

手金野松源寺萬龍和尚 肝煎に 而入佛供養有之候 寺方招請 松源寺の両和尚 駒場福昌寺 落合善昌寺医王寺 山口の光西寺 馬籠永昌寺 妻籠光徳寺 三留野等覚寺 此外旦中不残三百人程 右之通り寺扣に拝見候 時の住持祖笭に候

中津川市指定有形文化財

[編集]

十一面観音庚申塔

[編集]

時代:貞享年間(1684~1688年) 高さ75cm、幅38cm

舟形光背の十一面観音の立像浮き彫りである。光西寺の庚申塔は数少ない十一面観音像で、下部に両端に鶏を配しており、台座石には見ざる・言わざる・着かざるの三猿を彫ってあることから、庚申像として建立されとものであることが解る。

参考文献

[編集]
  • 『山口村誌 上巻』 第四章 近世  第三節 支配制度 二 宗門改 p450~p455
  • 『山口村誌 下巻』 第六章 民俗  第六節 信仰 7 寺院 光西寺 p764

脚注

[編集]
  1. ^ 『山口村誌 下巻』 第六章 民俗  第六節 信仰 7 寺院 光西寺 p764には、阿弥陀如来と記されているが誤りである。
  2. ^ 江戸時代,寺請制度にもとづき,寺院が檀徒に対しキリシタンではなく自分の檀家であることを証明した文書。檀家の人々の旅行や転居の際に発行され,身分証明書としての性格をもった。寺手形・宗旨手形・寺請状・寺証文・寺請往来とも呼ばれた。
  3. ^ 木曽福島町興禅寺 (長野県木曽町)長福寺 (長野県木曽町)など
  4. ^ 当時、上松宿にあった尾張藩木曾材木奉行所