大林寺 (中津川市)
大林寺 | |
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所在地 | 岐阜県中津川市千旦林1346-14 |
位置 | 北緯35度28分36.9秒 東経137度27分10.3秒 / 北緯35.476917度 東経137.452861度座標: 北緯35度28分36.9秒 東経137度27分10.3秒 / 北緯35.476917度 東経137.452861度 |
山号 | 嶺松山 |
宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 聖観音菩薩 |
創建年 | 天正8年(1580年) |
開山 | 照庵玄光 |
開基 | 林常慶 |
中興年 | 寛永10年(1633年) |
中興 | 徳外玄隆 |
札所等 | 恵那三十三観音霊場五番 |
法人番号 | 6200005009028 |
大林寺(だいりんじ)は、岐阜県中津川市千旦林にある曹洞宗の寺院。山号は嶺松山。恵那三十三観音霊場五番。恵那郡における曹洞宗の法源地である。
歴史
[編集]禅洞庵・禅洞寺
[編集]天正8年(1580年)、甲斐国巨摩郡長坂の清光寺五世の照庵玄光が、戦乱を避けてこの地に至り、坂本神社八幡宮の別当寺に入り、東の洞に禅洞庵という草庵を結んだことを始まりとする。[注釈 1]。照庵玄光は禅洞庵で没した。
慶長13年(1608年)、清光寺から吉州玄貞と徳外玄隆が禅洞庵に来て法を説いた。徳外玄隆は、招かれて各地で布教し、元和8年(1622年)、寺名を禅洞寺に改め、さらに教化に努めた。
寛永3年(1626年)、恵那郡竹折村の瑞現寺が失火により焼失した際には、徳外玄隆の下で、寛永18年(1641年)に復興を果たしている。
大林寺
[編集]徳外玄隆は手狭になった禅洞寺を移築して再興することとし、林常慶(大藪桃井家の祖)が開基となり、 寛永10年(1633年)、新たに嶺松山 大林寺に改名して洞垣外に建立した。
禅洞庵との因縁により照庵玄光を開山として、吉州玄貞を二世、徳外玄隆を三世としている。
徳外玄隆は恵那郡内に高安寺、円通寺、長徳寺を開いて末寺に加え、境内に北野天満宮を祀った。
江戸時代の過去帳には、上金・北野・茶屋坂・本町・駒場・千旦林など中山道に沿う地に檀徒が存在したことが記されている。
寺領は、尾張藩の重臣で、代々木曽代官及び、恵那郡・土岐郡・可児郡の中山道沿いの村々を知行所としていた山村甚兵衛家が寄進したものである。
その後、元禄10年(1697年)に大洪水により大破したため、七世の月堂玄定は伽藍の復興を計画し、境内地を南西の高台の元屋敷に移して、享保12年(1727年)に伽藍が完成した。
大正14年(1925年)8月、落雷により山門・位牌堂を残し、本堂・庫裡や、多くの什宝を失った。
山門は、大正11年(1922年)に、総シオジ材で造った楼門であるが、幸い落雷で焼けなかったため移築したものである。
本尊は、名古屋松坂屋伊藤家の祖である貞春尼が寄贈の聖観世音菩薩尊像である。
太平洋戦争では寺鐘を供出した。現在の寺鐘は昭和24年(1949年)に鋳造したものである。
境内
[編集]白山妙理大権現・北野天満大自在天神・愛宕山大権現が合祀されている。
- 天正8年(1580年)5月18日に、照庵玄光により勧請された、白山妙理大権現。
- 寛永8年(1631年)9月18日に、徳外玄隆により勧請された、北野天満大自在天神。
- 享保3年(1718年)1月18日に、月堂玄定により勧請された、愛宕山大権現。
それぞれが棟札に記されている。
- 文政元年(1818年)に勧請されたことが棟札に記されている津島神社も祀られている。
- 戦国時代の豪傑で千旦林城主であった吉村源斎が、木曽川から運んで来たと伝わる、源斎力石がある。
- 昭和51年(1976年)に、コスモス短歌会の全国大会の際に大林寺を訪れた宮柊二の
「鐘つけは 音鳴りいてて おんおんと 響かふ下に こころつつしむ」の歌碑がある。
寺宝
[編集]本尊の聖観世音菩薩は江戸時代の作で、作者は不明である。
他に承陽大師木像・開山照庵玄光和尚木像・常済大師木像が所蔵され、また徳外の墨蹟、徳外の画像、元禄年間の筆写による正法眼蔵全巻など所蔵されている。
末寺
[編集]脚注
[編集]- ^ 天正2年(1574年)武田勝頼が東濃を侵攻した際、坂本神社八幡宮と別当寺を焼討したので復興のために来たのが真実と思われる。
参考文献
[編集]- 『中津川市史 中巻Ⅱ』 第五編 近世(二) 第八章 寺社 第二節 寺院 ニ 近世の寺院 大林寺 p1628~p1629 1988年
- 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年
- 『岐阜県百寺』 大林寺 p189 郷土出版社 1987年