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光陽郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

光陽郡(クァンヤンぐん、こうようぐん、朝鮮語: 광양군)は、大韓民国全羅南道にあった。現在は光陽市の一部である。

歴史

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  • 940年太祖23年) - 「馬老」(牟婁)・「曦陽」から現在の地名である「光陽」に改称。
  • 983年成宗2年) - 全国に12の牧を設置と同時に昇平郡が昇州牧に昇格。
  • 1108年睿宗3年)あるいは1172年明宗2年) - 監務が廃止され、昇州から分離。あわせて18の部曲が光陽郡の管轄になる。[1]
  • 1392年 - 李氏朝鮮建国。監務が県監になり、完全に独立な行政単位となった。
  • 1597年 - 小西行長の兵隊が光陽邑城を占領したが、全羅兵使・李光岳と求礼県監・李応書が統率した朝鮮兵隊によって奪還。邑城が廃墟になり、県も一時的に順天都護府の管轄下に入った。
  • 1600年から1604年 - 廃墟化した邑城の復旧とともに、県が再置された。
  • 面里制が敷かれるとともに、県内に12面が成立した。1789年の時点で、県内には3706戸、17586人があり、女性のほうが男性のほうよりやや多い。
    • 牛蔵面・沙羅谷面(四谷面)・骨若面(七骨若面)・玉谷面・津上面・津下面・月浦面・多鴨面・七星面・仁徳面・内面・玉龍面
  • 1869年高宗6年)と1889年(高宗26年)に2回の農民蜂起が発生。
  • 1894年 - 東学党運動で光陽県内には多くの東学教徒が逮捕・殺害された。
  • 1895年6月23日(陰暦閏5月1日) - 二十三府制による行政区域再編で、県制が廃止されるため、光陽郡に昇格し、南原府の管轄となる。[2]
  • 1896年

近代・現代

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  • 1914年4月1日 - 郡面併合により、突山郡太仁面の一部(猫島を除く)が光陽郡に編入。光陽郡に以下の面が成立。[4](9面)
府令第111号
朝鮮総督府令第111号
旧行政区画 新行政区画
光陽郡四谷面、牛蔵面、七星面 光陽面
光陽郡骨若面 骨若面
突山郡太仁面
光陽郡津下面、月浦面 津月面
光陽面・鳳岡面・仁徳面・玉龍面・骨若面・玉谷面・津上面・多鴨面・津月面

脚注

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  1. ^ 大東地誌・光陽沿革條(金正浩編、1864年)地方沿革研究p274(1988)/光陽郡誌p344(1983)
  2. ^ 勅令第98号・地方制度改正件(1895年陰暦5月26日)
  3. ^ 勅令第36号・地方制度官制改正件(1896年8月4日)
  4. ^ 朝鮮総督府令第111号(1913年12月29日)
  5. ^ 現在の光陽邑徳礼里・道月里・世豊里・仁東里・仁西里
  6. ^ 大統領令第162号・邑の設置に関する件(1949年8月13日)
  7. ^ 郡条例第205号(1966年6月1日)
  8. ^ 大統領令第6542号(1973年3月12日)
  9. ^ 大統領令第11027号(1983年1月10日)
  10. ^ 法律第4050号・烏山市等の12市及び泰安郡の設置と郡名変更に関する法律(1988年12月31日
  11. ^ 法律第4801号・全羅南道光陽市等の2つの都農複合形態市の設置等に関する法律(1994年12月22日
朝鮮時代 1895年1989年 1989年1995年 現在
光陽県 光陽郡 東光陽市 光陽市
光陽郡