児玉就光
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天正18年4月12日(1590年5月15日) |
別名 | 通称:左衛門太郎、四郎兵衛尉 |
官位 | 豊前守 |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 児玉氏 |
父母 | 父:児玉就兼 |
兄弟 |
就光、就安、就吉、 女(内藤平右衛門室)、女(平佐就之室) |
子 |
元村、元房、女(内藤河内守室)、 女(長井元為室)、女(粟屋志摩守室)、 女(八幡原元直室)、女(桂因幡守室)、 女(児玉又兵衛室)、元理 |
児玉 就光(こだま なりみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。安芸国児玉氏の一族。経行系児玉氏の嫡流。父は児玉就兼で、子に元村、元房、元理。弟には児玉就安がいる。官途は父と同じ豊前守。
生涯
[編集]毛利氏の家臣である児玉就兼の子として生まれ、毛利元就、隆元、輝元の三代に仕えた。
天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦い、天文11年(1542年)の月山富田城の戦いに参加。毛利元就が大内氏からの独立した後は、天文23年(1554年)に厳島の戦いの前哨戦である、野間隆実が籠もる矢野城攻略や折敷畑の戦いにも出陣した。防長経略後の永禄9年(1569年)には周防国で起きた一揆の鎮圧にも出陣した。
また、就光は内政にも秀でており、毛利氏の奉行制度の中で政務を担当する番衆の1人に任ぜられている。