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八上王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

八上王(やかみおう、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族貴族臣籍降下後の氏姓は山科真人。天智天皇の玄孫で、無位湯原王の孫、市師王の子とする系図がある[1]官位従五位下内礼正

経歴

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天平神護3年(767年称徳天皇が「今、諸王を見ると年老いた者が多い。その中には働きを褒めるべきものや、あるいは朕が心中哀れに思う者がいる。そこで、それぞれの状態に従って位階を定める」というを発し、これにより篠島王広川王調使王鴨王壱志濃王田中王礒部王らとともに无位から従五位下直叙される[2]

それからしばらく動静が知られていないが、延暦元年(782年内礼正に任じられると、延暦5年(786年諸陵頭、延暦10年(791年)には内礼正に再任されるなど、桓武朝前半に京官を歴任した。

桓武朝末の延暦24年(804年)山科真人の氏姓を与えられて臣籍降下している。

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 宝賀[1986: 121]
  2. ^ 『続日本紀』天平神護3年正月18日条

参考文献

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  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年