コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

八重瀬岳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八重瀬岳
東から望む八重瀬岳
標高 163 m
所在地 日本の旗 日本沖縄県島尻郡八重瀬町
位置 北緯26度7分51秒 東経127度43分17秒 / 北緯26.13083度 東経127.72139度 / 26.13083; 127.72139 (八重瀬岳)座標: 北緯26度7分51秒 東経127度43分17秒 / 北緯26.13083度 東経127.72139度 / 26.13083; 127.72139 (八重瀬岳)
八重瀬岳の位置(沖縄本島内)
八重瀬岳
八重瀬岳 (沖縄本島)
八重瀬岳の位置(南西諸島内)
八重瀬岳
八重瀬岳 (南西諸島)
八重瀬岳の位置(日本内)
八重瀬岳
八重瀬岳 (日本)
プロジェクト 山
テンプレートを表示

八重瀬岳(やえせだけ[1])は、沖縄県島尻郡八重瀬町に位置する、標高163メートル

同町の最高峰で、町名の由来となった地で、北側は急崖をなす。沖縄戦では日本軍最後の防衛線が設定され、またアメリカ軍は八重瀬岳を「ビッグアップル (Big Apple)」と呼んだ。頂上に自衛隊基地が置かれ、中腹に整備された公園はの名所として知られる。

地理

[編集]

沖縄本島南部[1]、最高標高が163メートルの台地の北端にある[2]沖縄県島尻郡八重瀬町の中央に位置し[3]、同町の最高峰であり[4]、また町名の由来となった山である[5]。もとは、東風平町大字である「富盛(ともり)」と「世名城(よなぐすく)」に属していた[1]

八重瀬岳と西方の与座岳を含む一帯は石灰岩台地で、北にある断層により、北側は急崖、南側は緩やかな斜面をなす傾動地塊である[6]。北方は平地が比較的広がり[3]、南斜面に小丘状の石灰岩が並んでいる[7]地質は、新第三紀泥岩を構成する島尻層を基盤とし、その上部に第四紀琉球石灰岩が覆い、崖下に両層の不整合面が確認できる[8]

頂上部にマツが繁茂していたという[1]。八重瀬岳付近より南方一帯は、沖縄戦跡国定公園に指定されている[9]

歴史

[編集]

方言で「エージダキ」といい、『中山伝信録』には「八頭嶽」と記載され、『琉球国由来記』には「八重瀬嶽御イビ(四御前)」とある[1]。また富盛には「上の五御嶽」と「下の三御嶽」が存在していたと伝わり、前者の御嶽は八重瀬岳の窪地にあったという[1]

グスク時代から琉球王国時代

[編集]
富盛の石彫大獅子。八重瀬岳に向かって設置されている。

八重瀬岳北側の中腹に「八重瀬グスク(富盛グスク)」があり[10]、標高約110メートルに位置する[11]。面積は約4,200平方メートルで、「本殿跡」、「蔵当(クラントー)」、「物見台跡」と呼ばれる場所がある[10]。「本殿跡」の周囲をL字状に石垣野面積みで築かれ、また「蔵当」は「本殿跡」より高所に存在し[11]、岩山の「物見台跡」から東シナ海を遠望できる[12]。1976年(昭和51年)の調査では、グスク入り口近くに門跡、「蔵当」に掘っ立て柱建物の跡が発見され[11]時代の青磁白磁、ほかに銀貨ガラス玉も出土した[13]グスク時代末期に東風平一円を支配した八重瀬按司の居城とされ、また汪英紫が築いたとも伝えられ、さらに第一尚氏尚巴志の四男が八重瀬按司として居城していたといわれる[11]

富盛の石彫大獅子」は、富盛集落の外れにあり、石製の獅子が八重瀬岳に向かって設置されている[8]。『球陽』(尚貞王二一年条)によると、富盛では火災が多く発生し、久米村風水師に見てもらうと、八重瀬岳はをもたらすので、火返し(ヒーゲーシ)として獅子を八重瀬岳に向けて建たせるようにと告げた[14][15]。村人は教えに従って置くと、火事は起きなくなったという[14]。沖縄各地にも同じ目的で作製された獅子は存在するが[14]、全長約1.8メートル、高さ約1.4メートル、1689年(康熙28年)に設置された当獅子は、現存するもので最大かつ最古である[15]。1974年(昭和49年)12月2日に沖縄県指定文化財に指定された[14]

第二尚氏尚育王は沖縄本島南部を巡視した際、八重瀬岳に登り、周囲を見渡せる景色を讃えた琉歌が以下に残されている[16]

八重瀬見下しの野山うち続き空にたなびきゆるむらの霞
大意:八重瀬岳から見下ろすと、四方に野や山がうち続き、空には一むらがりの霞がたなびいて、のどかな景色だ。 — 尚育王、『琉歌全集』所収 [16]

第二次世界大戦

[編集]
八重瀬岳へ進むアメリカ軍兵士(1945年6月10日)

1945年(昭和20年)の沖縄戦における戦闘では、首里から撤退した日本軍の最後の防衛線であった[17]。八重瀬岳と与座岳の断崖は日本軍にとって防衛の要地であり、またアメリカ軍はそびえ立つ山容から「ビッグアップル (Big Apple)」と呼んだ[1][18]。5月下旬、日本軍の第32軍は首里から本島南端の摩文仁に司令部を移転、6月上旬には防衛線を八重瀬岳を主に具志頭から国吉戦線まで築き、独立混成第44旅団が陣を構えていた[19]。アメリカ軍の第24陸軍(英語版)は6月4日より攻撃陣地の確保を行い、戦闘ではある限りの火器が用意され、火炎放射戦車自走砲、さらに57mmまたは75mm無反動砲も使用された[18]。それに対し、独立混成第44旅団は様々な兵種の兵士で構成され、練度は低く、装備も不足していた[18]。6月9日に攻撃が本格的に開始され、同月14日にアメリカ軍の第381歩兵連隊により八重瀬岳頂上が占領された[19]

八重瀬岳に所在した第24師団第一野戦病院に、沖縄県立第二高等女学校の従軍学徒看護隊(通称「白梅学徒隊」)が配属された。1945年(昭和20年)3月末までの看護教育期間が設けられていたが、3月23日にアメリカ軍が上陸を見据えた攻撃を開始したため、その日に動員され、当初は兵舎で患者の看護を行っていた。しかし、アメリカ軍の攻撃が激しくなり、八重瀬岳中腹を掘ってつくられた壕内に野戦病院が移転した。患者約500人が収容可能であったが、次第に負傷した兵士で満員となったため、分院が開設された。6月4日、戦況悪化により野戦病院の解散命令が告げられ、一部の学徒隊は後の糸満市国吉に移動し、当地の壕にある野戦病院で負傷兵の看護に従事した。除隊した9人を除く白梅学徒隊46人のうち、沖縄戦で17人が死亡した[20]

戦後

[編集]

1955年(昭和30年)、アメリカ軍による八重瀬岳への軍用地接収に伴う測量実施の旨が、当時の東風平村へ通達された[21]。御嶽や拝所が点在する八重瀬岳は富盛の住民にとって神聖な場所であり、接収に反対したが[22]、1957年(昭和32年)に測量は完了、土地所有者に軍用地として占有することが通告された[23]

1973年(昭和48年)、国場組が八重瀬岳一帯にゴルフ場を建設するにあたって、東風平村との間で協定書を取り交わした[24]。1981年(昭和56年)に八重瀬公園が完成した[25]

2005年(平成17年)2月7日、東風平町・具志頭村合併協議会は合併後の町名を、八重瀬岳にちなんだ「八重瀬町」と決定した[26]。応募総数662点から選定されたが、理由として八重瀬岳は沖縄本島南部のシンボル的存在であり、また両町村にとって身近で、知名度が高いことが挙げられた[27]。翌年の2006年(平成18年)1月1日に両町村は「八重瀬町」として合併した[28]

2018年(平成30年)現在、当地には自衛隊基地のほか[29]、周辺に農地やゴルフ場が立地し[30][31]、付近の道路は沖縄県道15号線52号線に指定されている[31]

施設

[編集]
八重瀬公園

八重瀬公園

[編集]

八重瀬岳北側の崖下に位置し、八重瀬グスクを公園として整備した[8]。1978年(昭和53年)、公園整備に伴うグスクの発掘調査が先行され[32]、1981年(昭和56年)に完成した[25]。眺望はよく、首里まで望むことができる[33]。約900本のカンヒザクラが植えられ[34]沖縄本島北部より1 - 2週間遅く開花する[33]。「やえせ桜まつり」が毎年1月下旬から2月上旬にかけて開催され、本島南部のの名所となっている[34][35]

八重瀬分屯地

[編集]
詳細は「八重瀬分屯地」を、かつて周辺に存在した米軍基地は「与座岳・八重瀬岳の米軍基地」を参照。

陸上自衛隊那覇駐屯地に属し[29]、八重瀬岳頂上に位置する[1]。アメリカ軍の「与座岳第2陸軍補助施設」として使用され、1973年(昭和48年)から翌年にかけて返還され、1973年(昭和48年)に「与座分屯地」として設置されたが、2006年(平成16年)に「八重瀬分屯地」に名称が変更された[29]。付近には、同駐屯地の南与座高射教育訓練場があり[30]、また航空自衛隊に所属する与座岳分屯基地の受信所が八重瀬岳に設けられている[31]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h 「八重瀬岳」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.685
  2. ^ 「八重瀬岳」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.235下段
  3. ^ a b 「八重瀬町の地理的環境」、『八重瀬町の文化財』(2008年)、p.1
  4. ^ 「資料編 八重瀬町の位置・気候」、八重瀬町勢要覧編集委員会編(2009年)、p.2
  5. ^ 「まちのシンボル 「八重瀬岳」」、『八重瀬町勢要覧』(2009年)、p.3
  6. ^ 「与座岳」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.713
  7. ^ 「八重瀬岳」、目崎(1988年)
  8. ^ a b c 「八重瀬岳」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.236上段
  9. ^ 「沖縄戦跡国定公園」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.192下段
  10. ^ a b 大城慧「八重瀬グスク」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、pp.686 - 687
  11. ^ a b c d 「八重瀬グスク」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.237下段
  12. ^ 「八重瀬グスク」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.685
  13. ^ 「八重瀬グスク」、『日本歴史地名大系』(2002年)、p.238上段
  14. ^ a b c d 「富盛の石彫大獅子」、『八重瀬町の文化財』(2008年)、p.5
  15. ^ a b 知念善栄「地誌編 富盛〔東風平町〕」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.928
  16. ^ a b 「春の部(1469首目)」、島袋、翁長(1968年)、p.309
  17. ^ 平良宗潤「八重瀬岳」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、p.687
  18. ^ a b c 保坂広志「八重瀬岳の戦闘」、『沖縄大百科事典 下巻』(1983年)、p.687
  19. ^ a b 知念善栄「沿革 八重瀬岳の攻防」、『角川日本地名大辞典』(1986年)、p.926
  20. ^ 「第一野戦病院壕跡」、『八重瀬町の文化財』(2008年)、pp.64 - 68
  21. ^ 「八重瀬岳軍用地撤収と反対運動」、『富盛字誌』(2004年)、p.111
  22. ^ 「八重瀬岳軍用地撤収と反対運動」、『富盛字誌』(2004年)、p.112
  23. ^ 「八重瀬岳軍用地撤収と反対運動」、『富盛字誌』(2004年)、p.113
  24. ^ 「ゴルフ場建設に伴う協定」、『富盛字誌』(2004年)、p.145
  25. ^ a b 「八重瀬公園びらき」、『富盛字誌』(2004年)、p.153
  26. ^ 「新町名は「八重瀬」」『琉球新報』第34500号2005年2月8日、朝刊、1面。
  27. ^ 「新町名は「八重瀬」 に決定 47全協定項目に同意」『沖縄タイムス』第20110号2005年2月8日、朝刊、24面。
  28. ^ 「八重瀬町の歴史」、『八重瀬町勢要覧』(2009年)、p.5
  29. ^ a b c 「陸上自衛隊那覇駐屯地八重瀬分屯地」、『沖縄の米軍基地 平成30年12月』(2018年)、pp.327 - 328
  30. ^ a b 「陸上自衛隊那覇駐屯地南与座高射教育訓練場」、『沖縄の米軍基地 平成30年12月』(2018年)、pp.329 - 330
  31. ^ a b c 「航空自衛隊那覇基地与座岳分屯基地」、『沖縄の米軍基地 平成30年12月』(2018年)、pp.316 - 317
  32. ^ 「八重瀬グスク」、『八重瀬町の文化財』(2008年)、p.60
  33. ^ a b 「花を愛でる旅 八重瀬公園(八重瀬町)」、『美ら島 2009年版』(2010年)、p.108
  34. ^ a b 「八重瀬のまつりイベント」、『八重瀬町勢要覧』(2009年)、p.32
  35. ^ 「八重瀬公園(八重瀬町)」、『美ら島 2009年版』(2010年)、p.366

参考文献

[編集]
  • 沖縄県知事公室基地対策課編『沖縄の米軍基地 平成30年12月』沖縄県知事公室基地対策課、2018年。 
  • 沖縄大百科事典刊行事務局編『沖縄大百科事典沖縄タイムス社、1983年。 全国書誌番号:84009086
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典 47.沖縄県』角川書店、1986年。ISBN 4-04-001470-7 
  • 財団法人沖縄観光コンベンションビューロー編『美ら島 2009年版』沖縄観光コンベンションビューロー、2010年。ISBN 4-903972-02-X 
  • 島袋盛敏、翁長俊郎共著『琉歌全集:標音評釈』武蔵野書院、1968年。ISBN 4-8386-0026-7 
  • 富盛字誌編集委員会編『富盛字誌』東風平町字富盛、2004年。 全国書誌番号:20591692
  • 平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系第四八巻 沖縄県の地名』平凡社、2002年。ISBN 4-582-49048-4 
  • 目崎茂和『南島の地形 - 沖縄の風景を読む -』沖縄出版、1988年。ISBN 4-900668-09-5 
  • 八重瀬町教育委員会社会教育課編『八重瀬町の文化財』八重瀬町教育委員会〈八重瀬町文化財要覧第1集〉、2008年。 
  • 八重瀬町勢要覧編集委員会編『八重瀬町勢要覧 2009 響け 八重瀬のくくる』八重瀬町役場、2009年。 

外部リンク

[編集]