内河正吉
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文21年(1552年) |
死没 | 寛永19年9月10日(1642年10月3日) |
別名 | 伝次郎、七左衛門 |
戒名 | 日用 |
墓所 | 閑応寺(山梨県甲府市) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 武田信玄、勝頼、徳川家康 |
氏族 | 藤原氏流内河氏 |
子 | 吉次、正信、長沢角左衛門室、水原親斎室 |
内河 正吉(うちかわ まさよし)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。武田氏、次いで徳川氏に仕える。
生涯
[編集]正吉が内河氏を始めて称す。武田信玄・勝頼の2代に仕えたが、天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると徳川家康に属す。以後は同じく徳川氏に属した蘆田信蕃に従い、同年に起きた天正壬午の乱では信濃国で真田氏、甲斐国で後北条氏と戦った。戦後、この功を称されて家康より信濃国内に100石を与えられる。信蕃の死後はその兵を引き継いだ柴田康忠の麾下となり、諏訪高島城に在番して小笠原氏と戦った。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には諏訪衆を代表して小牧山城に出頭し、諏訪衆の参陣を願ったが許されなかった。天正13年(1585年)上田合戦では敵将の首を挙げた。天正16年(1588年)高島城在番の任を解かれ、天正18年(1590年)小田原征伐にも従軍した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際には徳川秀忠の軍に属す。慶長18年(1613年)甲斐国内の旧領に復帰、ただし信濃国の旧領は武蔵国足立郡に代替地を与えられた。慶長19年(1614年)大坂冬の陣に際しては戸田尊次に属して岡崎城を守備。のち甲府城番に移った。元和2年(1616年)に致仕、家督と甲府城番の任は子の吉次が継承した。
出典
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第1199