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内藤元友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤元友
時代 江戸時代初期
生誕 慶長7年(1602年
死没 寛文4年9月12日1664年10月30日
別名 通称:与四郎→雅楽助→清兵衛尉→五郎右衛門尉
主君 毛利秀就就隆→秀就→綱広
下松藩長州藩
氏族 藤姓安芸内藤氏
父母 父:内藤元泰、母:市川元好の娘
兄弟 広泰、女(児玉元道室)、元幸元友恒安吉盛
友幸
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内藤 元友(ないとう もととも)は、江戸時代初期の人物。毛利氏の家臣で、長州藩士。

生涯

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慶長7年(1602年)、内藤元泰の三男として生まれる。慶長10年(1605年毛利輝元から加冠を受け、元の偏諱を与えられた。慶長13年(1608年)に父が死去すると、その隠居料40石を相続した。

毛利秀就の命により毛利就隆の家臣として付けられ、就隆によって慶長18年(1613年)には雅楽助、元和5年(1619年)には清兵衛尉に任じられた。しかしその後、就隆から暇を下されて浪人となったため、秀就に召し返されて知行を与えられ、以後は長州藩士として仕えた。正保2年(1646年)には毛利秀就から五郎右衛門尉仮名を与えられている。

寛文4年(1664年)に63歳で死去し、子の友幸が跡を継いだ。

参考文献

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