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内藤元忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤元忠
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 寛永2年5月2日1625年6月6日
改名 内藤宮菊丸(幼名)→内藤元忠→林元忠→内藤元忠
別名 通称:平次郎→仁左衛門尉→左近允→左衛門尉
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 藤原北家秀郷流内藤氏林氏内藤氏
父母 父:内藤隆春、母:阿座上盛豊の娘
養父:林元尚
兄弟 女(益田藤兼継室)、河原殿吉見広頼継室)、綾木大方内藤元盛室→山内元如室)、女(湯二郎左衛門尉室)、奥林(勝間田就盛室)、女(三田吉右衛門尉室)、元家元忠親春
正室:林元尚の娘
継室:村上景親の娘
林元助元俊
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内藤 元忠(ないとう もとただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。父は毛利氏の重臣・内藤隆春[1]。母は内藤氏家臣・阿座上盛豊の娘[1]。一時期、林元尚の婿養子となって「林仁左衛門尉」と名乗ったが、兄・内藤元家の死に伴い、内藤家に戻って家督を継いだ[2]

生涯

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毛利氏重臣・内藤隆春の次男として生まれ[1]毛利輝元秀就の二代に御手廻(側近)として仕える[2]

林就長の弟である林元尚が嫡男のいないまま死去すると、元尚の一人娘と婚姻し、婿養子となって「林仁左衛門尉」と名乗った[2]

慶長17年(1612年6月15日、兄・内藤元家が嫡男のいないまま病死すると、外戚でもある内藤家が断絶することを憂えた輝元の計らいにより、元忠が内藤家に戻って元家の後を継いだ[1][2]。内藤家に戻った元忠は通称を「左近允」と改め、後に「左衛門尉」と名乗る[1]。なお、林家は元忠の嫡男である正助が継いでいる[2]

元和3年(1617年12月13日、秀就から諸役目についての法度を与えられる[3]

寛永2年(1625年5月2日に死去[1][2]。次男の元俊が14歳で後を継ぎ[2]、同年8月13日長門国美祢郡伊佐村の内の1620石と阿武郡高佐村の内の180石の合計1800石を与えられている[4]

系譜

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 189.
  2. ^ a b c d e f g h i j 『閥閲録』巻99「内藤小源太」家譜。
  3. ^ 『閥閲録』巻99「内藤小源太」第30号、元和3年(1617年)12月23日付、内藤左衛門尉(元忠)宛て毛利秀就書状。
  4. ^ 『閥閲録』巻99「内藤小源太」第31号、寛永2年(1625年)8月13日付、益田元祥清水景治宍道元兼連署状。

参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 萩藩閥閲録』巻99「内藤小源太」