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内野吾郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
内野 吾郎
人物情報
生誕 (1914-01-01) 1914年1月1日
日本の旗 日本神奈川県高座郡御所見村(現・藤沢市
死没 (1985-12-15) 1985年12月15日(71歳没)
日本の旗 日本
肝不全
腎不全
国籍 日本の旗 日本
出身校 國學院大學
学問
時代 昭和
研究分野 国文学
研究機関 國學院大學
学位 文学博士
主要な作品 #著書
主な受賞歴 従四位勲三等瑞宝章
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内野 吾郎(うちの ごろう、1914年1月1日 - 1985年12月15日)は、日本国文学者國學院大學名誉教授

略歴

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神奈川県高座郡御所見村(現・藤沢市)に生まれる。

昭和7年(1932年)に芝中学校を卒業、昭和12年(1937年)に國學院大學国文学科を卒業。

昭和22年(1947年)に北海道第二師範学校教授、昭和25年(1950年)に北海道学芸大学(現・北海道教育大学)教授。昭和36年(1961年)に「日本文芸史の方法序説:その学史的展望と諸学派の批判」で國學院大學より文学博士学位を取得。昭和38年(1963年)に國學院大學教授。

昭和43年(1968年)に西ドイツボン大学客員教授として招聘される。昭和45年(1970年)に帰任。昭和50年(1975年)に國學院大學日本文化研究所所長。

昭和59年(1984年)に定年退職、國學院大學名誉教授となる。

昭和60年(1985年)に肝不全腎不全のため死去。昭和61年(1986年)に従四位勲三等瑞宝章が贈られる。

業績

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日本文学史、特に国学をめぐる文学史が専門。本居宣長らの学問を「国学」、それを批判的に継承した柳田國男折口信夫の学問を「新国学」と位置づけた。

エピソード

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  • 大声の持ち主で、弁舌が巧みであった。
  • は一滴も飲めなかったが、なぜか宴席にはとけこんでいた。
  • 愛称は「内野(ないや)ゴロ」。巨人の大ファンだった。

著書

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  • 『日本文芸史考』函館人文学会、1954年。
  • 『説話文学要解:今昔物語宇治拾遺物語十訓抄古今著聞集』有精堂出版〈文法解明叢書〉、1955年。
  • 『宇治拾遺物語要解』有精堂出版〈文法解明叢書〉、1958年。
  • 『日本文芸概論』白帝社、1966年。
  • 『日本文芸研究法:文芸学の方法序説』桜楓社、1972年。
  • 『日本文芸史素描:古代・中世編』白帝社、1972年。
  • 『文芸学史の方法:国学史の再検討』桜楓社、1974年。
  • 『民族と文化の発見』戸田義雄共編、大明堂、1978年。
  • 『江戸派国学論考』創林社、1979年。
  • 『新国学論の展開:柳田・折口民俗学の行方』創林社、1983年。
  • 『日本文芸研究史』桜楓社、1984年。
  • 『日本文学通史:古典篇』編、おうふう、1993年。
  • 『江戸派国学論考:学派の形成とその社会圏』アーツアンドクラフツ、2002年。

参考文献

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  • 『古稀の横顔―内野吾郎素描集』内野吾郎先生古稀記念実行委員会 1984年
  • 『うつし世の縁』内野吾郎先生追悼文集刊行会 創林社 1986年
  • 安東璋二「内野吾郎先生と函館国語会」「函館国語」第二号 1986年11月