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分部信秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
分部信秋
時代 江戸時代前期
生誕 延宝3年(1675年
死没 元禄9年9月19日1696年10月14日
別名 辰千代[1]、右近(通称)[1]
戒名 水月院善応恵現[1]
墓所 東京都港区高輪の東禅寺
近江大溝藩世嗣
氏族 分部氏
父母 父:分部信政 母:伊東祐由[1]
兄弟 信秋光忠河鰭実詮室、伊東祐崇正室ら
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分部 信秋(わけべ のぶあき)は、江戸時代前期の近江国大溝藩世嗣。

生涯

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延宝3年(1675年[1]、4代藩主・分部信政の長男として誕生[1]。母は飫肥藩伊東祐由(祐次)の娘[1]

元禄2年(1689年)4月21日、15歳で徳川綱吉御目見する[1]。しかし、元禄9年(1696年)9月19日、父に先立って没した[1]。享年22[1]。高輪の東禅寺に葬られた[1]

同母弟の四郎五郎も早世しており[1]、信秋死後の元禄11年(1698年)に生まれた側室所生の三弟・光忠が正徳4年(1714年)に大溝藩を継ぐこととなる[1]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.7

参考文献

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