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初恋 (1952年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初恋
Secret People
監督 ソロルド・ディキンスン
脚本 ソロルド・ディキンスン
ウォルフガング・ウィルヘルム
製作 シドニー・コール
製作総指揮 ハル・メイスン
出演者 ヴァレンティナ・コルテーゼ
セルジュ・レッジャーニ
オードリー・ヘプバーン
音楽 ロベルト・ジェラール
撮影 ゴードン・ダインズ
編集 ピーター・タナー
製作会社 イーリング・スタジオ
配給 イギリスの旗 ジェネラル・フィルム・ディストリビューターズ
アメリカ合衆国の旗 リパート・ピクチャーズ
日本の旗 N.I.C.映画(66年初公開時)
日本の旗 HRSフナイ(93年リバイバル時)
公開 イギリスの旗 1952年2月5日
日本の旗 1966年2月20日(京阪神地区)
上映時間 96分
製作国 イギリスの旗 イギリス
言語 英語
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初恋』(はつこい、Secret People)は、1952年イギリス映画モノクロ。『ローマの休日』以前のオードリー・ヘプバーンがバレリーナ役として踊る姿が見られる。ヘプバーンはメイン・タイトルでは3番目、エンド・タイトルでは4番目にクレジットされ、これまでで最も大きな役で出演している。

あらすじ

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1930年、ロンドン。幼くして両親を失った姉妹マリアとノラは、父の親友アンセルモに引き取られ、彼の経営するレストランを手伝いながら成長していく。

1937年。アンセルモは、姉妹を連れてパリ万博へ向かった。アンセルモが万博へ向かうのには理由があった。独裁者ガルバン将軍の暗殺である。彼はそのために結成された秘密結社の一員であり、姉妹の父もまたかつては同志で、万博会場でマリアが7年ぶりに再会した恋人ルイもそうであった。

出発直前、マリアはルイから小さなバッグをプレゼントされた。喜んだマリアがバッグを開くと、中にはもうひとつのプレゼントが入っていた。それは、爆弾入りのシュガレットケースだった…。

スタッフ

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  • 製作:シドニー・コール
  • 監督 : ソロルド・ディキンスン
  • 脚本 : ソロルド・ディキンスン、ウォルフガング・ウィルヘルム
  • 製作指揮:ハル・メイスン
  • 撮影:ゴードン・ダインズ
  • 美術:ウィリアム・ケルナー
  • 音楽:ロベルト・ジェラール
  • 演奏:フィルハーモニア管弦楽団
  • 指揮:アーネスト・アービング
  • 振付:アンドレ・ハワード

キャスト

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※括弧内は日本語吹替(初回放送1968年6月20日『木曜洋画劇場』)

製作

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『初恋』に関しては、若き日のリンゼイ・アンダーソンが製作開始から完成までを時間の経過に沿って記録し、本として出版している[1]

『初恋』の企画は元々1947年ごろには出来ていた企画であった[2][3]。ソロルド・ディキンソンとシドニー・コールは夕刊紙でオードリー・ヘプバーンの写真を見てから『ソース・ピカント』に出ているヘプバーンを実際に見に行き、妹ノラ役にヘプバーンをと考えていた[2][1][4]。ただし、ディキンソンはヘプバーンを気に入ったものの、姉のマリア役に予定されていたレア・パドヴァーニもルイ役のセルジュ・レッジャーニも背が低かったため、バレリーナとしても妹役としても背が高すぎると考えていた[3]。ところが契約上の衝突からレア・パドヴァーニが役を降りることになり、少し背の高いヴァレンティナ・コルテーゼがマリア役になった[3][2]

撮影は1950年11月10日に開始されたが、ノラ役はまだ決まっておらず、何人もの候補者が不合格になっていた[1]。しかし、振付師でもあり、かつてヘプバーンが通っていたバレエ教室のマリー・ランバートと組んでいたアンドレ・ハワードがこの映画に関わっており、ヘプバーンの抜擢を監督に説得し続けていた[3]。1951年2月15日にノラ役のカメラ・テストがイーリング・スタジオで始まった[2][3]。コルテーゼは「テストを受けた女の子が4人いた」と語っている[1]。「バーの所にいる長い首と大きな目を持ったかわいい女の子(ヘプバーン)が私の目にとまった。私は監督の所に行って、『ねえ、あの子を妹に欲しいわ』と言うと、監督は『ほかの女の子たちも見てみたい』と答えた。そこで私は言った。『いいえ、お願いよ、私はあの子が欲しいの』って。」[1]。23日の二度目のテストの時に、コルテーゼは身長差が目立たないようにヘプバーンに靴を脱がせて、自分は爪先立って演技した[4][2]。また一流のバレエ・ダンサー、ジョン・フィールドの代役とダンス・シーンのテストを受け[3]、3日後ヘプバーンはハワードからノラ役に決定したことを知らされた[3][2][1]

バレエ・シーンを撮る劇場は恐ろしく寒く、湿気も高かった[3]。ヘプバーンはセーターを3枚も重ね着してタイツにレッグ・ウォーマーも着けてリハーサルしていたが、それでも鳥肌が立っていた[3]。リハーサルは9日間も続いた[5][3]

3月19日にバレエシーンのリハーサルがやっと終わったと思ったら、劇場に突然予約が入り、あと2日で取り終わらなければならないことになった[3]。ディキンソンはインフルエンザに罹っており、咳き込み鼻をすすっている状態で監督した[3][2]。劇場の冷え込みはこれまで以上に厳しかった[3]。観客役のエキストラも朝の8時半にコートも着ずに出演しなければならず、ヘプバーンは薄いバレエ衣装だけで踊らねばならなかった[3]。日頃から鍛えているジョン・フィールドでさえ笑顔を見せるのに努力を要するような状況であった[3]フィルハーモニア管弦楽団は4、5分の曲を1日中演奏し、ヘプバーンとフィールドは何十テイク分も踊った[3]。合間をぬっては楽屋に駆け込み、電気ヒーターで手を暖め、簡単なマッサージを受けて慌てて舞台に戻っていった[2][3]。クレーンで移動しながら撮っていたが、クレーンの動きが悪く初めから撮り直しになったり、ヘプバーンが寒さで震えているのが写ってしまいNGになったり、ピルエットをしていたフィールドのカツラが飛んでしまい撮り直しになったりした[3][2]

翌日、何としてもその日のうちに撮り終えなければならなかったが、とても仕事ができる状態ではなかった監督がやっと到着すると、前日の分は気に入らないので、もう一度始めからやり直すと宣言した[3][2]。またしても悲惨な1日を費やして、真夜中近くにやっとバレエシーンを撮り終えた[3][2]

『初恋』はラフ・カットではほぼ2時間の長さであったが、そのうちの20分が1951年11月の試写の前にカットされた[1]

エピソード

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  • 1966年の日本初公開時には“初恋(ファースト・ラブ)”と副題が付いていた[6][7]。1993年リバイバル時には副題は無くなっている。
  • ビデオ、レーザーディスク、DVD発売時には脇役ながらタイトルに『オードリー・ヘプバーンの』という言葉が付けられている。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g バリー・パリス『オードリー・ヘップバーン 上巻』集英社、1998年5月4日初版発行、124-126,128-129頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k アレグザンダー・ウォーカー『オードリー リアル・ストーリー』株式会社アルファ・ベータ、2003年1月20日初版発行、75-79頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t チャールズ・ハイアム『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』近代映画社、1986年3月15日初版発行、44-50頁。 
  4. ^ a b イアン・ウッドワード『オードリーの愛と真実』日本文芸社、1993年12月25日初版発行、104-105頁。 
  5. ^ ジェリー・バーミリー『スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン』シンコー・ミュージック、1997年6月13日初版発行、25頁。 
  6. ^ 『シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン』芳賀書店、1971年12月20日初版発行、108頁。 
  7. ^ 『デラックスカラーシネアルバム1 オードリー・ヘプバーン』芳賀書店、1974年12月20日初版発行、98頁。 

外部リンク

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