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利用者‐会話:みっち/フォーレの記事への加筆案

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これは、個人的な印象かもしれないので、主張というわけではありませんが、汲平さんの案で「内声に重点」「後期の音楽が晦渋」という点について、ちょっと引っかかっていることを書きます。フォーレの音楽は、初期に見られる装飾音やきらびやかなアルペジオなど外面的要素が次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法に変化しています。これは汲平さんも指摘しておられることですが、ひとつひとつの音を保ちながら和声をより流動的に扱うようになったり、ユニゾンを多用したり、ということがあります。晩年は耳の障害もあって、扱う音域も狭くなっていきます。そうしたなかで、フォーレは確かに内声を重視していますが、あくまでそれは、最初に述べた、息長く、流動的に音楽を扱うなかでの話(こちらが「主」とでもいうか)のような気がします。また、後期ロマン派以降の室内楽で内声重視というのは、すでにブラームスがあり、フォーレに限った話でもありません。これらの点で、あまり内声重視の点を強調することと、そのことで「内声の重視」=「晦渋」というふうに読めてしまう(私だけかも)のは、少しずれているような気がするのです。いいたいことがうまく書けなくて申し訳ありません。--みっち 2005年8月15日 (月) 02:17 (UTC)[返信]

私が意図したのは、分かってくださっているとは思いますが、「内声の重視」=「晦渋」ということではなくて、和声を流動的に扱うため半音階的進行が多用される内声部に重心が移ることで調性感が希薄になり、その結果、晦渋な表現になってしまっているということなのですが、ご指摘のように読めてしまうということですと、修正が必要かも知れません。あとみっちさんの会話ページでご指摘いただいたことでは、「至高をめざす普遍性」という言葉はわかりにくいように思いました。調性と旋法性の融合は3段落目を「・・・ドビュッシーらには中途半端で大衆迎合的に映ったのであろう。しかし、調性と旋法性の融合という点において、フォーレの精緻な和声には独自性が認められる。フォーレが創り出す響きは、部分的には、時に無調との限界に触れるほどであり、・・・」とするのでいかがでしょうか?--汲平 2005年8月15日 (月) 04:44 (UTC)[返信]
おそらく、同じことを違う言葉で表現していることで、ニュアンスについて少々好みが分かれる結果になっているのかもしれません。気になさらないでください。「至高をめざす普遍性」は、サロン音楽の対語あるいは止揚的表現で、私にとってはこれこそフォーレの特徴といいたいところですが、たしかにこれだけでは抽象的すぎますね。あきらめます。「調性と旋法性の融合」は了解です。--みっち 2005年8月15日 (月) 05:08 (UTC)[返信]

アール・ヌーヴォーとプルースト[編集]

この際なので、以前から疑問におもっていたことを。 「この点で、同じくアール・ヌーヴォーの時代に属する文学者、マルセル・プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたことは象徴的といえよう。」これは正直意味がわかりません。わたしには同時代性以上のことをいっている文章にみえません。

  • Art Nouveaxは美術様式であって、ここでProustが出てくることは唐突に思います。関連性をいうなら、Art Nouveaxの作家とFaureの関係をいうべきではないのでしょうか(あるかどうかは存じません)
  • またProustが「Art Nouveau」と関係があると言い切ることは妥当なのかどうか、疑問も残ります。私はフランス文学は知りませんので、そのような評論や指摘があるならそれを挙げていただくのがよいかと思います。

横からで失礼します。それでは。--Aphaia 2005年9月7日 (水) 05:03 (UTC)[返信]

ご指摘の部分は、われながら気になっていたところです。改訂によってアール・ヌーヴォーとの関連を補強したので、プルーストのくだりの「唐突感」は弱まっていると思います。とはいえ、アール・ヌーヴォー(art nouveau)が文学や音楽とどう関係あるの?という疑問は持たれるかもしれないと思っていました。そこで、「そのような評論や指摘がある」という形で記述を直してみました。一部引用していますが、いかがでしょう。あと、プルーストとアール・ヌーヴォーとの関係ですが、この時代のフランスの文学者については、私もジッドやアナトール・フランスの邦訳を読んだことがある程度(他にはヴァレリー、クローデルなどが挙げられるようです。)なので、多くを語ることができませんが、一般には、プルーストはアール・ヌーヴォーに彩られたサロンの寵児として出発し、その時代の美術や風俗、演劇などの魅力を描いたように紹介されているのではないでしょうか。このあたりは、詳しい方のご意見も伺いたいところです。ヴェルレーヌやプルースト以外に、フォーレがどのような画家や文学者のサロンに出入りし、交わったかは、ネクトゥーの『評伝フォーレ』に列記されています。私には聞いたことのない名前ばかりですし、これでなにがいえるかわかりませんが、挙げておきます。ロジェ・ジュルダン、エルンスト・デュエズ、エマニュエル・ジャダン、ユジェーヌ・ボニー、ジャック=エミール・ブランシュ(以上画家)、エドモン・アロクール、アンドレ・ボニエ、ユジェーヌ・デクタル(以上文学者)。--みっち 2005年9月8日 (木) 01:33 (UTC)[返信]

上で挙げられていることは「プルーストがアール・ヌーヴォーの作家たちと個人的な交流を持った」ということで、プルーストの作品とアール・ヌーヴォーに様式的な関係があるという意味には直接にはならないように思いますが、いかがでしょうか。--Aphaia 2005年9月8日 (木) 05:17 (UTC)[返信]

で、記述を読む限りでは、ネクトゥーさんというかたが、アール・ヌーヴォーを独自に拡張した上でそういうことをいっているという風に印象を受けます。いま少し資料をあたりなおしてみましたが、アール・ヌーヴォーというのはやはり装飾美術についていう概念で(ポスターなどにも適応されますが)、文学、音楽に適応する言い方というのは美術の側からは少し見つけづらいように思います。いまの記述では、アール・ヌーヴォーの中心的な理解がそこにあるかのようなので、やや強すぎる言い方のように感じます。--Aphaia 2005年9月8日 (木) 05:31 (UTC)[返信]

プルーストとアール・ヌーヴォーとの「様式的関係」は、今回の改訂では「そういう説がある」としているに過ぎず、これ以上強調すべきことでもないと思うので、述べません。なお、ネクトゥーは、フォーレ関係の著作やレクイエムのクリティカル・エディションを手がけたりしているフォーレ研究の第一人者として知られるだけでなく、プルーストやアール・ヌーヴォーなどこの時代の研究家でもあり、彼の説が独自のものだと言い切れるかどうかは、少し慎重になってもよいのではないかと思います。後段部分は、Aphaiaさんのご意見を受けて、もう少し抑えた記述となるように加筆案をさらに修正してみました。--みっち 2005年9月8日 (木) 06:49 (UTC)[返信]
少し手を入れてみました。論文を読んでいないので意図をはずしているかもしれません。ご査読をお願いします。ただ、誰かの説を紹介するというならこの部分はもっと後のほうに持ってくるほうが落ち着くかもしれないと思いました。第一人者が主張する説がかならずしも学界で広範に受け入れられた説ではないということはままあるので(先駆者というのはそういうものでしょう)、百科事典というのは、教科書と同じく、もう少し保守的であってもよいのではないかと思います。--Aphaia 2005年9月8日 (木) 08:27 (UTC)[返信]
どうもありがとうございます。「興味深い」はまずいだろう、と書いたあとで思っていました^^;。部分的に直している間に、全体的に中途半端な感じになってきたので、文量配分も意識して、加筆・組み替えしました。アール・ヌーヴォーのところはもう少し削って最後に持ってきました。これにこだわっているわけではありませんので、全面削除も一考しましたが、紹介する意義はあると考えて残します。あと、「変遷」については、夜想曲や舟歌の区分けをよく確認していないこともあり、もう少し精査が必要かと思います。百科事典が保守的であることについては、大いに結構なことです。--みっち 2005年9月9日 (金) 02:06 (UTC)[返信]
拝読しました。本人の記述の後、他の作家との関係をいうことで、明快な構成になったと思います。ところで書簡からの引用がありますが、これはみっちさんがご自分で訳されたものでしょうか。そうでないなら、著作権法との関係で、翻訳者の名や書簡集の書名を挙げる必要がある、少なくとも望ましいように感じますが、いかがでしょう。これはネクトゥー氏の説についても同様です。本文におりこまないまでも、文末に参考文献として書名を挙げる必要があるのではないでしょうか。--Aphaia 2005年9月9日 (金) 03:55 (UTC)[返信]
基本的に了解いただけたということで、感謝申し上げます。なお、汲平さんから構成について助言もいただいており、もう少し検討したのち、本記事と差し替えたいと思います。引用について、参考文献として挙げることは了解しました。本記事に「関連書籍」として紹介されているものがほとんどですが。--みっち 2005年9月9日 (金) 05:12 (UTC)[返信]
参考にさせていただきました。[編集]

フォーレ作品はピアノ曲の場合暗譜が大変です。背景の作風・事情に関心がないと理解できません。安川加寿子はこうした現状を憂慮して極力右ペダルを使わないようにと指導していました。結局一つ一つの音を聞きながら落ち着いて演奏すべきなのでしょう。人物と作品とを切り離して考えないほうが理解も早いようです。--直ちゃん 2007年5月9日 (水)