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利用者:みっち/フォーレの記事への加筆案

再修正案[編集]

音楽史的な位置[編集]

フォーレは、リストベルリオーズブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、微分音十二音技法による無調などが提唱されていたころに晩年を迎えている。なかでも、調性崩壊の引き金を引いたワーグナーの影響力は絶大で、同時代の作曲家は多かれ少なかれ、ワーグナーにどう対処するかを迫られた。

こうした流れのなかで、フォーレの音楽は、折衷的な様相を見せる。ワーグナーに対しては、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、歌劇『ペネロープ』でライトモチーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、その亜流とはならなかった。形式面では、サン=サーンスの古典主義に引きこもることはしなかったが、その作品形態は当時の流行を追わず、古典主義的な楽曲形式を採用した。調性においては、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。

このように、フォーレは音楽史上に残るような新たな様式を打ち立てたり、「革新」をもたらしてはいない。また、フォーレの音楽は、劇的表現をめざすものではなかったので、大規模管弦楽を擁する大作は必然的に少ない。ただし、和声の領域では、フォーレはシャブリエとともに、ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しといえる存在であり、19世紀と20世紀をつなぐ役割を果たしている。とくに、調性と旋法性の融合という点において、フォーレの和声には独自性が見られる。

フォーレの音楽の変遷[編集]

フォーレの音楽は、便宜的に初期・中期・晩年の三期に分けられることが多い。初期の代表作として、ヴァイオリン・ソナタ第1番(作品13)やピアノ四重奏曲第1番(作品15)があるが、この時期の作品は親しみやすく、とくにヴァイオリン・ソナタ第1番は、フォーレの全作品中おそらくもっとも演奏機会の多い曲である。夜想曲では第1番から第5番、舟歌では第1番から第4番が相当する。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られるが、この時期のそれは、もっぱら音色の効果や装飾性の域を脱するものではない。チェロとピアノのための『エレジー』(作品24)では、中期を予想させる精神性がかいま見られる。

フォーレの中期あるいは第二期は、ピアノ四重奏曲第2番(作品45)、『レクイエム』(作品48)、『パヴァーヌ』(作品50)などが作曲された1880年代の後半から、ピアノ五重奏曲第1番(作品89)が完成した1900年代前半までと見られ、他に『主題と変奏』(作品73)、『ペレアスとメリザンド』(作品80)などがある。夜想曲では第6番から第8番、舟歌では第5番から第7番が相当する。初期の曲に見られる、輝かしく外面的な要素は、年を経るに従って次第に影を潜め、より息の長い、求心的で簡素化された語法へと変化していく。初期の音楽と比べて、これをフォーレの「後退」とみる評者もある。また、ひとつひとつの音を保ちながら、和声をより流動的に扱うことにより、拍節感は崩れ、内声部は半音階的であいまいな調性で進行するようになる。こうした微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。

歌劇『ペネロープ』やヴァイオリン・ソナタ第2番(作品108)が作曲された1900年代後半からは、晩年と見られる。夜想曲では第9番以降、舟歌では第8番以降。耳の障害が始まり、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく。しかし、この時期の一連の室内楽作品は、壮大な規模と深い精神性を湛えた傑作群である。ピアノ五重奏曲第2番(作品115)やピアノ三重奏曲(作品120)では、冒頭にピアノによるアルペジオが見られるが、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型であり、弦のユニゾンもまた、抽象的な高みへの追求あるいは収斂性として働いている。最晩年に作曲された弦楽四重奏曲(作品121)は、唯一ピアノを含まない室内楽作品であるが、輪郭のはっきりとしたピアノの打音が退けられた結果、音楽はより幽玄な情緒を帯びており、ときに晦渋な作風を印象づける。

アール・ヌーヴォーとの関連[編集]

フォーレ研究家として知られるジャン=ミシェル・ネクトゥーは、著書『ガブリエル・フォーレ』のなかで、同時代の文学者マルセル・プルーストがフォーレの音楽に魅了されていたとし、プルーストとフォーレをともにアール・ヌーヴォーに属する芸術家として位置づけた上で、「そのまがりくねり互いに絡み合った長いフレーズと常時現れる花にまつわる主題は、まさに1900年の芸術を象徴するものである。」と述べている。

一般に、アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭の装飾美術・デザインに適用される様式概念であり、ネクトゥーの説はこれを文学、音楽に敷衍させたものといえる。この指摘は、アール・ヌーヴォーのもつ装飾性や、コントラストでなく曲線重視といった表現性を、フォーレの音楽性と通じるものとしてみている。この観点からは、フォーレの別の側面が見えてくることも事実である。装飾的な音型がメロディーに同化している点で、初期の歌曲『夢のあとに』がまず挙げられる。さらに、「舟歌」をはじめとして、アルペジオへのフォーレの傾斜は、晩年まで見られる特徴である。ただし、「装飾音」であっても、その効果あるいは意図するところは、すでに述べたように、初期と晩年では相当に違っている。

フォーレは「サロン音楽」の作曲家か[編集]

フォーレは、当時のサロンで受け入れられたため、ドビュッシーを初めとして、フォーレの作品を「サロン音楽」と矮小化して受けとめる風潮も現在まで存在する。もちろん、フォーレの音楽に、サロンで受け入れられるべき要素が含まれていることは否定できない。とはいえ、フォーレの音楽は、とくに中期から晩年にかけてのそれは、規模の小さな作品においても、ただ柔らかく上品で、洗練されているというだけで終わってはいない。ごく自然に流れる音の流れが、実は伝統的なあらゆる手法を駆使した、独自の緻密な構成によっている。

1906年に、フォーレは妻にあてた手紙でピアノ四重奏曲第2番のアダージョ楽章について触れ、「存在しないものへの願望は、おそらく音楽の領域に属するものなのだろう。」と書いている。また、1908年には次男フィリップに「私にとって芸術、とりわけ音楽とは、可能な限り人間をいまある現実から引き上げてくれるものなのだ。」と書き残している。このように、フォーレの音楽には、現実を超えた高みへの憧れが盛り込まれ、これに耳を傾ける者の感動を誘うのである。

フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を残している。「私がこの世を去ったら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ……。」

汲平さんの統合案[編集]

フォーレは、後期ロマン派音楽が爛熟を迎えリストベルリオーズヨハネス・ブラームスが成熟した傑作を生み出した時代に音楽を学び、古典的調性が崩壊し、多調・微分音十二音技法といった無調音楽へ向かう音楽史の歩みのただ中に身を置いていた。この流れの引き金を弾いたワーグナーの影響は強力で、同時代の作曲家の一人としてフォーレもその力から逃れることはできなかった。多くの作曲家が次の一歩を模索し、既述の流れができあがりつつある中、フォーレは折衷的な音楽に徹する。その創作は、半音階的であいまいな調性で進行する内声部に、調性的・旋法的で簡素な、そしてそれにもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというものであった。こうした作風は歌曲、室内楽、ピアノ曲といったインティメイトな楽曲分野で効果的に表現される。また、内声部に重点が置かれたこうした音楽は思索的・内省的な音楽となり、それは同時代の美術・文化史上の潮流であるアール・ヌーヴォーとも合致するものであった。文学者マルセル・プルーストがフォーレの音楽に耽溺したことは象徴的である。

フォーレの内声に重点を置いた作風は、創作初期からの特徴であるが、聴覚障害が明らかとなる1903年以降その傾向は一層強くなる。フォーレの聴覚障害は高音域と低音域でピッチに変調が起きるという特殊なもので、そのためこれらの音域の使用は控えめとなり、必然的に内声の比重が重くなり、作品全体が半音階的で調性感は希薄になって行く。晩年に作曲された弦楽四重奏曲は、唯一ピアノを含まない室内楽作品であるが、輪郭のはっきりとしたピアノの打音ではなく、よりテヌートな表現が可能な弦による響きのみで内声を構成することにより音楽はより幽玄な情緒を帯びており、晦渋な作風を印象づける。

ドビュッシーは、歌曲、室内楽曲、ピアノ曲を主な創作分野とするフォーレをサロン音楽の作曲家と蔑視していたといわれる。フォーレの折衷的な作風が、一世代後の時代に属するドビュッシーらには中途半端で大衆迎合的に映ったのであろう。しかし、フォーレの精緻な和声は、部分的には、時に無調との限界に触れるほどであり、時にはドビュッシーが確立した全音音階を用いている例もある。フォーレの音楽は、あくまでも伝統的音楽技法を尊重しながらも、革新的な技法をさりげなく取り込み、総体を穏健で洗練された作風に磨き上げたもので、そこにフォーレの確かな技巧と、豊かな精神性を見て取ることができる。フォーレはシャブリエとともにサン=サーンスの古典主義からドビュッシーやラヴェルらの印象主義へ、最上級の橋渡し役であったといえよう。

フォーレは死の2日前、二人の息子に次のような言葉を遺している。「私が死んだら、私の作品が言わんとすることに耳を傾けてほしい。結局、それがすべてだったのだ・・・。」虚心に耳を傾けるべき音楽、それがフォーレの音楽である。