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利用者‐会話:故城一片之月/過去ログ3

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  • 2007年10月1日 - 2008年1月31日の会話分です。

藤波畷の戦い

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はじめまして。GAVVAと申します。三河の武家に興味をお持ちのようですね。更新をなさった藤波畷の戦いについては、私もいつか執筆しようと思ってましたが、他のことにかまけているうちに皆さんに先を越されてしまいました(笑)。先日、古戦場跡に行きまして撮影をしてきました。拙い画像ですが、お暇ならばご覧ください。とりあえず3枚(「藤波畷古戦場碑」「伴五郎地蔵」「東条城」)アップロードしてあります(利用者:GAVVA会話 / 投稿記録ご参照ください)。--GAVVA 2007年10月4日 (木) 12:58 (UTC)

作業お疲れ様でした。--GAVVA 2007年10月16日 (火) 21:03 (UTC)

徳川家康の馬印の件

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馬印の件で移動を行ったムカイです。
お礼のコメントありがとうございました。ほんの少しでもお役に立てたようで光栄に思います。--ムカイ 2007年10月15日 (月) 11:33 (UTC)

牧野氏と長岡藩

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お久しぶりです。わかないところがあるで教えを乞いたいと思います。

◎牛久保六騎を私は漠然と、牧野出羽守・真木・岩瀬・野瀬・山本・稲垣だと思っていました。牧野山城守と特定・断定するだけの理由が知りたいのです。 牧野山城守が六騎の一つだとすると、牛久保城主・牧野氏を支えた牛久保六騎ということになると思うのですが、いかがでしょう。

◎宝飯郡伊奈城主に牧野平三郎が就任した可能性は何を根拠とされているのでしょうか。城主が牧野氏であった期間は本多氏はどうしていたのでしょうか。

◎今泉鐸次郎「牧野家譜 上」(大正十年)は、この世に云う大坂夏の陣での牧野一党の活躍を、「家伝に曰く」と引用していますが、これは長岡牧野家の家伝である古和本・長岡牧野家傳を指すのでしょうか。

◎諸藩には、独礼という家格がしばしば存在しました。長岡藩では独礼は、どの位置の家臣からだったのでしょうか。独礼=一人で主君に謁見できる資格。

--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年12月11日 (火) 19:20 (UTC)


越後長岡と牧野一族を学ぶ会さん、お元気でしたか?私は学者でもないのでご質問のすべてにお答えできる訳でもなく、必ず正しいお答えであるとも言えません、よって私のわかる範囲でお答えします。

その1;「牛久保六騎」ですが、明確にこの言葉なり類似の用語なりを使用しているのはご承知の通り、いまのところ『牛窪記』が唯一で、その訂正増補であるという『牛窪密談記』には使用されていない。その『牛窪記』では「兄保成初め牛窪六人衆として、東三河の掟を出す・・・」と記され、これのみを見れば御指摘どおり、出羽守保成も六騎の内であるとも読みとれます。 しかし、同書ではこの牧野保成は明応2年(1493年)に牧野田左衛門から牛窪城主を継いだとも記されており、この意味では保成は牛窪城主です。「牛窪六騎」を寄騎と捉えた場合、寄騎とは一般的には「寄子-寄親」関係のなかで寄子を意味する言葉と解されます。『牛窪記』の記述に沿って言えば駿河の大名今川氏輝の下知に従っていたわけで、今川の軍事編成のなかで牛窪衆・牛久保六騎は位置付けられていたと読みとれます。城主牧野氏は寄親であって寄子ではないのです。

さて、『牛窪記』の記述は登場人物と出来事の時期が一致しておらず、個々の出来事の前後関係も不正確で到底、記述をそのまま鵜呑みに出来る物ではないことは充分注意しなければなりません。たとえば保成は永禄年間に対徳川戦で合戦の現場で活躍しており、明応2年に牛窪城主を継いだのであればその時最低でも元服年齢になっているはずで、死亡または死亡原因の負傷をしたとされる永禄6年(1563年)3月の「牛久保城外の戦い」では80歳を越える年齢になってしまい、絶対あり得ない訳ではないが、著しく不自然であり、『牛窪密談記』が訂正したように牧野古白の事績と考えるのが明らかに自然です。また、今川氏輝の時代は牧野氏は牛久保・吉田ともに松平清康の勢威に服しており今川家の下知に従っていたとするのも疑問です(享禄2年-天文5年頃)。つまり、不正確な部分も多いということを承知しなければなりません。

事実としての牧野保成は、今川義元の重臣朝比奈備中守、同丹波守、飯尾豊前守、太原雪斎禅師等から判物や文書への裏書きを受けるなど今川氏から牧野氏一統の代表者(惣領分)的扱いを天文10年代に受けていたことは確実であります(小和田哲夫静岡大教授の著作による)この中で牧野氏以外の六騎に相当する人名は一切取り上げられてはいない。(もっとも牛久保城主ではなく吉田城周辺に知行地が有ったと記述されている。)

では、牧野山城守をなぜ六騎の内と捉えるか?ですが、牧野山城守が牛窪城または牛久保城の城主となった記述は一切認められず、本貫の地は牛久保領平井の92貫文の地であったことが知られており(家康の旧領安堵状があった)。よって、家康帰属以前には城主牧野氏からこの地を給付または安堵をうける一門衆であったことは否定できないでしょう。この永禄初めから同九年までの城主は牧野成定(右馬允)であって、六騎の一人・稲垣重宗の息子・藤助長茂あてに成定自身の発給した知行宛行状の文面が『岡崎市史資料編』に所載されており、賀茂本給安堵・守り役指名・恩賞授与の内容が記されている。これは明らかに牧野成定に対し稲垣氏が被官関係・主従関係であったことを意味しているのです。 この様に牛久保六騎の牧野氏が同時に城主であるはずはなく、六騎の中の牧野氏とは牧野山城守と特定されるのは一定の合理性があるはずです(参考『寛政譜』)。決定的なのは永禄9年11月の水野信元証状(副え状)の宛先7名の筆頭は牧野山城守であり、同年5月9日の牧野成定宛の家康判物で牛久保家臣掌握の責任者に指定された5-6人の衆に相当する人々がこの7名(牧野(山城守)・能勢(丹波守)・岩瀬(嘉竹斎)・稲垣(平右衛門尉)・山本(帯刀左衛門尉・美濃守)・真木(越中守)の6氏で山本氏のみ2名)と推定されます。

その2;牧野平三郎の伊奈城主説根拠 →大永6年連歌師・柴屋軒宗長が上洛の途次に、「井奈といふ牧野平三郎家城、一日逗留・・・」(宗長手記)とある。 →『牛窪密談記』に「牧野平三郎、伊奈に住する故に牛久保のはずれ伊奈出口といふ・・・」とし「伊奈本多も牛久保牧野縁者になる」とある。 →また、永禄6年12月26日付け本多助太夫・同縫殿助宛の今川氏真発給判物にて、「伊奈一円」の確保を条件に本知行の還付と新知宛行を約束(『豊橋市5』三河古文書所載)した。この事実から、既に永禄6年以前に伊奈本多氏は本知行を今川氏に没収されたらしいとする。

これらのことを根拠に本多氏は伊奈城主の地位を今川氏に永禄6年まで剥奪されており、牧野平三郎を伊奈本多の縁者と推定してこの空白期に牧野平三郎が一時的に伊奈城主になったとする説があったと思います。今、メモが見あたらずその根拠文献名は即答できませんが、角川版『地名大辞典23(愛知県)』の「伊奈郷」の項か、太田亮先生の「姓氏家系大辞典」であったと思います。なお、「家城」を屋敷城と捉えれば本多氏の伊奈城とは別物かも知れません。

その3;今泉鐸次郎「牧野家譜 上」(大正十年)をわたしは読んだことがなく、あなた様のご質問の文のみにてはお答えのしようがありません。江戸時代以前の墨書の「御家譜」や「家傳」を活字化したものでしょうか?その文献には底本についてのてがかりとなる序文や結びの言葉あるいは奥書はないのでしょうか?いずれ国会図書館で確認しますけども・・・以前に貴重本でマイクロフィルム化されしかも閲覧は事前予約制であるのを知らず断念したことがありました。

その4;お恥ずかしいことですが「独礼」という用語もわたしは存じておりませんでした。よって、長岡藩の類似次項についてお答えする材料は持ち合わせておりません。できれば、諸藩の「独礼」についてもう少し具体例を教えて頂けませんか?

以上とりあえずお答えしました。--故城一片之月 2007年12月12日 (水) 16:22 (UTC)


富永口合戦の投稿ありがとうございました。

横からの口出しになって恐縮ですがネットで、独礼という用語をネット検索するとかなりひっかかりますね。。独礼とは藩主に単独で謁見を許されることで御目見の中で最高のものだそうです。独礼で馬上が許されない武士がいたかどうか微妙でわかりません。商人で苗字帯刀が許され独礼となり、馬には乗れなかった人はいたようです。--鉄三郎 2007年12月15日 (土) 17:14 (UTC)

小諸藩主牧野氏の豪商・御用達商に該当者がおりました。彼の家である高橋家は、天保年間までは町年寄にもめったに顔を出すことがない呉服商でした。慶応3年小諸藩文書(東大所蔵)によると、御奏者格に任ぜられましたが、家禄は十数俵でした。小諸藩主牧野氏の家中では、家禄50石以上が馬上資格であったことが定められていたので、かくして馬上になれない独礼の者が誕生したことになります。本文に載せると独自調査の疑いが出ますので控えます。

以下は盛岡タイムスのコピペですが、郡山藩の独礼の位置がよくわかります。その他、会津藩のものがネット上にはよくひっかかるようです。

次に「二人立ち御礼」という文言が見える。この変化は『公国史・官職志』によってうかがい知ることが出来る。八戸・中野・北のいわゆる「御三家」は廊下敷居際(以下同じ)より四畳目。これにも時代の変遷があり、『御礼式』によれば、八戸弥六郎は五畳目と見える。

  その他の高知のほか、大老・老中・近習頭・用人等の重役は三畳目。御新丸番頭、大目付・留主居・花巻城代は二畳目。このクラスまでは「太刀折紙を以て御礼申上げ、盃、熨斗を頂戴」(『御礼式』)。

  寺社奉行・持弓頭・持筒頭ほか目付・勘定奉行など長上下を着用してお目見する者は一畳目にてお目見をする。以上は独礼といいい一人ずつ御礼を申しあげる。

  次に使番・勘定吟味役・各地代官・馬別当・野馬別当のほか百石以上の平士は二人宛、縁側障子際で御礼を申上げ、敷居の内でお流れを頂戴する。北地改役、平士百石以上は廊下で拝謁してお流れ頂戴となる。   平士五十石以下・医師・茶道は三人並んで拝謁。鳥見・勘定方・馬方・馬医・鷹匠等は柳の間下座で無刀にて一同拝謁、その他の区分があった。拝謁する人が多くなるにつれての変化とみられる。

  総じて、正保二年の記録は管見する中では最も古い記録であり、藩政史をひもとくためには貴重な史料である。--鉄三郎 2007年12月15日 (土) 17:35 (UTC)

う~ん、結構ありますね。鉄三郎さんありがとうございます、参考になります。ところで肝心の利用者:越後長岡と牧野一族を学ぶ会さんはどうしてますでしょうかね?--故城一片之月 2007年12月15日 (土) 18:21 (UTC) 

宴会シーズンのためネットから離れていました。たいへん参考になりました。--越後長岡と牧野一族を学ぶ会 2007年12月28日 (金) 11:19 (UTC)

                       

牛久保城脚注

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牛久保城脚注の素晴らしさに感嘆しました。特に平七郎・右近系については、私はまったく管見にありませんでした。牧野平三郎系の末裔がどこかに残り古文書や、伝説を持っているとよいのですが、いまのところ発見できません。牧野平四郎家の末裔の文献目録は、小諸図書館のHPから検索できますが、いまのところ平三郎系については、不明で攻めあぐねています。いずれまた豊川付近の郷土史家に聞き込みをすれば何かヒントを得られるかもしれませんが、時間とお金がないのが現実です。--鉄三郎 2007年12月26日 (水) 07:12 (UTC)

豊川市史・中世編は、評判が極めて評判が悪いようなので、汚名挽回のため愛知教育大学名誉教授の新行紀一先生に牧野氏に関することを含めて、全面的に書き換えるべく改訂版を執筆中との情報・ウワサを得ました。しかし、新行先生は、牧野家のことはよくわからんと、おっしゃていたそうです。   --鉄三郎 2007年12月26日 (水) 07:30 (UTC)

一括投稿のお願い

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こんにちは。故城一片之月さんが同じ記事に対して節ごとに分けて連続して投稿されているようでしたので、一括投稿のお願いに参りました。Wikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすにあるとおり、同じ記事への連続投稿はウィキペディアのサーバに負荷がかかるうえ、履歴の見通しが悪くなるなど、さまざまな面で支障をきたすおそれがあります。細かい節がたくさんある場合は、節ごとに細かく投稿をするのではなく、上位の節または項目全体の編集を行い、一括して投稿していただきますようにお願いいたします。

1の部分がプレビューを実行できるボタンです。

その際に細かいところでミスを起こすのではないかと心配な場合は、「投稿する」ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンを活用されることをお勧めします(画面右側の図を参照)。投稿される前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで、

などをあらかじめチェックし、修正した上で記事を投稿することができますので、是非ともご活用ください。

また、編集競合を避けたい場合は、Template:工事中をお使いください。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。--松茸 2007年12月15日 (土) 03:37 (UTC)

了解しました。プレビューは使っていますがどうも不注意が多くて編集回数が増えてしまいます。気を付けます。--故城一片之月 2007年12月15日 (土) 03:45 (UTC)

三河物語に~~の敵として登場するという表現は、昨年、何度もみかけましたが、その表現をするかたが、また復活のようでございます。--鉄三郎 2008年1月17日 (木) 05:00 (UTC)

長岡藩士根岸氏

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根岸氏も独立記事にしてもよいかもしれませんね。

根岸氏について私の書いた記事と、あなた様が書いた記事には矛盾があります。歴史学や史料学にはこういうことはよくあることで、どちらが正しくて、どちらが誤りだということにはならないと思います。根拠にしている文献が異なるからです。

分限帳に記載のない根岸氏が藩主の使いまたは、名代のような形で、小諸城に登城している。分限帳からこの時期、根岸氏はなぜオミットされていたのか謎が深まります。根岸氏が一時的に小諸藩の重臣に出向した形跡もないし、文献上の根拠もありません。想像するにも無理があります。要するに私は、わからないで困っているのです。--鉄三郎 2008年1月17日 (木) 14:24 (UTC)

三河真木氏の記事のご心配、ありがとうございます。

越後長岡藩の家臣団の根岸氏の小諸登城記事は、ほとんど原文のままです。京都大学所蔵小諸藩文書が原本です。小諸牧野氏年譜という簡易な体裁の書籍が存在するのですが、これにも引用があります。この書籍は、都立中央図書館、東京大学史料編纂所、小諸図書館の3箇所にしか蔵書がないようです。国会図書館には蔵書がありません。

当然、長岡家臣の資格で登城したと思います。江戸武鑑には小諸藩の重臣・用人・御城使に根岸姓は存在しないですし、小諸藩の各種分限帳などにも根岸姓はありません。藩の使いとしていっているのならば、加判にはなっているはずです。長岡であれば奉行以上でないと加判にはなれないのが慣行です。分限帳に記載がないこの時期の根岸氏の動静が謎です。--鉄三郎 2008年1月17日 (木) 17:04 (UTC)


牛窪密談記の牧宗次郎

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牛窪密談記の牧宗次郎(真木トモ)と、三河物語の牧惣次郎は同一人物または近縁者だとお考えになりますか?三河物語では、某氏の言うように下地合戦に家康が出陣したことになっています。

私の会話ページに丁寧なお返事・解説をありがとうございます。私は宝飯郡中條郷の牧宗次郎(真木トモ)と、牧惣次郎はまったく別人物で、時代も異なるものと理解していました。同一人物の可能性については稀少説であるとのご意見でしたが、私はこの稀少説を聞いたことまったくありません。しかし真木氏 (牧野家重臣)は、この稀少説にたって書き換えられています(記事が消去されています)。いささか困惑している次第です。--鉄三郎 2008年1月19日 (土) 15:59 (UTC)