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「ノート:現生正定聚」に書き込まれたコメントについて[編集]

コメント 「ノート:現生正定聚」に書き込まれたコメントへの返答
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次に「しかし、親鸞さまの真意が歪められた、現在の教学がおかしいのです。親鸞さまの真意を乗せて戴くわけにはいけないのでしょうか。」というコメントについて、Wikipediaを編集する上では真宗げんり(入井善樹)さんの持論でしかありません。「Wikipedia:独自研究は載せない」の方針に抵触します。
自著作については、『ゆがめられた親鸞教学』/『親鸞念仏の可能性』/『ふかまる横超』/『親鸞の霊性』は入井善樹さんの「論文集」です。つまり自己公表物集であり、Wikipediaを編集する際には「信頼できる(二次)情報源」とはいえないと考えます。「東方」に掲載された論文についても同様です。
こちらのサイト[1]の「入井善樹のプロフィール」を読むと、「私は納得がゆかず、世に問う意味で出版に力を入れた。」と出版の動機が記されています。
本願寺派に論文を提出したが認められないから本を出版し、それらの著作を出典としてWikipediaを編集することはできません。「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」、および「Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源:二次資料としての使用」を参照してください。
独自見解の披露・布教はWikipeidaの目的外利用として禁止されています。「Wikipedia:投稿ブロックの方針#宣伝・広告投稿、目的外利用」を参照してください。--Resto1578会話2014年9月18日 (木) 15:50 (UTC)[返信]

:何度も失敗ばかりで、Resto1578さまにはご迷惑をおかけしました。論論は「利用者・会話」でいいですか。

「正定聚」は『信巻』の「現生十種の益」の最後に説かれ、その文に「金剛の真心を獲得すれば、横に五諏八難の道を超えて、必ず現生に十種の益を獲。」(『真宗聖典』本派p251、大派p240。)と、現生に「横超」して得るという。::

「横超」とは、『唯信鈔文意』で「光明寺の和尚はのたまえり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまという、超はこえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆえに超と申すなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は摂取のゆえに金剛心となれり。これは「『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩は「願作仏心」とのたまえり。この信楽は仏にならんとねがうと申すこころなり。この願作仏心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。(『真宗聖典』本派p711、大派p555。)という。::

「横超」とは、信心の事例であった、「身」の事例ではない。「生死海を超え」は「五趣八難の道を超え」と同じ浄土往生の意味である。「本願の三信心」とは信心が浄土往生して、成仏までを完了した「大信心・深信・金剛心」となったと厳命される。つまり、「横超」とは、信心が一気に往生・成仏・還相までをの完了の意味である。それは、『大経』に説かれたアミダ仏の第十一願で「正定聚」は浄土の中の利益となっているからだ。そのために、親鸞は「正定聚」を「信心」と「身」の二つに厳密な整理をして、「定聚の数に入る・住す」は「信心」の益、「正定聚の位」は「身」の益と理解させた。「正定聚」「往生する身」とか「仏となるまで」という未然形の表現は「身」についての説明なのだ。親鸞のめざした「現生正定聚」は、信心からの活動によって「身」に菩薩の最高位の利他行を実働させようとしたのである。「大慈大悲の心」「仏性なり。すなわち如来なり」と命じて、「身」に実働して苦悩者のために尽くさせようとした意図が重要案件といえる。--122.23.140.136 2014年9月18日 (木) 23:11 (UTC)[返信]

コメント コメント1
署名」については問題ありません。
コメント コメント2
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コメント コメント3
2014年9月18日 (木) 23:11 (UTC)の書き込みを読むと、Wikipediaについてご理解いただけていないようです。
Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」、および「Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源:二次資料としての使用」を参照してください。
独自見解の披露・布教はWikipeidaの目的外利用として禁止されています。「Wikipedia:投稿ブロックの方針#宣伝・広告投稿、目的外利用」を参照してください。
また、上記のような宗教論議を目的とした書き込みに対して、私は回答する意思を持っていません。--Resto1578会話2014年9月19日 (金) 13:28 (UTC)[返信]


Resto1578さま

新規書き込みが分からないのですが、ここで良いでしょうか。

現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)

正定聚は『大無量寿経』の第十一願に、極楽浄土の中の利益と説かれ、必ず仏になるに定まった仲間に入るという意味である。(註1)信心を余すことなく説明した『信巻』の最初に、第十八願名を掲げ、その下に「正定聚の機」と書かれるから、『信巻』全体がめざす人間像という意味になろう。(註2)『信巻』には、「横超(おうちょう)の信心」を獲得した者だけが「現生に必ず十種類の利益をえる」といい、その第十種目に「正定聚の益」が説かれ、親鸞はその利益が「現生の今」だという。(註3)

「横超の信心」とは、信心が一気に苦や悪の満ちたこの世を超え、浄土往生し正定聚に入る。そして、仏となり元の国に還(かえ)って苦悩者を救うという。「横超」は信心の事例だから、「正定聚」も「信心」の事例であって、「身」との整理がいる。「正定聚に住す・数に入る」と表現した場合は「信心」の実益を指す。「正定聚の位」と表現するときは、「身」の「くらい」を指すが往生・成仏は未然という厳密な整理がある。(註4)。この「正定聚」を「不退転」と呼び、「弥勒に同じ」ともいわれる。弥勒は次の生に、必ず仏になるから「一生補処の菩薩」ともいい、自分より民衆を先に救う還相の菩薩である。(註5)浄土に生まれた者も、仏にならず「一生補処」の菩薩となって苦悩者を救うために還相するという。(註6)これを、現生十種の第九益の阿弥陀仏と同じ実働である「常行大悲の益」と整合すると、「菩提心」を持って自分が仏になる前に人を先に救ってあげる大悲を実働する正定聚である。この信心は「如来にひとし(如実修行相応)」を必須条件として、身に苦悩者救済を喚起させる「正定聚の位」の人となって、汚泥に生れ汚泥に汚されない「白蓮華」と讃える。(註7)

【脚注】 (註1) 第一資料

正定聚は、浄土の中で受ける利益。

#--『大無量寿経』の第11願『たといわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。』 (『浄土真宗聖典』p17、(『真宗聖典』p17。)

  1. --『大経』下の第11願成就文『それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。』(『浄土真宗聖典』p41、(『真宗聖典』p44。)

ただし、『法華経』の「正定聚」は仏滅後に『法華経』に出会う条件の一つという。

--『国訳一切経』28巻p196ー4行。『もし、善男子、善女人、四法を成就せば、如来の滅後において、当に是の法華経を得べし。…略…三には、正定聚に入り、』(大東出版社、昭和49年発行)

第二資料

石田瑞麿は、正定聚は浄土の中の利益といいながら、現生十種の益から信心を獲た今という。そして、弥勒に同じというに注目している。

--石田瑞麿著『親鸞』p50、(中央公論、1982年発行)

(註2) 第一資料 『信巻』の巻頭の標挙に「至心信楽の願」と書き、その下に小文字で「正定聚の機」と記されている。(『浄土真宗聖典』p210、(『真宗聖典』p210。)

『しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなわちこれ常楽なり。常楽はすなわちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなわちこれ無上涅槃なり。』--親鸞著『証巻』(『浄土真宗聖典』p307、(『真宗聖典』p280。)

『行巻』では「浄土真実の行」と標挙される。念仏は浄土の行だと解釈すれば、信心も浄土側の信といえよう。 第二資料 石田瑞麿は正定聚は便同弥勒とも、不退転ともいい、人間としては仏に最も近い最高の位に入ったという。

『しかもこの位(正定聚)をもって、弥勒菩薩と同じくらいであるとしたことはさらに注目されてよい。信巻に、「弥勒菩薩は仏につづく位(等覚)にあって、その金剛心をきわめるかたであるから、竜華樹のもとで三回の説法をおこなわれるとき、きっと最高至上の仏の位をきわめられたはずである。』

--石田瑞麿著『親鸞』p51

「機」とは「一般的に衆生、人間のこと」-(『浄土真宗聖典』p1457。)

『信巻』標挙の説明『「正定聚の機」は、かような他力の信を得る人は現実の人生において正しく仏となるべく蹴ってづけられるという、現世での利益を得ることを標示し、それを本文中に明らかにするのである。』--星野元豊、石田充之、家永三郎校注、『親鸞・日本思想大系11』p434(岩波書店、1987年発行)

 

第十八願の本願がめざす「正定聚の機」といえる。「正定聚」の説明は『証巻』に詳しいから、本願の「信心」と「証り」に二層の面がある。真実信心の今と浄土往生が同時と理解でき、その主点が「即得往生」と想定する。

(註3) 一次資料

現生正定聚は、金剛の真心(信心)に「横超」が起こって得る利益。

--親鸞著『信巻』『一心はすなはち清浄報土の真因なり。金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。…略…十には正定聚に入る益なり。』(『浄土真宗聖典』p251、『真宗聖典』p240、) 金剛の真心を獲得すれば、五趣八難を横超すると「正定聚」を得るという。

「往相回向の心行」と「横超」は同じ結果を生む。

--親鸞著『証巻』『往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり』(『浄土真宗聖典』p313、(『真宗聖典』p280。)

--親鸞著『御消息』『光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(意)と釈したまえり。「居す」というは、浄土に、信心のひとのこころつねにいたり、というこころなり。これは弥勒とおなじということを申すなり。』(『浄土真宗聖典』p758、(『真宗聖典』p591。)

第二資料 鈴木大拙、星野元豊、石田瑞麿は、「横超」によって一気に成仏するという。

現生成仏論者の鈴木大拙は、「横超即往生」論を主張した。

--『浄土論』第五章に--『横超は入信の方法論で、往生は死後の事実だと説き聞かされるであろう。ところが少し考えてみると、どうも腑に落ちぬ。横超が即ち往生でなくてはならぬのではあるまいか。横超は「願力廻向の信楽」だといわれ、この信心の決定するとき、正定聚に入る、正定聚に入れば必ず滅度に至る。』(『親鸞大系』一、法蔵館発行。p133)

現生成仏論者の星野元豊は、伝統の宗学は親鸞の文に照らして多くの問題があるといい、親鸞の文に直接照らす以外に真意は理解できないという。星野は「即得往生」と「横超」の文の多くを洗い直して、現生に往生、正定聚、成仏完了が「信楽」のなかで転回すると主張した。

--星野元豊著『親鸞と浄土』p91~p96。『かくして横超は獲信の事態であり、また正定聚位の事態であり、報土往生の事態である。正確に分析していえば、他力信心も正定聚も同じ事態であり、これへの課程が横超といわれ、往生といわれたものであり、そして当然その往生は真実報土の往生でなければならない。これは伝統の往生の理解にとっては奇異に感ぜられるかもしれない。しかし、上掲の文の示すように親鸞はそういっているのである。』(三一書房、1984年発行。) 鈴木・星野は「横超」から現生成仏を論証したが、親鸞が身は悪人というために苦慮して、鈴木は「非連続の連続」、星野は「逆転的転換」というパラドックスで論断した。

石田瑞麿は「横超」によって正定聚に入るという。

『そして念仏の人は、横超の金剛心をきわめるゆえに、一足飛びに仏のさとりをうるのである。……すでに金剛の信心を獲たものが「横超」の人であって、「わずか一瞬のうちに、すみやかに最上の証りをうる」(p270参照)のであるから、これまた当然の帰結であったといえる。』(p270には現生十種の益が説明される)

--石田瑞麿著『親鸞』p51、(中央公論社、1983年発行)

入井善樹は『唯信鈔文意』の「横超の信心」から、往生は信心の事例と論考し、『観経』の「是心作仏、是心是仏(この心、仏となる。この心、これ仏なり)」(『信巻』、『浄土真宗聖典』p253、(『真宗聖典』p242。)と、『涅槃経』の「大信心は仏性なり、如来なり」(『浄土真宗聖典』p236、(『真宗聖典』p229。)の三文を整合して、信心は現生正定聚を経て往生・成仏・還相を完了した心と考究する。

--入井善樹著『東方』21号の査読済み公表論文、p202~209、『「親鸞の利他の思想」─「信巻」と「証巻」のめざした「利他」─』(東方仏教学院、2006年発行。)

--入井善樹著『ふかまる横超』p7、(国書刊行会、1995年発行)

(註4) 一次資料 『信巻』の「信楽釈」に引かれた『華厳経』に、信心は浄土往生し、仏となる。「善巧方便を修行する」とは還相の意味だから、清浄心とは信楽の還相である。

『信は如来地に到る。……信は一切仏を示現する。……もし生れて如来の家にあることを得れば、すなはち善をして巧方便を修行せん。もし善をして巧方便を修行すれば、すなはち信楽の心、清浄なることを得。』「信楽釈」に引用の『華厳経』文(『浄土真宗聖典』p238、(『真宗聖典』p230。)

次の文の全体は、往生未然の「身」に関する文である。ここに左訓が多くあり、「信心」と「身」の整理が必要となる。

『かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す(註a)。…略…正定聚の位に定まるを、不退転(註b)に住す」とはのたまえるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆえに、「等正覚を成る」とも説き、「阿毘跋致にいたる(註c)」とも、「阿惟越致にいたる」とも説きたまう。「即時入必定」とも申すなり。この真実信楽は他力横超の金剛心なり。しかれば、念仏のひとをば『大経』(下)には、「次如弥勒」と説きたまえり。弥勒は竪の金剛心の菩薩なり、竪と申すはたたさまと申すことばなり。これは聖道自力の難行道の人なり。』

--親鸞著『一念多念文意』(『浄土真宗聖典』p680、『真宗聖典』p536。)左訓について

  • (註a)「カナラズホトケニナルベキミトナレルトナリ」
  • (註b)「ホトケニナルマデトイウ」
  • (註c)「ホトケニナルベキミトナルトナリ」

第十一願の「生まるれば」を「生まれんとするもの」と読み換えたために、当面は「身」の理解となる。ところが、後半に「この真実信楽は他力横超の金剛心なり」と、信心についての文だったというために、先の説明は「身」と「信心」が渾然一体の文であったため、整理がなければ理解困難である。

「即位」といえば成仏完了、「位」のみは未然という整理があり、信心は「即位」で「身」は「位」という。

『「念」は如来の御ちかいをふたごころなく信ずるをいうなり、「即」はすなわちという、ときをへず、日をへだてず、正定聚の位に定まるを「即生」というなり。……これを東宮の位にいるひとはかならず王の位につくがごとく、正定聚の位につくは東宮の位のごとし。王にのぼるは即位という、これはすなわち無上大涅槃にいたるを申すなり。』

--親鸞著『一念多念文意』(『浄土真宗聖典』p692、(『真宗聖典』p536。)

「わが身」と「信心」の区別がある。

--「わが身」は『小慈小悲もなき身にて』(親鸞著『悲歎述懐和讃』『浄土真宗聖典』p617、(『真宗聖典』p509。)

「信心」は『この心すなはちこれ大慈悲心なり。』(『浄土真宗聖典』p252、(『真宗聖典』p241。)著者『出典』

二次資料

信心は浄土往生して仏になり、還相して利他行を実行する。信心と身の整理が必要。                                --『東方』20号の査読・公表済み論文、入井善樹著『親鸞の「利他」の思想』―『教巻』と『行巻』のめざした「利他」―』。p101~104、(東方仏教学院、 2004年発行。)著者『出典』

親鸞の正定聚には、「信心」と「身」についての厳密な整理がある。 --『東方』21号の査読・公表済み論文、入井善樹著『続 親鸞の「利他」の思想』―『信巻』と『証巻』のめざした「利他」―』p208。(東方仏教学院、2005年発行。)

(註5) 一次資料

第十八願の本願では、もし信者が浄土に生まれることができなければ、阿弥陀仏は命を捨てますと民衆の救済を優先する。--『大無量寿経』『たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。』(『浄土真宗聖典』p18、(『真宗聖典』p18。)

信を現生の死と説かれるので、身とは違っている。

「本願を信受するは、前念命終なり。」といい、「すなはち正定聚の数に入る」(論註)と書かれる。「即得往生は、後念即生なり。」といい「即のとき必定に入る」(易行品)といい、また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品)と書かれている。

--親鸞著『愚禿鈔』(『浄土真宗聖典』p509、(『真宗聖典』p430。)

二次資料 信心と身の整理がないために、心身から現生成仏論展開するが曖昧となり、往生・成仏論を訴えるが親鸞は身が悪人というために矛盾が起こり、星野は「逆転的転換」と治め、鈴木大拙は「非連続の連続」と治めた。禅者・久本真一は「真宗の正定聚は悟り不徹底」と批判した。星野はそれに答え、先の『一念多念文意』や『愚禿鈔』、『尊号真像銘文』を引用して反論した。

「即得往生を他力金剛心なりとしているのである。」「往生とはかかる横超断四流の事態をいったものにほかならない。」「他力信心も正定聚も同じ事態であり、それへの課程が横超といわれ、往生といわれたものであり、そして当然その往生は真実報土の往生でなければならない。」p93~97。

--星野元豊著『親鸞と浄土』(三一書房、1984年発行)

入井は、親鸞には「信心」と「身」の厳密な整理があるといい、信心は現生の往生・正定聚・成仏・還相説が揺るぎなき已然という。「身」の往生・成仏は未然と学べばうまく決着するという。 --入井善樹著論文『東方』21号、『続・親鸞の「利他行」─『信巻』と『証巻』のめざした「利他」』p208。(東方仏教学院、2006年発行。)

(註6) 第一資料

第22願から、一生補処の菩薩と正定聚の菩薩とは同義の菩薩となる。

『たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。(『浄土真宗聖典』p19、(『真宗聖典』p18。)

--*『証巻』に『如来会』を引いて、『かの国の衆生、もしはまさに生まれんもの、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。』(『浄土真宗聖典』p308、(『真宗聖典』p281。)この文を『一念多念文意』に引いて、『かの国に生まれんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。』と読み替えて、現生の正定聚の位に定まるといった。 --*親鸞著『浄土和讃』『安楽無量の大菩薩/一生補処にいたるなり/普賢の徳に帰してこそ/穢国にかならず化するなれ』(『浄土真宗聖典』p559、(『真宗聖典』p480。) --*親鸞著『正像末和讃』『真実信心うるゆえに/すなわち定聚にいりぬれば/補処の弥勒におなじくて/無上覚をさとるなり』(『浄土真宗聖典』p605、(『真宗聖典』p502。)

曇鸞の「正定聚」は善導の「妙好人」と同義語。

--親鸞著『愚禿鈔』『曇鸞菩薩の『論』(論註・上)には「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」(散善義)といへり。』(『浄土真宗聖典』p539、(『真宗聖典』p。)

『太子和讃』などから、「一生補処」と「正定聚」は同義語となる。

第二十二願の還相の願を「必至補処・一生補処の願」と呼び、真実信心(横超の信心)の仏に必ずなる正定聚の人を、一生補処の弥勒のごとしという。 --親鸞著『皇太子聖徳奉讃和讃』『正定聚に帰入して/補処の弥勒のごとくなり』(『浄土真宗聖典』p615、(『真宗聖典』p507。)

正定聚と一生補処が同じというから、正定聚は還相の菩薩とも言いえる。--親鸞著『御消息集』『信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆえに等正覚の位と申すなり。……正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。』(『浄土真宗聖典』p758、(『真宗聖典』p591。)

第二資料

本願寺も正定聚と一生補処は同じ菩薩という。

--本願寺派発行『浄土真宗聖典』の「補註6」【正定聚】『次生において必ず仏になることに決定しているという意味で、一生補処の菩薩と同じ位にある』p、1561(本願寺出版社、2007年発行)

入井善樹は『東方』21号の査読済み公表論文p209で、正定聚と補処の菩薩は同じと論じた。--入井善樹著『「続 親鸞の利他の思想」─「信巻」と「証巻」のめざした「利他」─』『信心は「正定聚に入った」から、大乗ボサツの利他行をわが身に呼びかける心なのだ。心に利他行を抱く者を、龍樹は「必定のボサツ」という。つまり、親鸞が考える「正定聚」は「一生補処のボサツ(弥勒)」と同じで、還相のボサツでもあってブッダと同じ「行」をする者と学ぶべきなのだ。』(東方仏教学院、2004年発行)

(註7) 第一資料 「常行大悲」とは、阿弥陀仏と同じ慈悲を常に実行する意味である。

『仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。』--『観無量寿経』(『浄土真宗聖典』p102、(『真宗聖典』p。)

この人を分陀利華(蓮の花)と名ずく。

--著者『行巻』の「正信偈」(『浄土真宗聖典』p、(『真宗聖典』p205。)

この信心をもつて一心と名づく。煩悩成就せる凡夫人、煩悩を断ぜずして涅槃を得、すなわちこれ安楽自然の徳なり。淤泥華(おでいげ)というは、『経』(維摩経)に説いてのたまわく、高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩うるなり。 --親鸞著『入出二門偈』(『浄土真宗聖典』p549、(『真宗聖典』p464。)

信心は心理状態ではなく、人格という。信心を「人」で説明するから。

『この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。この信は最勝希有人なり、この信は妙好上上人なり。』

--親鸞著『入出二門偈』(『浄土真宗聖典』p550、(『真宗聖典』p466。)

第二資料

金子大榮は念仏の深信者は「泥中より出し白蓮華の如く、煩悩界に於いて新たなる人格が与えられたのである」という。--金子大榮著『教行信証講読─教行巻』『春秋社出典』(1981年発行)

--114.156.237.160 2014年12月27日 (土) 01:19 (UTC)[返信]