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アメリカ合衆国の記事について[編集]

人にソースを要求する前に、自分の無知と非常識を認識してください。一般常識すら知らない者にはWikipediaを編集する適性がないと言わざるを得ません。まずは自分でググるなり、せめてインディアンくらいは読みなさい。--KASAGI 2007年3月15日 (木) 14:14 (UTC)[返信]


ルールを守っていないのはあなたの方ですがね。論争になってすらいないものにまでソースは必要ない。自分が知る努力を怠っていることをまず認識し、自分の力で調べてから人に物を言いなさい。--KASAGI 2007年3月15日 (木) 14:24 (UTC)[返信]

人のページにはずかずかと踏み込んでくるくせに、自分のページに書かれると削除ですか。なんとも幼稚な態度ですね--KASAGI 2007年3月15日 (木) 14:33 (UTC)[返信]

英語版Wikipediaでも[1]虐殺があったことは当然書かれているし、今更ネイティブ・アメリカンに対する迫害がなかったと強弁するのは一般常識から外れていると言わざるを得ない。南京虐殺論争のように論争になっているものではない。広島・長崎原爆がなかったと言っているようなものである。--KASAGI 2007年3月15日 (木) 14:39 (UTC)[返信]


「歴史」に虐殺、追放の記述があるのは当然であり、まとめる意味がない。アメリカ合衆国という国の成り立ちの説明に不可欠な史実である以上、概要に記しておくべき。そもそも、検証出来ないとかソースを出せとか言っておきながら、一度も虐殺、迫害を否定してはいないとは白々しいにも程がある。書く記事一字一句出典を明記するわけでもあるまいし、恣意的なソース要求は許されない。--KASAGI 2007年3月15日 (木) 16:12 (UTC)[返信]

例えば日本のページで日本の今日の姿を形成するのに不可欠だといって、あちこちの節で「原爆が投下された」とか「第二次大戦に敗れた」とか書いたらおかしい。それと同じことですよ。今回の件は「歴史」の節にまとめるのが妥当です。--210.234.91.38 2007年3月15日 (木) 16:20 (UTC)[返信]

それはあなたの主観です。しかも例えが不適切であり説得力はない。--KASAGI 2007年3月15日 (木) 16:21 (UTC)[返信]

私のが主観というのならば「虐殺、追放が国の成り立ちの説明に不可欠」などというあなたの主張はもっと主観的です。--210.234.91.38 2007年3月15日 (木) 16:25 (UTC)[返信]

そう思うのもあなたの主観です。 概要に必要ないという主張ならば、最初からそう書けば良いだろう。最初は虐殺を否定するスタンスを取ってしつこくソースを要求するという行動に出ておきながら、ソースを提示されると、今度は一度も否定してはいないなどと開き直り、全く別の理由で改変を繰り返すのは筋が通っていない。単に妨害したいだけだろ--KASAGI 2007年3月16日 (金) 11:56 (UTC)[返信]

今日は別のパソコンを使っているのでIPが変わりますが失礼します。まず、私の意見が主観ならばKASAGI氏の意見も主観である。私の日本に関する例えのどこが不適切なのか説明してほしい。また、「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか客観的に説明してほしい。ただし、「国の成り立ちの説明に不可欠」という主張はあなたの主観であり認められない。客観的な、確固たる根拠のある説明を求める。--220.214.55.168 2007年3月16日 (金) 13:28 (UTC)[返信]

その前に、ころころと主張が変わることについての論理的説明を求める。筋が通っていない人間の言うこと、為すことにはどんな理由付けをしようが、全く説得力もないし、受け入れることは出来ない。--KASAGI 2007年3月16日 (金) 22:27 (UTC)[返信]

たびたび別のPCを使っているのでIPが変わってしまうことを謝ります。本題だが、説明責任はKASAGI氏にある。「虐殺、追放」の記述をしつこいまでに「概要」に入れようとしているのはあなたである。私は日本の例を紹介し、概要に入れる必要はないとの考えを示した。ところがあなたは「それは私の主観だ」「私の日本の例えは不適切で説得力はない」と反論した。私は「私の主張が主観ならばあなたの主張も同様に主観である」と考える。「国の成り立ちの説明に不可欠」とはまさにあなたの個人的感想であり、主観以外の何物でもない。また、私の日本の例のどこが不適切なのかが理解できないので説明してほしい。「不適切であり説得力がない」と言ったのはあなたである。繰り返すが説明責任は、新たに記述を「概要」に入れようとしているあなたにあり、削除を求める側ではない。
1.私の日本の例のどこが不適切で説得力がないのか。
2.「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか。
再度この2点について、客観的な、確固たる根拠のある説明を求める。--219.125.92.151 2007年3月17日 (土) 04:45 (UTC)[返信]

まず質問に答えよ。当初、「中立的ではない」「出典がない」「立証不可能」などという理由で改変を重ね、あたかも虐殺が存在しないかの如く振る舞い、一般常識として虐殺があったのは周知のことであるという反論に対しても[2][3]と、情報源を明らかにするよう迫ったり、英語版のどこに記述があるか示せと無体な要求を繰り返している。ここまでやっておきながら、否定できないとなると[4]「ところで私はネイティブ・アメリカンの虐殺、迫害を否定しました?1回もそんな発言はしていないと思いますが・・・。私だって知識としてそれくらい知っていますよ。」などという開き直りを見せ、嫌がらせ目的の恣意的な要求であったことがわかる。案の定次は論点を変え、「概要には相応しくない」という方針に変更して来た。貴殿のやっていることは、理屈はどうでもよく、単に妨害したいが為にする行為であることが明らかである。どうせ、また次に違う理由で妨害してくるのは目に見えている。もし純粋に概要に含めるのか歴史に含めるのが適当か点に真意があるのだとしたら、なぜ最初からそう主張せず、論旨が変わったのか、誠実かつ論理的に説明せよ。納得いく返答がない限り、貴殿の質問に答える義理はない--KASAGI 2007年3月17日 (土) 07:13 (UTC)[返信]

Wikipedia:検証可能性Wikipedia:事実を確認するをもう一度読め。Wikipediaに記事を投稿する場合、信頼できる出典を明示することが大前提である。出典が示されて初めて次の議論に入ることができる。当初、あなたは出典さえ示さないまましつこく「概要」に書き込んだ。「ウィキペディアには、本当のことだけを執筆してください。 そのためには、本当のことである、きっと本当のことである、あるいは、本当のことらしいと、あなたが考えることを書くだけでは十分ではありません。 あなたが書こうとしている事実を確認することが必要なのです。本当のことだけを書くためには、出典を明記することが求められます。 たとえあなたがそのことを知っていると考えたとしても、読者が事実かどうかを確認することができるようにするため、そして読者がさらなる情報を得られるようにするため、出典を明らかにしてください。よりよい参考文献があれば、追加してください。よい参考文献を探すことにより、あなたご自身が新しく学ぶこともあるでしょう。」(Wikipedia:事実を確認するより) あなたが示した英語版の出典は、同じWikipedia内の記事であり、ユーザーによっては信頼できる出典ではないとする者もいるが、とにかく出典が示されたので、ようやく次の議論、つまり「歴史」に記述があるのに「概要」に書くのはいかがなものかという議論に入ることができたのである。ところがKASAGI氏は「単に妨害したいためだ」「論旨をすりかえている」などと自己中心的な解釈をしている。あなたの主張こそ到底通るものではない。しかも私の質問には答えようともしない誠意のなさには憤りすら覚える。繰り返す。説明責任は、新たに記述を「概要」に入れようとしているあなたにあり、削除を求める側ではない。
1.私の日本の例のどこが不適切で説得力がないのか。
2.「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか。
この2点について、客観的な、確固たる根拠のある説明をせよ。なお、2.では「国の成り立ちの説明に不可欠」という主張はあなたの個人的感想であり主観であるため認められない。--219.125.92.151 2007年3月18日 (日) 05:13 (UTC)[返信]

明らかな歴史的事実であり、一般常識として世界的に認知されており、なかったという否定説すら存在しない。読者が事実かどうか確認するまでもなく、読者も既に知っている事柄である。広島、長崎の原爆投下のことを書く時、いちいち出典を明記するのか。ペリー来航を書く時、その証拠を要求するのか。同じ記事の歴史の項目の虐殺、迫害についても出典がない以上、そちらも削除するのが筋ではないのか。しかも、自らもその史実を知っていると認めてさえいる。にも関わらず、検証出不可能、出典が必要だと削除を繰り替えす行為は、どう理屈をつけようと、恣意的、悪意あるものであると判断するのは当然である。Wikipediaの他の記事で、このような自明なことにいちいち出典を要求しているところなど見たこともない。あったとしたら、一般常識をわきまえない非常識な人間のやることである。自己中心的な恣意的解釈をしているのは貴殿の方であり、その傍若無人で傲岸な態度には怒りを通り越して呆れるばかりである。この期に及んで自らの詭弁を正当化し続ける限り、貴殿の要求に応えることは一切あり得ない。悪意あったことを認め、謝罪するのならば概要に含めるのか否かという新しい論点に移ることについてやぶさかではない。--KASAGI 2007年3月18日 (日) 06:01 (UTC)[返信]

何回同じことを言わせるつもりか。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:事実を確認するを読んだのか。「明らかな歴史的事実であり、一般常識として世界的に認知されている」「読者が事実かどうか確認するまでもなく、読者も既に知っている事柄である。」というのはあなたの主観、個人的感想にすぎない。客観的根拠は何処にあるのか。自己紹介のページを見ると、あなたは歴史の本を好むなど、歴史に関して興味があるようであるが、他人にはそれが当てはまらないということも理解せよ。自分が少々歴史の知識があるからといって、他人まで侮蔑するのは甚だ幼稚である。今回の件はたまたま当事者である私とあなたが知っていたというだけである。「出典を要求するのは一般常識をわきまえない非常識な人間のやることである」と侮蔑するのは言語道断といわざるを得ない。「広島、長崎の原爆投下」、「ペリー来航」の記事があるとすればそこには当然出典が要求される。なにしろそれがWikipediaの公式ルールなのだから。私はWikipediaの創設者ではないし管理人でもないから、このルールは曲げようと思っても曲げることはできない。Wikipediaを編集しようとする以上、ルールを守ることは当然である。しかも私の2点の質問にはきちんとした回答ができないのか、私を非難して誤魔化しては逃げ続ける。そのくせ謝罪を要求する有り様である。呆れるばかりである。これより先は、あなたが私の2点の質問に答えれば進展もありうる。
1.私の日本の例のどこが不適切で説得力がないのか。
2.「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか。
この2点について、客観的な、確固たる根拠のある説明をせよ。なお、2.では「国の成り立ちの説明に不可欠」という主張はあなたの個人的感想であり主観であるため認められない。--219.125.92.151 2007年3月18日 (日) 06:54 (UTC)[返信]

ではWikipediaにある記事をいちいち出典要求して回ったらどうか?貴殿の要求することは、荒らしと同じである。[5][6]もう一度言う。この期に及んで自らの詭弁を正当化し続ける限り、貴殿の要求に応えることは一切あり得ない。--KASAGI 2007年3月18日 (日) 07:13 (UTC)[返信]

はっきり言っておくが、あなたの要求する「虐殺、追放」の記事は「歴史」に反映させてある。それでもあなたはしつこく「概要」に入れようとした。はじめは「論旨のすり替え」と言っておきながら、私が回答すると今度は「誰もが知っている事実」「知らない人間は愚か」だと言う。これこそ、論旨のすり替えである。上述のとおり、私の2点の質問に答えぬならば進展はない。
1.私の日本の例のどこが不適切で説得力がないのか。
2.「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか。
この2点について、客観的な、確固たる根拠のある説明をせよ。それまでは、あなたが何と言おうが進展はない。--219.125.92.151 2007年3月18日 (日) 07:22 (UTC)[返信]

「誰もが知っている事実」なのは事実である。知らない人間は愚かなのではない。貴殿のような恣意的な出典要求をする者を愚か者、荒らしなのだと言っている。この期に及んで自らの詭弁を正当化し続ける限り、貴殿の要求に応えることは一切あり得ない。--KASAGI 2007年3月18日 (日) 07:27 (UTC)[返信]

証拠も示さずに「「誰もが知っている事実」なのは事実である」などとどうして言えるか。証明してみろ。人には「論旨のすり替え」を非難しておきながら、あなたも同じことをしているではないか。そのことに気づきもしないあなたのほうが愚か者であり、かつWikipediaのルールを守ろうともしない大馬鹿者である。
1.私の日本の例のどこが不適切で説得力がないのか。
2.「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか。
この2点について、客観的な、確固たる根拠のある説明をせよ。早く答えよ。このまま答えようとしないならば、あなたの発言が矛盾しており、あなたに悪意があるとみなし、「概要」に書く必要は無いと判断する。--219.125.92.151 2007年3月18日 (日) 11:40 (UTC)[返信]

貴殿のような愚者でも知ってる事実なら、「誰もが知っている事実だ」と言えるだろう。ところで、>人には「論旨のすり替え」を非難しておきながら、あなたも同じことをしているではないか。 との言い様だが、それは自分が論旨のすり替えをやったと、自白している行為なのだが、それに気付かないのだろうか? 尤も、私は論旨のすり替えをしているつもりはない。自分がそうだからと、人も同じことをするとは思わないでもらいたいものだ。まだ強情にも詭弁を続けるつもりらしいが、そんなに言うなら、アメリカ合衆国の、出典が出ていない記述全てに出典明記タグを貼ったらどうか。そうすればその詭弁を認めてやってもいい。それが出来ないのならば、やはり恣意的な妨害行為である。自分が正しいというなら最後まで筋を通せ。筋が通らない人間の言うことは全く聞くに値しない。--KASAGI 2007年3月19日 (月) 12:28 (UTC)[返信]

いくら回答を促しても私への批判で誤魔化そうとするあなたの姿勢は滑稽で笑える。やはりあなたは私の2点の質問には答えられないようである。あなたの矛盾、悪意が浮き彫りになった形だ。日本の例が「不適切で説得力がない」というのは、まさに私の例示に反論できないが故の苦し紛れの回答といわざるを得ない。また、「「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか。」の質問に客観的回答ができないということは、あなたの先日のアメリカ合衆国での編集行為そのものの正当性が証明できないということである。よって、いくらあなたが私を非難しようと、私がそれに耳を傾ける価値すらない。「虐殺、追放」の記述については「歴史」で記述がある。にもかかわらず「概要」にまで書く必要はない。--219.125.93.83 2007年3月20日 (火) 02:56 (UTC)[返信]


この期に及んで自らの詭弁を正当化し続ける限り、貴殿の要求に応えることは一切あり得ない。と、何度も書いているのだが、読解力がないのだろうか?自ら墓穴を掘るなど、やはり日本語能力に問題があるようである。人に回答を求めるなら、まず自分が筋を通せ。アメリカ合衆国に出典が出ていない記述を全て削除するならその詭弁を認めてやっても良いと言っている。恣意的な出典要求は明らかな荒らしであり、妨害行為である。貴殿の主張には大きな矛盾がある。まず、純粋に出典明記が原則だと言い張るなら、全ての事例についてその原則を徹底すべきである。そもそも、概要に含めるか否かという点で貴殿が主張している根拠は、「歴史」に既に同じ記述がある、というものである。それならば、なぜその既にある記述に対し出典明記を求めなかったのか。同じ内容ならば、「概要」にある時だけ出典要求をし、「歴史」にある時は出典が必要ないのか。勿論、「歴史」の記述の事実関係についてこれまで疑問を呈された形跡はない。勿論、一般常識に照らしてそれが周知の事実であり、そのような非常識な行為をする人間がいなかったからである。以上のことから、貴殿が純粋にWikipediaのルールに従って行動しているわけではないことは明白である。このことについて、納得のいく説明がない限り、貴殿の詭弁を認めることはない。従って、次の議論に移ることもない。この点から逃げたいがために、次の議論に急ぎたがっているようだが、そのような逃げは許されない。--KASAGI 2007年3月20日 (火) 12:22 (UTC)[返信]

逃げているのはどちらなのだろうか。私はあなたの「なぜ論点をすり替えたのか」との問いに回答した。次はあなたの番だ。私にばかり要求をするのは筋が通っていない。私の2点の質問に答えない限りは、いくら私を批判しようと知ったことではない。なにしろ、あなたは自分の編集の正当性を証明できていないのだから。「この期に及んで自らの詭弁を正当化し続ける限り、貴殿の要求に応えることは一切あり得ない。」など、私の質問に答えられないが故の逃げでしかない。繰り返す。私はあなたの「論理すり替え」の質問に回答した。今度はあなたが私の質問に答える番だ。2点の質問に答えるまで,どんなにあなたが私を非難しようとも私は聞く耳を一切持たない。--124.210.138.100 2007年3月21日 (水) 09:31 (UTC)[返信]

おい、逃げるなよ。どこが質問に答えているというのか。自分に都合の良い一方的な詭弁を主張しておいて、それに対する反問も許さないというのは通用しない。貴殿は、あくまでWikipdeiaのルールに従っていると言い張る。ならば、なぜそれを今回の件だけに限定するのか。なぜ同じ記事の、他の項目には何ら出典要求も削除もせず、私の編集にだけ因縁をつけるのか。その理由を説明しろと言っている。自分のやっていることに自信を持っているなら、逃げずに質問に答えれば良い。これでは答えたことにはならない。因みに、私は既に貴殿の主張する二点への反論を既に用意している。貴殿が逃げずに私の質問に答えれば、こちらの回答を出す。答えがない場合、逃げたこととみなす。--KASAGI 2007年3月22日 (木) 12:43 (UTC)[返信]

Wikipedia:検証可能性の「方針」の2.を読んだか?「記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と明記されている。つまりあなたの記述は除去されても文句は言えないのだ。そして、あなたの記述を削除したからといって(もっとも私はあなたの記述を「歴史」で残しており削除していない)、私が出典なしの記述を全部消さなければならないということには繋がらない。これまで1週間近くに渡りあなたに、あなたの先日の編集行為の正当性を問う2つの質問の回答を求めたが、あなたが私への非難に終始したことは大変遺憾だ。残念ながら、あなたに悪意があり、あなたの先日の編集行為(「歴史」に「虐殺,追放」に関する記述を反映させたにもかかわらず「概要」にしつこいまでに同じ記述を入れようとしたこと)は荒らし同然であったと判断せざるを得ない。証拠としては
1.あなたが私の質問1(私の日本の例のどこが不適切で説得力がないのか)に1週間も答えられていない事実
2.あなたが私の質問2(「歴史」の節にあなたの「虐殺、追放」の記述を反映させたにもかかわらず納得しないのはなぜなのか。なぜ「歴史」で書いてあるのにもう一度「概要」で述べる必要性があるのか。)に1週間も答えられていない事実
3.あなたが理由として示した「貴殿のような愚者でも知ってる事実なら、「誰もが知っている事実だ」と言えるだろう」「「誰もが知っている事実」なのは事実である」「読者が事実かどうか確認するまでもなく、読者も既に知っている事柄である」ということを裏付ける客観的根拠が何一つ存在しないこと
等をあげることができる。なお、あなたは「私は既に貴殿の主張する二点への反論を既に用意している」と言っているが,1週間にわたる私の再三の回答要請に応じないことを考慮しても、それが本当だとは考えにくい。またあなたはこの1週間にわたって私を批判するのに終始し、議論を進展させようという意思が全く感じられない。以上のことから、あなたの一連の編集行為は悪戯、荒らしと同様のものであると判断し、すでに「歴史」で記述がなされた「虐殺、追放」の記述は「概要」に書く必要は無いと判断する。以上。--124.210.138.100 2007年3月22日 (木) 16:02 (UTC)[返信]

相変わらず質問の核心ははぐらかし、詭弁に終始しているのは遺憾である。これであなたは私から逃げているということがはっきりした。何度も言っているように、恣意的な出典要求はそれ自体荒らし行為であり、[7][8]、Wikipediaルールの悪用である。Wikipedia:検証可能性のノートでの議論もよく読め。恣意的な出典要求、削除は荒らし行為である。出典明示は絶対条件ではなく、出典が無い投稿≠即時削除の対象である。そもそも本件は一般通念上出典明記が必要ないほどの歴史的常識である。「歴史」の項目にある記述に対しても出典要求は一度もされていないし、インディアンウンデット・ニーの虐殺等、虐殺や迫害そのものについての具体的な項目すら立っており、さらにグーグルなどで検索すればいくらでも検証可能である。自ら出典を探そうという積極的行動もせず、さらに自分も十分知識として知っていると認めてさえいる。それでも出典を求めるならば、出典要求タグを貼れば良いことである。出典がないからといって、独善的に即時削除を行う権利も正当性もない。次に、貴殿の要求には、こちらの質問に誠意をもって解答しない限り回答しないと宣言したはずである。自分に正当性があると思うのなら、こちらの反問、質問には真摯に応えるべきであろう。Wikipediaのルールに従ったまで、という一方的な回答を言いっぱなしにするだけで、こちらの反問には一切答えないというのでは回答したということにならない。貴殿の論理を認めると、一字一句、誰もが知っている事柄にまでいちいち出典明記をしなければ削除されてしまうという恐怖政治が罷り通ることになる。そして、貴殿はルールを悪用して、自分の気に入らない記述は削除し、そうではない記述は特に問題にせず、Wikipediaという空間を意のままにしようとしている。貴殿はその卑劣で邪悪な態度を改めるべきである。こちらは既に貴殿の愚問に対する回答を用意していると言っている。議論を停止させているのは貴殿の方だということを自覚せよ--KASAGI 2007年3月23日 (金) 13:10 (UTC)[返信]

私の回答には「詭弁、詭弁」と主張しておきながら、あなたは私の2点の質問に答えようともしない。このことだけを見ても、あなたが議論を進めなくさせているということは火を見るより明らかであり、それをいまだに否定するあなたの頑固さには呆れるとしか言いようがない。しかも私が「あなたの編集行為は荒らし、悪戯同然」と判断した3つの証拠にも反論できておらず、私の「あなたの編集行為は荒らし、悪戯同然」との判断は正確だったとしか言いようがない。あなたは前回、次のような記述をした。
「相変わらず質問の核心ははぐらかし、詭弁に終始している」・・・どこをはぐらかしているというのか。「同じ記事の歴史の項目の虐殺、迫害についても出典がない以上、そちらも削除するのが筋ではないのか」というのがあなたの質問だったはずだ。それについては、「Wikipedia:検証可能性の「方針」の2.を読んだか?「記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と明記されている。つまりあなたの記述は除去されても文句は言えないのだ。そして、あなたの記述を削除したからといって(もっとも私はあなたの記述を「歴史」で残しており削除していない)、私が出典なしの記述を全部消さなければならないということには繋がらない。」と回答している。
「これであなたは私から逃げているということがはっきりした」・・・私の2点の質問には答えようともせず、私が「あなたの編集は荒らし、悪戯同然」と判断した3つの証拠にも反論できていない。逃げているのはあなたであることは明らかだ。
Wikipedia:検証可能性のノートでの議論もよく読め」・・・ノートでの議論と正式な「方針」とではどちらが重みがあり、有効か。正式な「方針」であることはいうまでもない。
「出典明示は絶対条件ではなく、出典が無い投稿≠即時削除の対象である」・・・そんな公式ルールがWikipedia内にあるというのなら教えてほしいWikipedia:検証可能性の「方針」の2.に「記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と明記されている。「出典明示は絶対条件ではなく、出典が無い投稿≠即時削除の対象である」と主張するのなら、その根拠はどこにあるのか示せ
「本件は一般通念上出典明記が必要ないほどの歴史的常識である」・・・客観的な証拠が何一つない。これは私が前回挙げた3つの証拠のうちの「3.あなたが理由として示した「貴殿のような愚者でも知ってる事実なら、「誰もが知っている事実だ」と言えるだろう」「「誰もが知っている事実」なのは事実である」「読者が事実かどうか確認するまでもなく、読者も既に知っている事柄である」ということを裏付ける客観的根拠が何一つ存在しない」ですでに提起済みである。あなたはいまだに反論できていない。あなたの矛盾がはっきりしている。
「グーグルなどで検索すればいくらでも検証可能である」・・・「いくらでも検証可能」というのなら1つくらい示せばよいではないか。Wikipedia:検証可能性の「方針」の3.に「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」と明記されている。
「自ら出典を探そうという積極的行動もせず」・・・Wikipedia:検証可能性の「方針」の3.に「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。」と明記されている。今回はあなたが書き加えようとしたためあなたが出典を示す義務を負う
「出典がないからといって、独善的に即時削除を行う権利も正当性もない」・・・。Wikipedia:検証可能性の「方針」の2.に「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」と明記されている。つまりあなたはそもそも記述を消されたことに対して文句を言う資格すらない
「貴殿の要求には、こちらの質問に誠意をもって解答しない限り回答しないと宣言したはずである」・・・誰がそんなルールを決めたのだろう。私はそんな「宣言」に合意も賛同もしていない。
「こちらは既に貴殿の愚問に対する回答を用意していると言っている」・・・あなたが客観的で説得力のある回答をもっているならばもったいぶることなく回答すればよい。1週間以上にわたる私の再三の回答要請に応じない有り様を見て、だれがこの言葉を信用するだろうか
「議論を停止させているのは貴殿の方だ」・・・私の2点の質問、3つの証拠に反論もできず、そのうえ私が指摘してきたようにあなたこそ「詭弁」を通そうとしている。誰が議論を停止させているかは明白である。
先のあなたの回答はこのように矛盾だらけである。やはり、あなたの一連の編集行為は悪戯、荒らしと同様のものであり、すでに「歴史」で記述がなされた「虐殺、追放」の記述は「概要」に書く必要は無い。--210.166.22.57 2007年3月24日 (土) 07:13 (UTC)[返信]

貴殿の行為があくまでもルールWikipedia:検証可能性に則っているというのならば、それは間違った恣意的な解釈である。Wikipedia:検証可能性が言及しているのは、学術誌などの信頼できる情報源に頼らないと記述の真偽が判別できない記述に関してであり、さらに

検証可能性は、ウィキペディアの記事における三つの方針のうちの一つです。あとの二つは、Wikipedia:中立的な観点と、Wikipedia:独自の調査です。ウィキペディアではこれらの方針を併せて標準名前空間、つまり記事に書くことができる情報の種類と質を決定しています。これら三つの方針は相互に補完しあうものであり、それらをばらばらに切り離して解釈すべきではありません。ともある。

ルールはそれを悪用する者のためにあるのではない。 貴殿のしている行為はWikipedia‐ノート:検証可能性で問題になっている行為である。「出典がない記述は一方的に削除してよい」というのは曲解である。Wikipediaの殆どの記事は議論の余地もない事柄に対して厳密な出典が示されているわけではない。それが許されれば殆どの記事は「出典がない」ことを根拠に好き勝手に除去されることになり、結果的に荒らしとなることを容認することになる。ノートの議論を軽んじるようでは、ルールを語る資格はない。ルールとは議論によって形成されるものであり、民主主義の基本である。貴殿のような者のために、Wikipediagaルールの悪用を戒めているルールもある。Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいを読むがよい。[9]

単にルールの文面に従うのではなく、そのルールに含まれている精神を理解し、尊重してください。例えば、Three-revert ruleは編集合戦ではなく、合意形成で論争を解決するのが目的です。このルールに引っかからないように編集合戦を繰り返す行為は、ルールの精神に反します。文面通りでは守れないルールである「ルールすべてを無視しなさい」は、ルールの精神が尊重されることを前提としています。このルールは、ルールの精神を無視することの正当化に使ってはいけません。また、ルールを表面上しか守らない行為は、必要以上にルールを複雑にする原因にもなります。例えば、あなたの家の前で、たびたび犬のフンがされて困っているとします。そこで、あなたは家の前に「ここで犬にフンをさせないでください」と張り紙をしました。ルールを表面上しか解釈されないのなら「犬の小便ならいいのか」と屁理屈を言われたり、今度は猫のフンをされたりするかもしれません。今度はそれに対応するように張り紙の文面を付け加えなければならないでしょう。そうすると今度は空き缶が家の前に……。というようにだんだん文面が複雑になっていきます。つまり、「ここで犬にフンをさせないでください」という張り紙は、「ここを綺麗に保ってください」という意味に解釈すべきでしょう。


貴殿の行為は犬の糞や小便をまき散らしているようなものである。さらに百歩譲って、削除することを認めるとしても、Wikipedia:事実を確認するに従うべきである。

「事実を確認する」に伴う注意事項として、事実かも知れない記述を除去するときは、注意深く行うということにも留意してください。 しばしば、書き手というものは、根拠のある記述を、参考文献を示さないまま書き込みます。 ですから、もしあなたが、ある記事から何かを除去したいと思ったときには、まず除去したいと考えた内容の正確性を確認して下さい。 もちろん、真実であることが実証されていたり出典が明示されている記述を除去するときには、より慎重になってください。 百科事典とは、本質的に事実を組織的にまとめられたものです。 ですから、提供されたそれぞれの事実は潜在的に貴重なものであると考えて下さい。 ある記述を除去しようとする前に自問してみて下さい。 この事実を説明し直すことは可能でしょうか。 問題となっているのは文脈でしょうか、あるいは、記事全体なのでしょうか。 もし、他の編集者がある事実を加えているとしたら、おそらくその事実を見落とすべきではない何等かの理由が多分あるのです。 もちろん、編集者が加えたもの全てを保存しなければならないと言うわけではありません。 しかし、根拠があり記事の主題と関連がある記述を取り除くときには慎重になってください

Wikipedia:検証可能性にも、

情報源を欠く記述について情報源の明示を求める場合、その記述をノートに移動するとよいでしょう。または {{要出典}}、{{unreferenced}} テンプレート、{{not verified}}、{{unsourced}} などのテンプレートを張ることもできます

とある。有無を言わさず削除をするという行為は、Wikipediaのルールを尊重する行為とは言えない。自らに都合の良いようにルールを恣意的に解釈し、それを盾にとって好き放題するというのは荒らし行為以外の何者でもない。--KASAGI 2007年3月25日 (日) 03:54 (UTC)[返信]

出典が無い記述への対処方法として「要出典、unreferenced、unsourced」タグを貼るなど、記述を削除する方法以外にも方法があったことは認めるが、だからと言ってあなたの記述を削除した私の行為は誤りだったとはいえまい。1週間以上にわたる議論をもう一度熟読し、また私の2点の質問、3つの証拠にいまだに回答が無いという事実を考慮すると、あなたは「歴史」に記すか「概要」に記すかというのは特に問題ではなく、むしろ私が出典がないという理由であなたの記述を削除したことに対して強い不快感を抱いているようである。私はWikipediaの日本語版と同時に英語版でも微力ながら編集活動を行っているが、英語版は日本語版と比べて出典に関して非常に敏感であり、かつ厳しく、出典が示されなかった場合はvandalism、あるいはspamと受け止められ、出典が無いために削除されているケースも多い。日本語版は英語版に比べて出典に関して非常に甘いという印象は否めない。また例えば日本語版のクリスマスは出典に関しての論争が原因で保護に至っている。Wikipedia:検証可能性の解釈をめぐってはまだまだ議論の余地がありそうである。私の編集によってあなたが不快感を抱いたのは事実であり、それはお互いに不幸なことであった。だが、出典のない記述はもし削除されたとしても、また「要出典、unreferenced、unsourced」と貼られても文句は言えないということを分かっていただきたいと思う。--124.210.138.100 2007年3月26日 (月) 10:16 (UTC)[返信]

ルールは何のためにあるのかということをもう一度よく考えるべきである。不特定多数の人間が参加するWikipedia上で、当然発生する意見の対立、紛争を避け、効率良く記事を充実させていくためにあるはずである。出典が重要であるというのは言うまでもないことである。ある記述に対してそのソースが不明な場合、出典が要求される事態が生じるのは当然である。但し、その記述に出典が必要であるか、ないかという判断基準は当然あってしかるべきである。例えば、「地球は太陽に対して地軸が23.4度傾いており、それがために四季がある」「1945年8月6日に広島に原爆が投下された」という記述に対し、出典を要求する馬鹿がいるだろうか。いたとしたらそれは荒らしである。一方で、「本能寺の変の黒幕は、実は羽柴秀吉である」という記述に対しては当然出典が要求される。そればかりか、一般的な通説とはなっていない事柄であるから、出典が明示されていても独自の研究ということになるし、検証不可能である。削除は当然ということになる。この判断基準は、検証可能性、中立性、独自の調査という三本を軸としつつも、あくまでも個々人の「常識」に委ねられているというべきである。Wikipediaを編集する上では、当然ながら一定の知性と常識が要求される。「一律に出典なくば削除」という貴殿の主張を認めれば、前者に対して削除することも正当化されてしまう。これは日本語版が緩やで、英語版が厳しいという問題ではない。ルールの精神を考えれば、そういう意図で作られたものではないことは明らかである。この点に関しては、一切譲るつもりはない。荒らしを正当化する論理を認めることは出来ないし、ルールを盾にとってルールの精神を冒涜するものだからである。これを否定する人間には何を言っても無駄だと感じる。ただ、その中間として判断が分かれる場合もあるだろう。そういう場合はノートにて議論すれば良いことである。今回の、「ネイティブ・アメリカンの虐殺・迫害」という事柄の場合、これを否定する意見はほぼ皆無であり、中間とも言えず、常識と言って良いだろう。疑問の余地もない歴史的事実である。これに関して貴殿は意を唱えるが、本気で言っているとは思えない。しかし百歩譲って、「要出典、unreferenced、unsourced」タグを貼るなら良い。別に文句は言わない。場合によっては貼った者自身の愚劣さを示すものともなろうし、仮に私が当然と思っていても、そうではないと考える人間がおり、もしかしたらそれが多数意見かもしれない。はたまたその逆かもしれない。しかしそれは一般読者が判断すべきことであり、その記事を読んで判断出来る状態にしておくべきでだからである。しかし貴殿はそれをしなかった。「出典なきは即削除」という貴殿の独善的な行為は誤りであったといえる。ただ、これを「概要」に載せるか「歴史」に載せるかという論点に立つならば、それは「概要」の定義を各個人がどう捉えるかによって適当か不適当かは別れる問題である。だから私はこれを主観の問題だと言った。私はこれが「概要」に書いてあっても何ら問題はないと考えるが、貴殿は違うのであろう。「概要」に対する考えが違うのであるから、どちらが正しいということにはならないだろう。どちらかが正当性を持つとしたら、他の第三者がどちらかをより妥当だと判断した場合だろう。その点で私は何が何でも我を通すというつもりはないし、別に今のままでも良いと思ってもいる。しかしこちらの主張にもそれなりの理由があり、貴殿の主張には反論しようと思えばいくらでも出来る。ここで私は、貴殿の回答に満足したわけではないが、貴殿の質問に対する回答を行う。 「歴史」に既に同じ内容があるから不要だ、という根拠は、それがなぜ同じ内容があったら不要なのか、という点で合理的理由がない。実際、「概要」にある地理的特徴なども、「地理」に既に同じようにある。概要には一種の要約である側面があること考えると、そこに重複が発生することもまた自然である。また、例えば日本のページで日本の今日の姿を形成するのに不可欠だといって、あちこちの節で「原爆が投下された」とか「第二次大戦に敗れた」とか書いたらおかしい。それと同じことですよ。が不適切な例なのは、日本とアメリカの成り立ちの違いを全く理解していないからである。国際法上の国家の三要素、国民、領土、権力のうちの一つである、領土の成り立ちに関わることだからである。アメリカという国は、無人島の上に国を作ったわけではない。領土を得るために、先住民を排除した。国家の概要として、この三要素を重視する観点に立つのは、そう突飛なことでもあるまい。これはイスラエルにも同様のことが言える。「日本に原爆が投下された」「戦争に負けた」ということとは、何ら共通点はない。次に、「歴史」に反映させたのに、なぜ納得しないかということだが、これは先に述べた通りである。どちらが正しいという問題ではない以上、別に妥協しないわけではない。こちらの主張にもそれなりの理由があるということである。また、先の議論のことをはっきりさせないままに、この議論に進むことはしたくなかったからでもある。以上が、私の言いたいことであり、私が譲れない点と、譲っても良い点を示した。これで納得しないのならそれまでである。--KASAGI 2007年3月26日 (月) 12:46 (UTC)[返信]

私の質問に回答していただいたことにまずは感謝申し上げる。これまでの議論を読み返したところ、あなたは私が「出典がない」という理由で削除した行為に異を唱え、重点を置いた。一方私は「概要」に記すか「歴史」に記すかという点に重点を置き、2点の質問の回答を要請していたためにこれまで平行線をたどってきたようである。まず、「概要」「歴史」いずれに記すかという点についてはあなたは、私は何が何でも我を通すというつもりはないし、別に今のままでも良いと思ってもいるということである。私は「概要」に「虐殺、追放」を記述するのは不適切だと思う。なぜなら、特に「虐殺」というむごい言葉自体が「概要」に記述されて良いものとはどうしても思えないからである。ことに「アメリカ合衆国」という一国家についての「概要」である。こういった言葉にはより一層慎重になるべきである。私以外にも「草苺」と名乗る人間が「表現を緩やかに」という目的で「虐殺、追放」から「追い出す」というように改めている。第三者の目にも「虐殺」という記述は慎重になるべきと映るようである。以上のことから「概要」には含めないこととする。
 次に、あなたが重点を置き、「譲れない」としている出典と削除をめぐる問題についてだが、私はあなたの意見には基本的に賛成である。「1945年8月6日に広島に原爆が投下された」という記述に出典要求するのはおかしいというのは確かにそのとおりだと思うし、今回の件でも私は「虐殺、追放」の知識はあった。ただ単にWikipedia検証可能性のルールに基づくという善意によるものだった。だが、その行為をあなたが「荒らし」と受け止めたのは事実であり、それは私としても重く受け止めなければならないと思う。ただ、一つ申し上げておきたいのは、Wikipediaを編集する者の中には一般常識すら欠如している者も多く存在するというのもまた事実であるということである。例えば先ほど紹介したクリスマスにおいて、「欧米では12月26日以降もクリスマス関係の行事が続き、前述のように、年明けの1月6日にクリスマスプレゼントを贈る場合もある。(中略)日本では12月25日を過ぎるとクリスマスの飾りから一転して門松などの正月飾り(日本の神道式)に付け替えられることが多い。」という一般常識がAlbumという人物によってコメントアウトされている。欧米で12月26日以降もクリスマス関係の行事が続くこと、日本では12月25日を過ぎるとクリスマスの飾りから門松などの正月飾りに付け替えられることは誰もが知っており、また経験している一般常識であり、かつ事実である。これに対する否定説すら存在せず、あなたのいう「中間」にも該当しないであろう。だがAlbumはまさに「出典が無い」という理由でコメントアウトしたのである。つまり一般常識の欠如している編集者もたくさんいるのである。今後のあなたの充実した編集活動のためにもこの現実を知っておいて損はなかろう。最後に今回の議論の合意案を示す。
①「虐殺、追放」の記述はその言葉の性格上、一国家を要約する「概要」に記述するのはより一層慎重にならざるを得ない。よって「概要」には記述しない
②出典のない記述に対してはそれが一般常識であり十分に周知されているかをよく吟味した上で削除をするか判断する。出典がないからという理由だけで削除しない。
この合意案に賛成していただけるだろうか?--124.210.138.100 2007年3月26日 (月) 18:52 (UTC)[返信]

横から一言。お二人ともクールダウンして下さい。Wikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:議論が白熱しても冷静にを参照してみて。ではでは、お邪魔しました。--ハンドレット 2007年3月27日 (火) 08:42 (UTC)[返信]