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利用者‐会話:42底ない

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斯波氏武衛家の系譜に属する人物の記事[編集]

あなたが七転八倒斎氏と同様に作成している斯波氏武衛家の系譜に属する人物の津川近利斯波詮国斯波義眞の記事の現状は著名家系の子孫であることに過ぎない系譜記事に留まっています。百科事典の単独項目に取上げるべき根拠となる本人自身の特筆性のある業績を文章で解説してください。--59.146.91.53 2009年10月6日 (火) 21:49 (UTC)[返信]


越後長岡藩[編集]

越後長岡藩のノートに意見を書きました。採決も必要かもしれません。該当部分の執筆者としてノートの議論に参加をお願いします。--今泉総一郎 2009年12月18日 (金) 20:00 (UTC)[返信]


初めまして、故城一片之月と申します。42底ないさんに、越後長岡藩の家臣団の件で御願いがあってここに参りました。

  • 越後長岡藩の家臣団の当該ページは容量が過重になっている関係から、スリム化のため記事整理の議論があります。宜しければ、議論参加・御意見等もよろしく御願い申し上げます。
  • ページ:越後長岡藩における、記事スリム化に御協力頂きありがたいです。ところで、同ページの中老職での42底ないさんの投稿は、長岡藩の藩幹部の変遷の比較データとして有意味と思われますが、記述場所がやはり不適当(「中老職」の節なので)ですね。私としては別ページ(タイトル:「越後長岡藩 (データ)」とか)を立てた方が記事構成上は自然ですし、他の方々からも受け容れられ易いと存じますがどうでしょうか?--故城一片之月 2009年12月23日 (水) 00:20 (UTC)[返信]
  • こんにちわ

底ないさんは、武鑑の家臣の記述の順序を、格式に対応していると、お考えのようですが、これは明らかな誤りです。対応していることも稀にあるという程度です。

牧野家の分家支藩となる小諸藩を例にとると次のようになります。

用人の定員は3名であり、家老職を補佐します。実態は本家長岡の奉行に近い権能であったと思われます。用人は番頭より格上です。また側用人が数名設置されて、牧野家の私事を総覧しました。ほかに取次(奏者)があります。諸藩では側御用取り次ぎとも呼ばれ、武鑑では、用人に分類されることもありますが、武鑑の記述を見る限り、小諸藩の取次(奏者)は、用人として記述されていません。

私が一番、何を主張したいのかと言えば、小諸藩では、用人より4階級も低い側用人が、用人と混在して、用人として記述され、文化文政武鑑においては、年次の古い順に記載されています。これをみて用人首座、用人次席は、誰だというような記述をしても、混乱させるだけだということです。

長岡藩では先法三家のうち一家が、用人となることが慣行としてありましたが、この用人が筆頭用人であるはずですが、一方の文化文政武鑑の序列の記述は、おおむね年次の古い順です。

武鑑の記述の順序をみて、筆頭とか首座とか次座というのは、誤りだと思うのですが、いかがでしょうか。--今泉総一郎 2009年12月23日 (水) 02:18 (UTC)[返信]

  • そのような理由があれば、納得である。記述序列については削除することに同意しますし、本日午前中に同意したつもりです。序列について、削除されていないところはこちらの見落としなので、削除お願いします。

只、席順は違えども役職と就任者には、ずれはないと思いますので、有名人物がいつの武鑑に記載されていることについては記述していくつもりです。文化武鑑は家臣情報が毎年更新でないのは薩摩藩士を調べて分かっているので(文化5年に死んだはずの山本傳蔵がその後しばらく記載されているなど)、個人的には明らかに改訂があった年次しか使ってません。また、『取次(奏者)と用人が混同』とおっしゃいますが、小諸藩では取次が用人を兼務していなかったのでしょうか?。幕末の松山藩や越後三日市藩岡部藩亀山藩などでは側用人と用人を兼務している者がいます。

また、混同しているように見えるのは長岡藩に限らず、取次自体が武鑑記載対象レベルでなく立項してない為で、基本的に取次は藩政機構掲載の巻之2でなく、幕職のある巻之3に藩主が掲載されたときしか記載されず、側用人と取次が別な藩もあります。--42底ない 2009年12月23日 (水) 12:59 (UTC)[返信]

小諸藩では用人が、取り次ぎを兼務しているということは、管見の史料には、一切ありません。隣の上田藩松平氏では兼務が多く、取り次ぎも、用人として武鑑に掲載されていることが、あります(全部ではありません)。1000石~200石の幕臣(旗本)では、交代寄合松平氏を除き、家臣筆頭は用人であり家老は設置されていないことが原則のようです。つまり家中(かちゅう)における用人の相対的な地位が非常に高いということです。長岡支藩の小諸や三根山は、小さな藩であるため用人は家老に次ぐ重臣で加判であることがほとんどです。重臣たる用人が取り次ぎを兼務していることは、まずありえません。

長岡藩では用人が重臣として加判であったことはありません。中規模以上の藩では、用人と家老の中間にいくつもポストがあり、用人の家中における相対的地位が低いのです。

武鑑は民間版でアバウトなところがありますが、私は第1級史料であるとの認識を持っていますので、武鑑からの引用を、すべて排除するという考えは持っていません。

もし家臣の記事で引用するならば、公平・衡平の観点に立って記述を望むしだいです。底ない氏は、そのような人ではないと思っていますが、自分の先祖となる家臣だけに、武鑑からの引用をつけるというようなことは、避けるべきだと考えます。--今泉総一郎 2009年12月23日 (水) 13:37 (UTC)[返信]

亀山藩などのことについては調査していませんが、側用人と用人を兼務している標記の家臣は、幕府の側御用取り次ぎと、職務内容がほぼ同じことが多いようですから、確認されるとよいかもしれません。徳川吉宗が側御用取り次ぎというポストを新設してから、諸藩でもこれを真似たようです。--今泉総一郎 2009年12月23日 (水) 16:34 (UTC)[返信]

『自分の先祖となる家臣だけに、武鑑からの引用をつけるというようなことは、避けるべきだと考えます。』といいますが、それだけはない。私自体は越後長岡どころか日本海側に縁がない上に自身の先祖についての家蔵記録は火山噴火にて埋没し、除籍謄本は先祖がとっていないので、法務省の規定により廃棄済になってしまい、自分の先祖の身分がなんだったのか推察すら出来ない身の上です(思い出しただけで胃潰瘍になる。しかも壬申戸籍以後初の改定で登場する戸主が女戸主だったのにそれが取れずに口惜しい)。こういうわけで、『越後長岡藩のあまり有名な子孫でないのでそれを底上げする』というつもりでなく、『編年江戸武鑑』に記載される各氏姓の家臣を只、単に詳しく書いたらそうなっただけですし、なんどか言うように長岡藩出身なら、藩史料と比較しながら書いていますが、そうでなく史料も武鑑のみな状況です。基本的に加筆希望のつもりです。ところで『小諸藩では用人が、取り次ぎを兼務しているということは、管見の史料には、一切ありません。』というところの管見の史料の、史料名はなんというもので、その史料が分限帳の場合は用人と取次の項目が別に作られ、用人と取次の項目に重複記載されている者がいないということでしょうか。--42底ない 2009年12月23日 (水) 23:35 (UTC)[返信]

諸藩の史料は、膨大であり、出典を明示するのは、たいへんなことです。また諸藩の史料は、一か所に残っていることは少なく散逸していることがほとんどです。

まず東京大学史料編纂所、国立公文書館は、あたってみる価値があります。特に東京大学史料編纂所には、膨大な諸藩の史料があります。地方自治体が郷土史の研究に熱心で、財政が豊かな場合は、市誌が充実していて、資料編などがついていることがあります。--今泉総一郎 2009年12月24日 (木) 03:09 (UTC)[返信]

小諸では用人と取り次ぎの重複記載のあるものはありません。あくまで家老の全般を補佐する重臣です。新人物往来社の物語藩史の小諸藩には、職制が入門者にもわかりやすく著述されています。私は小諸藩関係の分限のコピーを6本、鉄三郎氏に見せていただいたことがありますが、活字として公刊されているものは、そのうち2種類です。その他は限定的ですが写本などを図書館、東京大学史料編纂所で閲覧できます(現在は閲覧室は耐震強度不足のため閉鎖中です)。鉄三郎氏が詳しいのですがウィキペデアを長期、お休み中なのが残念です。--今泉総一郎 2009年12月24日 (木) 03:09 (UTC)[返信]


小諸藩牧野氏の家臣団[編集]

もっとも越後長岡藩牧野家には家老を補佐する中老・奉行職があり、世襲家老が幼少でも藩政に支障はない。との記述は何を根拠に、また小諸藩の家臣団の記事に書かれたのか、お尋ねします。

  • 1,小諸藩の用人は、長岡藩の用人とは、権能・職権が異なり、家老の全般を補佐する用人加判です。この点では小諸でも世襲家老が、幼少でも藩政に支障はありません。
  • 2,長岡藩では、幼少家老は稲垣平助家しか例がありません。ほかの長岡の家老と一義的に論ずることはできません。

もっとも、越後長岡藩牧野家には家老を補佐する中老・奉行職があり、という一文は、小諸には家老を補佐する重役職がないものと、誤解されるのではないのでしょうか?。

この記事は、42底ないさんが、ウィキペディアの規定に違反して、想像と推定で書きこんだため、論理一貫性がなくなっているように、思えるのですが、いかがお考えでしょうか? --今泉総一郎 2010年3月19日 (金) 18:02 (UTC)[返信]

「長岡市史」を見た限りにおいて、長岡藩の中老、奉行は加判で、家老の補佐役で小諸藩の家老の全般を補佐する用人加判に似たようなものと見受けて書いたものです。 ここら辺の記述に問題あれば、削除など適宜取り扱い願いたく思います。基本的に他者による加筆などされる前提で記事を書いているつもりですので、それなりの理由があれば削除してもかまいません。 ご迷惑おかけしました。--42底ない会話2012年4月29日 (日) 17:31 (UTC)[返信]

一括投稿のお願い[編集]

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投稿時、中央のボタンを押すとプレビューできます。(詳細画像

その際に細かいところでミスを起こすのではないかと心配な場合は、「投稿する」ボタンの右隣にある「プレビューを実行」ボタンを活用されることをお勧めします(画面右側の図を参照)。投稿される前に「プレビューを実行」のボタンを押すと、成形結果を先に見ることができます。これを使うことで、

などをあらかじめチェックし、修正した上で記事を投稿することができますので、是非ともご活用ください。

また、編集競合を避けたい場合は、Template:Inuseをお使いください。ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。--ヨッサン 2010年3月3日 (水) 20:12 (UTC)[返信]