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利用者‐会話:Asuramaru97

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弥助での加筆編集について

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初めまして。Asuramaru97さんが弥助で行っていらっしゃった編集を差し戻しました。結論から申しますと、こちらの編集は単純に虚偽であるというのと、Wikipediaの方針に合致しない点があるため、残念ながら不適当と言わざるを得ません。

  • Asuramaru97さんが編集した文章をすべて読んでいただくとわかると思うのですが、この文はイエズス会日本年報の内容を典拠としています。そこに何の説明もなく信長公記の内容を紛れ込ませてしまうと
弥助と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり

という虚偽を伝えてしまうことになります。信長公記を典拠にしたいなら(後述する通り、その考え方自体が少しまずいのですが)、イエズス会日本年報をもとに書いている部分とは別にして、きちんと「信長公記によると」と書かないといけません。

  • WikipediaにはWikipedia:信頼できる情報源という、典拠にしてよいものとよくないものを判別する基準があります。歴史記事について編集したいということであれば、まずは「Wikipedia:信頼できる情報源#歴史」をご一読ください。簡単にいうと、同時代や少し後の時代に書かれた文献などを「一次文献」と呼び(イエズス会日本年報や信長公記が当てはまります)、現代になってそれら一次資料を専門家が専門的な知見をもとに分析したうえで取り上げている文献を「二次文献」と呼びます(学術論文や専門書がそれに該当します)。一次文献は、当時の限られた視野と情報だけを持った人間が主観で書いたもの。しかも一口に「信長公記」といってもいくつかの版があり、どのような経緯でどの版のどの部分を参照するのが適切なのかという分析が必要です。そのあたりを我々素人が読んで勝手に解釈しても、適切な歴史学の過程を経ていないので、信頼できる記事は書けません。ですからWikipediaの大原則として、一次文献ではなく二次文献のみが出典に使えます。なので、信長公記を出典とすることはできません。弥助の問題の文をもう一度見ていただくと、文末に脚注がついていますね。「イエズス会日本年報を歴史学者の村上直次郎がまとめて本にしたもの」を出典としており、イエズス会日本年報そのものを出典としているわけではないのです。同じ記事の他の部分で信長公記を参照している文の書き方も参考にしてみてください。表に見えない要約欄で「信長公記」と書くだけでは出典を示したことになりません。
  • 最後に、ある意味これが一番大事なのですが、一般的に用いられている信長公記の刊行本(我自刊我書)には弥助が武士とされたとの記述どころか「弥助」という名前自体の記載がありません。(信長公記における弥助(と思われる人物)の記述は「黒坊主参り候年之齢廿六七と見えたり惣之身の黒き事牛之如彼男やかに器量也も強力十之人にたり」のみです(信長公記 巻之下 (我自刊我本)国立国会図書館デジタルコレクション)。他の写本には「弥助」の文字が記されているものもありますが、参照されることがすくない写本であり、これを扱うなら信長公記自体を分析した二次文献を典拠とする必要があるでしょう。弥助という名が記されているのは家忠日記であり、彼が武士であったか否かも家忠日記の「上様御ふち候」という記述の「扶持」をどう考えるかによって解釈が分かれる部分です。このことは基本的な弥助に関する一般書を読めば(というより弥助のページを最初から最後まで読んでいれば)分かるはずで、「信長公記をもとに「「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て」という文を復帰した」というAsuramaru97さんの記述は、非常に危険です。まずは信頼できる歴史学文献(小説や一般向けの概説書では駄目です)をお読みになってから、Wikipedia記事の加筆修正をお願いいたします。

--McYata会話) 2024年5月18日 (土) 16:21 (UTC)修正--McYata会話2024年5月18日 (土) 16:34 (UTC)[返信]