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「弥助」の版間の差分

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天正9年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]](1581年[[4月14日]])付で[[ルイス・フロイス]]がイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、[[京都]]で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどだった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという<ref name="p384"/>{{efn|『イエズス会日本年報』が初出。前述のソリエの『日本教会史』やそれを受けたクラツセの『日本西教史』も年報を出典としている。}}<ref name="Hakken2">藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』[[岩波書店]]、2005年5月。{{要ページ番号|date=2019-04-23}}</ref><ref name="p420421" />。
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本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい身近に置くことにしたとイエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入っていて、ゆくゆくは殿にするつもりなのではないかと噂されていたという<ref name="nempo"/>。また、[[金子拓]]によると、『信長公記』の筆者である[[太田牛一]]末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本([[尊経閣文庫]]所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と鞘巻(腰刀の一種)を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるという<ref>「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。</ref>。
本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な[[武士]]の身分に取り立て、身近に置くことにしたとイエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入っていて、ゆくゆくは殿にするつもりなのではないかと噂されていたという<ref name="nempo"/>。また、[[金子拓]]によると、『信長公記』の筆者である[[太田牛一]]末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本([[尊経閣文庫]]所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と鞘巻(腰刀の一種)を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるという<ref>「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。</ref>。


『[[家忠日記]]』の天正10年4月19日([[1582年]][[5月11日]])付けの記述には「上様{{efn|name="ue"|この文脈では天下様の意味で、ここでは[[天下人]]・織田信長を意味する。松平家忠は「殿様」である徳川家康に仕える陪臣である。}}御ふち候、大うす(デウス)進上申候、'''くろ男'''御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている{{sfn|松平|1897|p=54|}}。これは弥助も従軍していた[[甲州征伐]]からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に[[徳川家康|家康]]の家臣である[[松平家忠]]が目撃したものである。
『[[家忠日記]]』の天正10年4月19日([[1582年]][[5月11日]])付けの記述には「上様{{efn|name="ue"|この文脈では天下様の意味で、ここでは[[天下人]]・織田信長を意味する。松平家忠は「殿様」である徳川家康に仕える陪臣である。}}御ふち候、大うす(デウス)進上申候、'''くろ男'''御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている{{sfn|松平|1897|p=54|}}。これは弥助も従軍していた[[甲州征伐]]からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に[[徳川家康|家康]]の家臣である[[松平家忠]]が目撃したものである。

2024年5月18日 (土) 15:00時点における版

 
弥助
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
ポルトガル領東アフリカ
死没 不詳
別名 ヤスケ、弥介、彌介、彌助[注釈 1]
主君 織田信長
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弥助[注釈 1](やすけ、生没年不詳)は、戦国時代の日本に渡来した黒人男性。宣教師の護衛[1][2]、従者[1][2][3]、または奴隷として戦国大名織田信長に謁見し、気に入られたことで彼の家来として召し抱えられた[注釈 2]

生涯

琳派の1590年代の硯箱。蓋内側には黒人の召使が描かれている。

生い立ち

『南蛮屏風』(狩野内膳画)。黒人の召使が描かれている。
日本に到来したイエズス会宣教師たち。彼らに付き従う黒人の召使が描かれている。
左側の力士は、黒い肌に髷を結っていないざんばら髪、高い鼻など、明らかにそれ以外の人物とは異なる人種的特徴で描かれている。相撲遊楽図屏風の一部(堺市博物館所蔵)

弥助の出自については、フランソワ・ソリエが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イエズス会イタリア人巡察師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた使用人[4]で、出身地はポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)であると記されている[5]

戦国時代、ポルトガルスペインなどヨーロッパ人が日本を訪れるようになり、アフリカ出身の者たちも、従者または奴隷として連れてこられていた。その数は決して少ないものではなく、弥助もそのような一人で宣教師の護衛をしていたとされる。護衛として武術の訓練も受けていたと見られるため解放奴隷や自由人との説もあり見解が分れている[6][1][2]

ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した[7]後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。

日本へ

天正9年2月23日1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れていた[8]。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述され、年齢は26歳 - 27歳ほどで、「十人力の剛力」、「のように黒き身体」と描写されている[9]

天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して喧嘩、投石が起き、重傷者が出るほどだった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという[4][注釈 3][10][8]

本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会日本年報にあり、信長は弥助を気に入っていて、ゆくゆくは殿にするつもりなのではないかと噂されていたという[11]。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と鞘巻(腰刀の一種)を与えられ、時には道具持ちをしていたという記述があるという[12]

家忠日記』の天正10年4月19日(1582年5月11日)付けの記述には「上様[注釈 4]御ふち候、大うす(デウス)進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥助ト云(信長様が、扶持を与えたという、宣教師から進呈されたという、黒人を連れておられた。身は墨のようで、身長は約1.82メートル、名は弥助と云うそうだ)」とその容貌が記述されている[13]。これは弥助も従軍していた甲州征伐からの帰還途上に、信長が徳川領を通った時に家康の家臣である松平家忠が目撃したものである。

本能寺の変

天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇すると、二条新御所に行って異変を知らせ、信長の後継者の織田信忠を守るため明智軍と戦った末に投降して捕縛された。『イエズス会日本年報』によると、「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」という[8]

家臣に、弥助をどう処分するかを聞かれた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として処刑させずに、「インドのパードレ[注釈 5]の聖堂に置け」と言った。このため弥助は南蛮寺に送られて命拾いした[8][11]。この光秀の発言については、黒人の弥助に対する差別意識の表れだったとする説と、弥助に情けをかけて命を助けるための方便だったとする説があるが、真相は不明である。

その後

南蛮寺に預けられて以降、弥助の消息については、史料に記されておらず、全く分かっていない。

その後の他地域の史料の中には、黒人が登場するものがいくつかあり、弥助以外にもたくさんの黒人が来日していた。フロイスの『日本史』の沖田畷の戦いには、有馬方に大砲を扱える黒人がいるとの記述がある。慶長10年(1605年)頃に描かれた『相撲遊楽図屏風』には、肌の黒い男と髷を結った力士が相撲を取る様子が描かれている。

信長のデスマスク

愛知県瀬戸市定光寺町の西山自然歴史博物館には、信長と伝わるデスマスクが展示されている[14](信長であるという確証はない)。織田秀信の庶子を称したという織田秀朝(西山清明)の末孫を主張する[15]西山館長によれば、弥助という黒人の家臣が持ち出した信長の首から作られたという。

登場作品

弥助が主人公として描かれている作品は★印。弥助をオマージュした主人公は☆印。

小説等
漫画
アニメ
ドラマ
ドキュメンタリー
  • 「Black Samurai 〜信長に仕えたアフリカン侍・弥助〜」(2021年5月15日、NHK BSP[22]
映画
ゲーム
舞台

脚注

注釈

  1. ^ a b 弥助、弥介、また旧字での彌助、彌介は、どれも同じ。同音異字の置き換えは江戸時代にはよく見られた。
  2. ^ 名前の分かる人物では、日本の史料に登場する最も古いアフリカ人の1人であるが、所在が確認できる期間は1581年3月27日から1582年6月21日の1年余りと極めて短い。信長にとっては最晩年の家来衆となる。
  3. ^ 『イエズス会日本年報』が初出。前述のソリエの『日本教会史』やそれを受けたクラツセの『日本西教史』も年報を出典としている。
  4. ^ この文脈では天下様の意味で、ここでは天下人・織田信長を意味する。松平家忠は「殿様」である徳川家康に仕える陪臣である。
  5. ^ 「パードレ」は父の意味だが、ここでは伴天連、つまり神父達をさす。

出典

  1. ^ a b c Mohamud, Naima (October 14, 2019). “The mysterious life of an African samurai”. November 1, 2020時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月21日閲覧。
  2. ^ a b c Yasuke: le premier samouraï étranger était africain”. Rfi.fr (January 2, 2015). January 14, 2020時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月21日閲覧。
  3. ^ Lockley, Thomas, African Samurai : The True Story of a Legendary Black Warrior in Feudal Japan (in USA), Yasuke: The true story of the legendary African Samurai (in GB), 2019.
  4. ^ a b クラツセ 1925, p.384
  5. ^ François Solier (2019-04-23). Histoire Ecclesiastique Des Isles Et Royaumes Du Japon. 1. p. 444. https://books.google.co.jp/books?ei=eJjFUe3tK4SEkgXlxoGICQ&hl=ja&id=pQE_AAAAcAAJ&dq=&jtp=444#v=onepage&q&f=false 
  6. ^ アフリカの日本、日本のアフリカ 第2章 日本に渡ったアフリカ人”. 国立国会図書館. 2019年10月21日閲覧。
  7. ^ クラツセ 1925, pp. 427–430.
  8. ^ a b c d 岡田 1999, pp.420-421
  9. ^ 近藤瓶城 1926, p.204。太田 & 中川 2013, p.259
  10. ^ 藤田みどり『アフリカ「発見」日本におけるアフリカ像の変遷』岩波書店、2005年5月。[要ページ番号]
  11. ^ a b 村上直次郎; 柳谷武夫(訳)『イエズス会日本年報 上』雄松堂出版〈新異国叢書〉、2002年。ISBN 484191000X [要ページ番号]
  12. ^ 「織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ』、勉誠出版、2009年、311-312頁。
  13. ^ 松平 1897, p. 54.
  14. ^ 信長のデスマスク:“本物”をテレビ初公開 外国人リポーターの依頼で実現”. MANTANWEB(まんたんウェブ). 2019年4月23日閲覧。
  15. ^ 西山自然歴史博物館, 西山家万世守る会 編『西山家文言覚書秘伝録 為朝及び信長孫秀信の生涯編』1984年。 
  16. ^ a b c d トーマス 2017, pp. 97–114.
  17. ^ 時代考証009”. 新井淳也. 2019年4月23日閲覧。
  18. ^ Inc, DIGITALIO. “YASUKE(漫画)”. マンガペディア. 2023年9月12日閲覧。
  19. ^ Netflix Unveils ‘Pacific Rim’, ‘Altered Carbon’ & More In New Lineup Of Anime Originals”. Deadline Hollywood. 2018年11月8日閲覧。
  20. ^ imdkm (2021年6月17日). “TAKU INOUEが「YASUKE -ヤスケ-」に見たフライング・ロータス(Flying Lotus)のおたくな仕事人っぷり フライング・ロータス『YASUKE』”. Mikiki. TOWER RECORDS ONLINE. 2023年2月15日閲覧。
  21. ^ 後藤豪 (2022年5月13日). “信長に仕えた黒人侍Yasuke 昨春アニメ化 世界が注目する魅力”. 毎日新聞. https://mainichi.jp/articles/20220512/k00/00m/040/250000c 2023年2月15日閲覧。 
  22. ^ Black Samurai 〜信長に仕えたアフリカン侍・弥助〜”. NHK (2021年5月15日). 2021年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月20日閲覧。
  23. ^ ‘Highlander’ Creator Gregory Widen To Write Movie About First Black Samurai”. Deadline. Penske Business Media, LLC. 2019年4月23日閲覧。

参考文献

関連項目