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利用者‐会話:Bokemiann/過去ログ1

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ウィキペディアにようこそ![編集]

こんにちは。はじめましてSuisuiと申します。ウィキペディアへようこそ!

ウィキペディアで活動する際にはWikipedia:ガイドブックを是非ご一読ください。きっとご参考になるものと思います。よろしければ 自己紹介してみてください。執筆の際には中立的な観点および 著作権にご留意ください。何か疑問点がありましたらWikipedia:井戸端で質問することができます。あなたが実り多き活動をされることを楽しみにしております。

Welcome to Japanese Wikipedia. If you are not a Japanese-speaker and expect further information, visit Wikipedia:Chatsubo for non-japanese-speakers. Enjoy!

なお、このメッセージは主に利用者‐会話ページに何も記入されていない方に投稿しておりますので、すでに活動を開始されてから期間が経っていらっしゃるのでしたら、お詫びいたします。--Suisui 2004年8月26日 (木) 17:14 (UTC)

ありがとうございます。
お返事が送れましたが、本日、早速「井戸端会議」に質問させていただきました。
上記の項目を含む指針等はざっとながら一通り拝見させていただいた上で活動を開始いたしましたが、まだまだ分からない点が多く、或いはフランイングをしてしまうこともあるかと思います。何か間違いがありましたら、その時は皆さまよろしくご教示下さい。
Bokemiann 2004年8月29日 (日) 08:09 (UTC)

こんにちは。キリスト教の項目に大きく手をいれてくださりありがとうございます。秀逸な記事にいまのところはリストアップしているのですが、以前にリストアップされ必ずしも吟味を十分経ていないきらいがあるので、近日にでもいちどProject:秀逸な記事の再選考に載せたいと考えています。何度か分割・併合をくりかえして見通しが悪くなってきていることもあり、おおなたをふるっていただける方がいたほうがいいのじゃないかとちらちらみていて思いました。

百科事典としてもつべき基本的な項目だと思いますので、大事に育てていければと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。--Aphaia 2005年8月1日 (月) 17:49 (UTC)

レスポンス 有難うございます。
信者ではありませんが、キリスト教には比較的詳しいので、昨年夏にウィキペディアに関わって以来、今まで関連項目で気になる箇所に加筆・訂正を行なってきました。
確かにおっしゃる通りで、キリスト教の記事も秀逸な記事から大分逸脱してきた感も否めません。たとえば「近世以前のキリスト教」の項目も、以前どなたかが新章のような形で投稿されたものです。その時は「困ったな」とは思いましたが、「キリスト教の歴史」に統合する作業も大変なので、知らん顔をしてきました。内容的にはそれほどひどい記事ではないのでそのままにしていたのですが、これ以上記事が拡大しても困るので、「キリスト教の歴史を参照すべし」のコメントを入れて、取りあえず楔を打っておきました。
また「近世以降のキリスト教」にしても、特に現代の部分は当事者としても一番エキサイトしやすい箇所ですし、出来れば別項目にした方がよいのかも知れません。その方が「秀逸な記事」の体裁が守れると思います。
8月はマシンのリカバリ等をする予定なので余り積極的に関与出来ませんが、今後ともよろしくお願いします。Bokemiann 2005年8月2日 (火) 16:25 (UTC)
遅いお返事になりましたが、
こういう基礎項目ではある程度情報を万遍なく網羅する必要があると考えています。これだけを読んだ状態で事態が通観できるようになっているのが百科事典であろうと。とすると私は逆に、宗教改革までを教派の成立という観点から書いたものが入ったことはよいことだと考えています。ただあの記述ではユダヤ教やイスラム教との関係が出てこないので、それはまずいなというのは考えています。
近世以降、は最近整理しましたが、同じわけですっぱり別にもっていくのはどうかなとも思います。「秀逸な記事」であることのために、必要な情報をあえて触れないというのは少し順序が違うかなと思いました。
あと、関連項目(「○○を参照」)との受け渡しが、キリスト教項目で最近あまりうまくいっていなくて、個別項目と同じくらいの詳細さで本項目に加筆されていたのを最近整理しました。ものによっては個別項目よりつっこんだ内容だったりしたので、そういうものは個別項目に逃がしています。
その過程でBokemiannさんには不本意な編集もあったかもしれませんが、他意はございませんので、お気づきのことがあれば項目のノートなどでご指摘ください。個人的には、複数の項目で同一のことを書くのは冗長であるし、ある程度区別をつけることがめりはりがでていいのではないかと思います(関連項目を読みにいって記述に差がないなら、読者が閲読する意欲は減衰するかと思います)。そのあたりの互いの執筆方針の話も機会があればそのうちやりたいですね。
今後ともよろしくお願いします。 Aphaia

キリスト教方面でご一緒することの多いLRです。ちょっとご相談事があります。あなたと私の物の見方が非常に似通っている、ということは過去の編集合戦(笑)の経験上お互いよく分かってると思いますので、そこで親近感を持っていただけているということを根拠なく頼りにしてずばっと申し上げますと、(一呼吸)、Bokemiannさん、時々クドいよ(笑)。すでに文中リンクが飛ばしてある記事内容と同じこと書いてあるのは百科事典として「水増し」で「雑音」だと思うし、概要はシンプルに、後の詳細と同内容を書く必要はないでしょう。詳細事項にしても、同じ内容を短く書くのが事典記者のウデです。それから、貴方の編集はリベラル贔屓が透けて見える事が(爆)。リベラルなキリスト教徒である私がそう思うんだから、根本主義者がキレるのも無理はないかもです。ここはぐうの音も出させない客観的記述で攻めるのが吉です。一週間後に、創造論の再々構築にかかりますので、その事をお互い念頭に、妙な方向にエスカレートしないように、楽しく励みましょう。今後ともよろしく。LR 2005年8月29日 (月) 00:57 (U)

Bokemiannさん、こんにちは。「天命」のところで、私の参考文献を削られ「占いまがいのの本」と書かれましたが、大いなる誤解だと思います。本当に読んでいただいたのでしょうか。まだでしたら読んでいただいた上でご批判たまわりたいと思います。よろしければ本をお送りします。この件は私のライフワークなので。出口光 2008年7月26日

「キリスト教」の出典加筆 ご協力のお願い[編集]

Bokemiann 様、はじめましてAgapeeです。

キリスト教の項目が 2007年10月15日に秀逸な記事の再選考にて秀逸の可否について議論にかけられ現在進行中です。指摘された不備な点はおよそ次の3点です。1.「東方正教会の展開」の節が(タイトルだけ存在し)書かれていなかったこと。 2.理解を助ける図や表が一切掲載されていなかったこと。 3.参考文献や出典がほとんど掲載されていなかったこと。

指摘を謙虚に受け止めました。ただし、全体的に記事本文自体は良く書けていますので、不備な点に手を加えることで今後も秀逸な記事として維持したいものだと思いました。さらに良い記事とするのにちょうど良い機会とも感じました。そこで、理解を助ける図についてはすでに曼珠沙華さんと私のほうでいくつか加えました。また「東方正教会の展開」については私のほうで出稿いたしました。

あとは参考文献および出典なのですが、私のほうでいくつか補ったものの、まだまだ作業を続行すべきだと判断しています。ただし、1~2名でそれを行うのはなかなか大変な状況です。やはり過去に投稿なさった方々のほうが出典についてはよく把握している可能性が高く、またいろいろな意味で加筆や修正をしやすいこともありますので、ここは過去に投稿なさった方々に広くお願いすべきだと判断して、こうしてお願いに来ました。何卒ご協力のほどお願い申し上げます。尚、ご自身が投稿したわけでなくて他の人が投稿した分であっても、うまく出典を加筆できる箇所があれば、それについてもご協力いただけたら尚幸いです。

出典の表示の方式については、本文中に書名の概略等を書き込むよりも、以下の方式で本文と出典を分離して詳細に表示するほうが様々な点で評判が良いようなので、できるだけこの方式で加筆していただけると幸いです。
<ref>著者名『書名』出版社、出版年、ISBN番号、掲載ページ</ref>

--Agapee 2007年10月27日 (土) 06:52 (UTC)

Agapee様、ご連絡ありがとうございます。

私は宗教は信仰していますが、クリスチャンではありません。若い頃は教会にも通っておりましたから、プロテスタントには比較的詳しいですが、正教会となると全く分かりません。もちろん私も出来る限り編集に参加するのはやぶさかではありませんが、私はキリスト教の専門書はそれほど所持しておりませんし、現在も編集をしているLRさんやAphaiaさんにお任せするのがよろしいかと思います。

なお「参考献」の項目についてですが、最近キリスト教の項目は殆ど見ていなかったので、誰がこの部分を編集したかは分かりません。以前も「聖書」の項目で余りにも一般向けの文献を参考文献として上げていた人があり、批判を受けていましたが、それと同じく余り百科事典に相応しい文献表ではないように感じています。編集者が一般向けの本を見て編集をするのは構いませんが、百辞典の参考文献ならばより専門的なものを上げておいた方が利用者にとっても親切というものでしょう(もちろん一般向けの本を上げてはいけないと言っているわけではありません)。

たとえばひろさちやさんは仏教の人だし(仏教関係者はキリスト教に無知な人が多いです)、井筒さんは大変博識な学者ですが、イスラムの専門家です。また、いのちのことば社は福音派の出版社で、辞典ならば他の出版社のものも入れた方がよいでしょう。ちなみに土井さんは読んだことがないので分かりませんが、同じような一般向けの本ならば八木谷涼子さんの『知って役立つキリスト教大研究 』(新潮OH!文庫) あたりを上げておくとよいでしょう。こちらは情報量が膨大で、玄人はだしです。
もっとも参考文献は上げ出すとキリがありません。実は以前キリスト教と仏教に関して「キリスト教(参考文献)」と「仏教(参考文献)」の記事を作ろうかとちょこっと考えたこともあるのですが、こういった項目を作っておくのもよいかも知れませんね。

--Bokemiann 2007年10月27日 (土) 14:38 (UTC)


貴重なヒントやアドヴァイス、誠にありがとうございます。感謝の念にたえません。参考文献などのご指摘いただいた点、他の方々の力も借りつつできるだけ改良ゆくつもりです。今後ともBokemiann様のほうで気づいた点などありましたらご教唆いただければ幸いです。

挙げていただいた本(八木谷涼子『知って役立つキリスト教大研究 』)をさっそく自分の眼で見てみようと思い調べてみたところ、あいにくと私の住む街の図書館群には置かれていませんでした。さらにAmazonで調べて見たところ、同書について " 信仰の核心ではなく、あくまでキリスト教外部から見た雑学的な情報には強い本だ" といった主旨のコメントがありました。そこでふと思ったのですが、もし「キリスト教に基づくとされている習俗」の節(=いささか雑学的な節)に関して同書の記述で出典として使える箇所がありましたら、あまり遠慮なさらず出典情報を埋め込んでいただければ幸いです。宜しくお願い申し上げます。--Agapee 2007年10月28日 (日) 06:33 (UTC)

ご指摘[編集]

こんばんは。細かいことのようですがご指摘したいことがあって参りました。

2008年4月21日 (月) 07:24 (UTC)付けでWikipedia:井戸端に投稿をされたかと思います(差分)。その投稿中で「紅美鈴」に対するリンクを3箇所付けておられますが、[[紅美鈴]]ではなく、正しくは[[user:紅美鈴|]]へのリンクではないでしょうか。もし意図があってのことでしたら失礼お詫びします。ご検討ください。--ikedat76 2008年4月21日 (月) 15:19 (UTC)

ご指摘ありがとうございます。[[Bokemiann]]でも自分のページに飛ぶと勘違いしていたので、「紅美鈴」氏に関してもそのようなリンクをうっかり貼ってしまったもので、特に他意はありません。暫く積極的な編集を行なっていなかったので、その辺の細かいことに全然頭が回わりませんでした。--Bokemiann 2008年4月21日 (月) 15:47 (UTC)

荒らし行為への対処の支援をお願いします[編集]

有田芳生」で、統一協会などに関してウィキペディアの方針を無視した編集が何度も繰り返され、私だけでは対処しきれない状態になっていますので、支援していただけると有難いです。よろしくお願いします。--Humantouch 2010年6月28日 (月) 12:28 (UTC)

聖絶の編集について[編集]

おーたです。私の会話ページへのご連絡ありがとうございます。残念ながら、福音派の方々と議論をしているうちに、思うところあって最近はキリスト教関係の編集にはあまり口を出さないようにしています。ベースとなる神学大系を押さえた上で超教派的な目配りが利くKinno Angelさんとは違って、私はうっすらとカトリックの教育が背景にある程度ですし、近代聖書学をかじった程度なので、教派的な思い込みの激しい方と議論して落とし所を見いだして行く作業には器量が欠けています。申し訳ありません。印象としては、意味内容が歴史的に変遷し、西方教会なり現代の福音派が神学的解釈を施して行った言葉のひとつなのかな、という気はしています。この場合、神学史的には「つい最近」に訳語が当てられたという「聖絶」で独立項が立てられているのは、違和感がありますね。私に言えるのはその程度です。お役に立てず、申し訳ありません。--おーた 2011年1月24日 (月) 14:06 (UTC)

ありがとうございます。ご返信いただけただけでありがたいです。私も時間がかかりすぎて仕事に支障を来すので、数年前にWikipediaから離脱しました。その間にWikipediaも様変わりして、規則がますます複雑怪奇となり、それを原因とした逸脱編集も目立つようになりました。私もノンクリスチャンで、Jesusファンではありますが、知識不足は否めません。ただ、この項目は10年ほど前から興味があって個人的に調べていたので、今でも編集に積極的に関わっています。確かに福音派の信者さんとの議論は厄介ですが、Wikipediaではそれとは別に難しい問題がありますね。ただ、昨年秋頃と今回のイザヤさんの編集は私の目には逸脱行為としか見えず、当該項目の記事内容の範囲を超えてウィキペディアンとして見過ごしに出来ないと感じたので、あえて煩く問題にしています。なお、この言葉は元々特殊で、色々に訳し分けて誤魔化されてきています。それを新改訳聖書が訳語として採用したのが始まりです。なので、この語を特段に問題にする時はどうしても聖書学的な見解に偏って論じられることは仕方のないことなのです。その辺がイザヤさんにはお分かりいただけないようです。護教的なのは構わないのですが、それがいささか前面に出すぎだと思います。--Bokemiann 2011年1月24日 (月) 14:21 (UTC)
コメント クールダウンのための編集保護は妥当と考えます。ただ、Bokemiannさん、コメント依頼については48時間は待って頂けませんか。少なくともブロック依頼については48時間は待って頂きたいです。(Bokemiannさんの言い分が全て正しいものと仮定して右の話を進めますが)もしBokemiannさんの御懸念が正当なものであれば、48時間の間に事例が蓄積するでしょう。もしBokemiannさんの御懸念が杞憂であれば、その間に事態は沈静化するでしょう。これは、プロジェクトノートページ、私の会話ページにも同文を書いておきます。--Kinno Angel 2011年1月26日 (水) 08:54 (UTC)
いや、あなたのノートに書き込んだ時はまだ大分気が立っていたので(笑)。コメント依頼は元々考えていたことなので今日明日を考えていましたが、ブロック依頼は最終段階ですから1週間近くは置くつもりでいました。やらないですむのならこれほどありがたいことはありません。とにかく、コメント依頼する代わりにキリスト教に詳しい方の出入りするよい板が見つかったと喜んでいたのですが、残念です。イザヤさんには悪意はないのでしょう。確信犯でなく、自分のやっていることもよく分かっていないのだろうと思います。そして、議論している相手の文章も読めない。理解する気もないし、理解する力もないのだと思います。
もちろん私が全面的に正しいとは申しません。キリスト教の編集方針からしたら、私の編集にあなた方から見て逸脱があったかも分かりませんし。そういった面に関しては指摘されて納得がゆけば撤回するのにやぶさかではないのです。ただ、彼の編集は余りにも逸脱、ハッキリ言って異常といったレベルだと感じています。なお、これが通常の項目だったらとっくにブロックなり何なりされていたでしょう。余りたくさんはいませんが、今までの例で私が関わった厄介な編集者は、私が何か行動を起こすまでもなく、皆いつの間にかWikipediaから消えてゆきました。
さて、ここまで対抗的になったのは私も初めてですが、改名&統合提案に関しては引き下がってよいという意見は今も持っています。面倒くさいのでここで書いてしまいます。今Q&Aで質問中(Wikipedia:利用案内#同じ名前のページが2つ以上存在する場合の対処方法)ですが、ヘーレムの項目が2つ出来てしまったのでどうするか、いったん削除するか判断しなければなりません。その上で、「聖絶」を「ヘーレム」に改名ないし移行(履歴の統合があるので、それのない改名を希望)、聖絶はいったん閉める。アナテマに関してはまた別に考えるとして、その上でイザヤさんが福音派に特化した聖絶の項目を作りたければどうぞご勝手に、と提案するつもりでした。あの人とやりとりする気持ちはもうありませんが、こうすれば私が本来あるべきヘーレムの記事だと考えているものがヘーレムの項目に活かされ、イザヤさんも逸脱・悪質編集をしなくなるだろうと考えていました。ハッキリとは書かなかったので、Kinno Angelさんには誤解を与えたかも知れませんが、元々それも頭に入れての改名&統合提案でした。--Bokemiann 2011年1月26日 (水) 10:44 (UTC)

ご連絡ありがとうございました。ジャムリンです。呼びかけいただいた聖絶の編集についての議論ですが、経過を見ていたところイザヤさんが一週間以内に提案について回答するとの宣言をなされてますので、その回答内容や流れによっては私が議論に加わる必要はなくなるかも知れませ。ですので今のところは、参加についてはイザヤさんの回答を待ってからにしたいと思っています。

ただ聖絶で合意が得られて議論が終結したとしても、私やJmsさんが関わった議論でも同様の傾向として、議論と平行して、あるいはイザヤさんの回答待ちや確認待ちをして議論が停止状態にあるときに、私感なので恐縮ですが議論における自論の補完をするかのような、大幅且つ強引な編集を続行したり、別の新項を立項した上に、そのことが返って裏目に出て新たな問題を生んで相乗的に議論が多発するという悪循環に陥っているように見受けられます。傍からみて情熱と知識が空回りしているようで残念でならないと思っている次第です。--ジャムリン 2011年2月12日 (土) 11:57 (UTC)

コメントありがとうございます。そちらの編集も多少知っておりますが、おっしゃる通りです。ご存知とは思いますが、こちらではもっとひどい形でそれが起こりました。Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないを熟読するようにアドバイスしても、彼がそれに従う様子はありません。自説を蕩々とまくし立てるばかりで対話が成立しないのです。彼は自分が論点ずらしをしている意識もないのでしょうが、困ったものです。1週間以内に返事をするとは言っていますが、あの調子ですからどんな返事が来るか余り期待できません。というわけで、第三者の客観的な目に触れてよいアドバイスがあればよいと思って、コメント依頼(合意形成)を出しておきました。
それにしても、彼には対話の意思がまるでありません。相手を自説に従わせることばかり考えて、自分から折れようとする気持ちがないようでは、彼と議論すること自体無駄です。私の案はイザヤさんの要望に沿った提案なのだから、普通の人だったら問題なく賛成してくれるはずのものです。それすらも拒否してくる、或は今までのようにつべこべ言ってくるようならば、私も安易に同意はできませんし、また、ここで譲歩しては彼のためにもならないと思っています。大体、彼が編集に関わってまだ半年か9ヶ月足らずだというのに、あちこちで問題を起こしています。こんなことが続くようであれば決してよい結果にはならないと思います。甘やかされて育ったのかも知れませんが、外ではだだをこね続けても思い通りにはならないことをいいかげん学んでもらわないといけません。--Bokemiann 2011年2月12日 (土) 15:00 (UTC)

仏教徒の戦争協力発言について[編集]

ジャムリンです。ご連絡ありがとうございました。聖絶、ヘーレムの編集お疲れさまです。今、メンテナンスのせいか、自分の会話ページの編集がおかしなことになっているので、こちらにお邪魔したました。すみません。聖戦の方もありがとうございます。第二次世界大戦当時は戦勝祈願ための加持祈祷まであったとも言われているほどですので戦争肯定があったことは間違いないでしょうが、仏教者の戦争肯定=(宗教的な意味合いのおいての)聖戦認識になるのか、少し疑問であったものですので。内戦ではありますが、戦国時代やそれ以前にも社寺基盤の組織の戦闘があり、例えば直接的な大規模防衛戦で一応は宗教一揆とされている石山合戦の方が聖戦という意義に近いような気もしますが、宗教的な意義とは別のところの世俗的争点で戦争が起っていたりするので記事に加えられるかは、悩ましいところです。日本ではキリシタンの参加の多かった「島原の乱」も農民一揆としての側面がメインとされているくらいですから。--ジャムリン 2011年2月16日 (水) 16:53 (UTC)

私の方も編集しづらいです。パソコンのせいじゃなかったんですね。あの部分、特に「大乗精神に則って」といった表現は出典として挙げた『禅と戦争』に準拠して書きました。実例は挙げ始めたらきりがないのであえて書きませんでしたが、「大乗の慈悲とは、殺すのであります、殺しまくるのであります」というような演説をする老師が実際に何人もいるんですよ。これはどの宗派でも同様のことだったのでしょうけど、とにかく禅僧においては「輩出」としか言いようのない状態だったようです。ただ、『禅と戦争』は「白黒つけたがる著者に白黒つけたがる訳者」という批判もあるようですが、事実が書かれていることには間違いありません。他宗のことは余り知らないのですが、今後は禅宗以外の例も出典を見つけられれば加筆してゆきたいと思っています。それにしても、書きにくいです。--Bokemiann 2011年2月16日 (水) 20:28 (UTC)
回答ありがとうございます。仏教宗派の各々も戦時中には、国策で簡素化された組織に再編成されていたはずですが、日本基督教団の「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」のような一宗教として統一された見解の体裁の聖戦認識宣言はなく、大勢であっても個々人の仏教者としての表明しかないのでしょうか?また戦後による撤回や訂正の表明の有無についても見当たらないものなのでしょうか?--ジャムリン 2011年2月21日 (月) 19:02 (UTC)
大変申し訳ありません。私はこの方面は余りよく存じません。ただ、世間体を気にする日本人の性行からして、当時の日本人の殆ど全て大政翼賛体勢で、そのため、宗教界(仏教界)では言挙げて戦争協力発言をする必要性がなかったのかも知れません。その点が異国の宗教であるキリスト教との違いであるような気もしないではありません。また、政治家の発言を持ても分かるように、日本の宗教で戦後になって戦争責任を表明し反省をする教団も極めて少ないのが現状のようです(下手にそんな発言をすると、遺族を含む信徒から猛反発を食らう懸念もありますし)。ただ、浄土真宗本願寺派では、戦後50年の年に戦争責任に関する反省を表明されているようですし(『「敗戦50年」西本願寺教団の光と闇』浄土真宗の戦争責任)、確か2005年には真宗10派で構成する連合名義で小泉首相の靖国参拝に対して異義を表明していました。
さて、お尋ねの出版物などは上にも書いたように余り知りませんが、市川白弦氏の著作には何か言及があるかも知れません。また、浄土真宗に限って言えば、岩波ブックレット『浄土真宗の戦争責任』という本が出版されていますので、それらが多少参考になるかも知れません。市川氏の本に関しては前から興味があるので、今度県立図書館に行った時にできれば確認をしてみたいと思っています。--Bokemiann 2011年2月22日 (火) 11:34 (UTC)

どうか誤解されませんよう[編集]

直近の例ではノート:偶像破壊がありますが、イザヤさんとは普段私は激論(口調は穏やかですが)し続けている間柄でありますし、感情面でもイザヤさんだけに肩入れする事は有り得ません。Bokemiannさんについて私が「誤解している」と思われているようですが、それこそ誤解というものです^^;。

私は相手に問題があると思ったら直截に言います。つい最近も著作権・肖像権といった法的リスクについて鈍感な編集者に対して、厳しく苦言を呈したばかりです。ですから今回の件で回りくどく時間をかけているのは、Bokemiannさんに問題があると思っていたら有り得ない事であることをまず御承知おき下さい。--Kinno Angel 2011年1月27日 (木) 08:55 (UTC)

Kinno Angelさんに誤解を与えたようで大変申し訳ありません。私はあなたが私を誤解しているとは全然思っていません。ただ、事の経緯について、最初に出典要請タグを貼付したのがイザヤさんだと勘違いされたこと、それからプロジェクトのノートページでの誤解がありましたが、本ノートページの経緯説明中の「誤解の原因」でも丁寧に説明したので、Kinno Angelさんの誤解は解けていると思っていました。というか勘違いはされないだろうと思ったので。もしも私がKinno Angelが私を誤解していると書いても、それは勘違いくらいの意味合いだと思って下さい。もっとも、私のことを厄介な人間だなとは思われているだろうなとは思っておりましたが(笑) 〔色々とご配慮いただき感謝しています。今回の件でKinno AngelさんにSOSを出したのも、編集その他で見るあなたの誠実な態度を見てお願いできると思ったからでもあります(照)。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 11:39 (UTC)
コメント 問題なのはイザヤさんです。昨年問題になった箇所に出典をつけなければ削除されてしまうので、リベラルな作家の書いた本やユダヤ人学者のやりとりを出典として注記しました(前者は一般向けの書籍なので、私の規準では出典にはしたくなかったのですが)。でも、それがイザヤさんにはご不快だったのでしょう。「キリスト教に関係のない話題を持ち出してきた」「キリスト教の記述でユダヤ教の話まで出してきて、キリスト教関連記事で折角合意しても、これではめちゃくちゃになる」と騒ぎ出したというわけです。これがプロジェクトのノートページであなたが私の発言を勘違いした発端だと思います。
ここに限らず、イザヤさんはあくまで保守的神学の立場で記事を起こしたいのでしょう。それがやたらと分割をしたがる原因です。たとえ記事がヘーレムに改名されても同じ事が繰り返される恐れがあります。でも、今よりは改善されるのではないかと期待しています。聖書を出典にできるか否かについても当然論争が起こるでしょう。彼は無意識なのかも知れませんが、聖絶でタグが付いた箇所が削除されると、聖絶(ヘーレム)とはどのような行為か説明した箇所が全てなくなってしまい、記事そのものが成立しません(これが聖絶のノートであえて2番目に議論希望とした理由です。本当は1項だけで充分なのですが)。その証拠にアナテマで出典にしたカトリックの事典で、それを根拠に「聖絶の意味が捕囚後は変化した」とする箇所を、その辞書の編者の個人的主張であるかのように書き直しています。福音派の事典でもギリシャ語聖書では○○の意味で使われていると、暗に変化していると書かれていて、それもいっしょに注記しているにも拘らずです。どうも彼の編集は保守派に甘すぎます。イザヤさんは私の編集をPOVだと言うけど、私には彼の方がPOVです。--Bokemiann 2011年1月27日 (木) 10:25 (UTC)

コメント依頼をだしましょう[編集]

Bokemiannさんこんばんは、Sillagoです。題名の通りです。出すのは私でもBokemiannさんでもどちらでも良いです。私のこの依頼に対するスタンスは、以前お話ししたものより、Bokemiannさん寄りに近づきました。それとノート:聖絶関連はもうちょっと待って頂けると嬉しいです。私はプロテスタント福音派とリベラルの書籍を複数所有していますが、それだけではまかないきれない分を図書館で、とおもいきやあと一週間休館だそうで(汗。知人宅で少し資料を見てきました。聖絶の件が落ち着いたら、これらの調査結果を基に加筆したいと思っています。--Sillago 2011年2月13日 (日) 14:33 (UTC)

実はイザヤさんの態度が私に関しては多少軟化したので、今すぐコメント依頼しなくてもよいかなという気持ちに傾きかけていました。ところが、ちょっとアドバイスをと思って彼のノートに書込みしかけたら、 Kinno Angelさんが折角心のこもったアドバイスをしているのに対して訳の分からないレスを返しているのを見て、またまた呆れてしましました。それでも、ダメモトでアドバイスを書き込んでおきましたが、これでは望みなしですね。「聖絶」に関しては私に任せる気持ちも出て来ているようですから、様子見をしようと思っていたのですが、彼が根本的に態度を改めないと同じことが何度も繰り返します。私の考えは、何が何でも自分の考えを押し通そうとするイザヤさんの態度は、今まではそれで通ってきたのかも知れないが、世間では通用しないことを分かってもらう必要がある、そのためにはコメント依頼ばかりか、反省・勉強期間としてのブロックもありということです。そこまでゆかないようにKinno Angelさんも頑張っていらっしゃるのだけど、彼の態度があれではそれも無駄足になります。話がまとまりまらず申し訳ありませんが、もう数日様子を見てどうするか決めたいと思っています。--Bokemiann 2011年2月13日 (日) 15:20 (UTC)
コメント依頼については、むしろ遅いくらいです。これ以上議論をあっちこっちに拡散させてはどうしようもない。Bokemiannさんは主に聖絶関係で、ということは分かりました。私は彼の編集方針全般について、複数の問題点を具体例を挙げて指摘します。それで話し合いで前向きな解決を目指したいところですが、今日のやりとりで大変そうだと感じました。今のところ私からブロック依頼云々を考えてはいません。私はウィキペディアで活動してきた中で、まだ一度もブロック依頼に関わったことはないんですよ。実はコメント依頼もです。ですから今回が初になります。イザヤさんの一連の行動はそれくらいインパクトがある、ということです。依頼文は私なりの草案を数日間練っておきます。ノート:聖絶も同時進行となります。--Sillago 2011年2月13日 (日) 16:28 (UTC)
実は私もです。イザヤさんのお陰で、井戸端の投稿も、コメント依頼(合意形成)も何もかも初めての経験です。今までは私がするまでもなく、誰かが対処していて、そういった逸脱ユーザーの大半がいつの間にか消えてゆきました。今度はそのお役目が私に回ってきたということだと理解しています。明日は分かりませんが、2~3日中にコメント依頼する予定です。私は聖絶を中心に、あと幾つか把握しているものを簡単にまとめる予定ですので、Sillagoさんはそれに加筆・補正するような形ではどうでしょうか? --Bokemiann 2011年2月13日 (日) 17:02 (UTC)
Bokemiannさんの方針に従います。ブロック依頼だけは避けたいです。--Sillago 2011年2月13日 (日) 17:11 (UTC)

はじめまして、Shigeru23と申します。Wikipedia:コメント依頼/イザヤを読ませていただきました。当該コメント依頼での問題提起に関して少し問題を感じましてこちらに書き込ましていただきます。さて、意図的ではないと思うのですが、技術的な問題として現状の「コメント依頼/イザヤ」の記述状態では誰が依頼者なのか判然としません。Wikipedia:コメント依頼も依頼者名は表示しない決まりですので、編集履歴を確認しないとすぐには依頼者が判りません。具合の悪いことに依頼者名が示されないまま、Bokemiannさんの名前による第三者のコメントのような体裁で批判的な記述が2箇所ほど登場していますので、履歴を確認して依頼者が誰か判ると、まるでBokemiannさんが依頼者であることを秘匿しながら他の批判者の立場も演じているような印象を受けてしまいます。多くの編集者は履歴を確認することで比較的容易に依頼者が誰か確認できるのでしょうが、依頼者名が明示されていない現状では、人によっては依頼者に対してかなり悪印象を持つ可能性があると思います。私見ながら、宗教に関与しない大多数のWikipedia編集者から見れば、イザヤさんを含めて幾人かの強烈な個性を持った特定宗教に関わる編集者の方々による他人と協調を許さない編集姿勢や暴言などから意識的に距離を置くようにされているのだと思いますし、本件でもそのような範疇で捉えられてしまわないかないか心配です。--Shigeru23 2011年3月15日 (火) 03:50 (UTC)

ご指摘ありがとうございます。それに、あの長文を読んでいただきありがとうございます。私自身、リンク先のノートを読まされるのは嫌なので、なるべく依頼分中で大要を示すようにしたのですが、被依頼者の逸脱編集が余りに多いので、ああなってしまいました。ご指摘の通り宗教が絡むので熱くなることもその通りでしょうが、そのキリスト教項目の他の編集者自身がこの件にそれほど乗り気ではありません。私もノンクリスチャンですから逸脱が目についたのだと思いますが、私の論点はあくまでイザヤさんの信仰内容にはなく(彼は逆でしょうが)、彼の編集態度以外には何も問題にしていません。このままゆけばキリスト教項目がゴミの山になってしまうという危機感もあってあえて動いている次第です。
さて、ご指摘の件ですが、依頼文が長文すぎたため、Shigeru23のおっしゃるような誤解をする人もいるだろうと思います。これはあくまで依頼文が長文すぎるための誤解ですから、拙速ながら依頼文の文末以外にも適宜署名をしておきました。確かに当初の議論でも、私が出典なしの記述を書いて、それをイザヤさんに消されてだだをこねているなどと誤解する人もいたくらいですから、誤解は避けるように配慮した方がよいですね。ありがとうございます。なお、Shigeru23さんが指摘された私の署名付きコメント2件は、依頼文中の追記部分と、第三者のコメントへのコメント部分のものです。--Bokemiann 2011年3月15日 (火) 06:36 (UTC)

ヘーレムに関するやりとり[編集]

IPさんのコメント1[編集]

ご無沙汰しております。「ヘレム」および「ヘーレム」のノートにて意見を述べさせてもらったIPユーザーと同じ者です。Bokemiannさんが作成された「コメント依頼/イザヤ」において、Sillagoさんによって凍結の提案がなされておりますがお気づきでしょうか? あるいは、わたくしが「ノート:ヘレム」にて他ユーザーさんに判断を委ねるよう進言したことが所以で、コメントを自重されているのではないかと心配しております。わたしのほうでも「活動を停止する」という旨を表明したものの、やはり自らが関与した事案の成り行きだけは見守るつもりでいたのですが、正直なところ「コメント依頼/イザヤ」への反響のなさは、これまでのイザヤさんの行動を鑑みれば予想外のことでした。Bokemiannさんとしましては、おそらくはブロック依頼にまで進展すると見越しての依頼だったのでしょうから心残りはありましょうが、ここは一旦依頼を取り下げる時機であるとみうけられます。それにイザヤさんのほうにしましても、自らへのコメントが募られているさなかに起きた今回の地震について、某都知事のように「天罰」とは申しませんが、信心深い彼(彼女)なりに何がしかの啓示と考えておられるのかもしれません。いずれにせよ、現状におけるイザヤさんの沈黙は結果オーライということで、本事案は解決したとみなしても構わないのではないでしょうか?

ただし、イザヤさんにまつわる諸問題つきましては、その処遇よりも重要な懸案が山積していると思われます。これはあくまで個人的な見解ですが、これまでにイザヤさんが立項、あるいは関与された記事について、そのすべてを査読依頼、あるいはものによっては削除依頼に回す必要があるのではないかと考えているのです。わたしの場合、イザヤさんの手による記事で最初に見たのが「ヨッド (ヘブライ文字)」で、その次が「ヘレム」という具合に低レベルかつ信憑性の怪しい記事が連続したので、すっかり悪い印象が刷り込まれてしまっており、公平な判断が難しいのは事実なのですが、ことヘブライ語にまつわる「ヘレム」のノートにおけるイザヤさんのコメントからは、単なる無知を通り越してコミュニティに対する悪意すら感じられるのです。とはいえ、イザヤさんがこれまでに量産された膨大な数の記事の中でわたくしが査読にかかわれそうなものは残念ながら数えるほどしかありません。たとえば、「一点一画」の記事には「一点はギリシャ語Ι(イオタ)の訳であり、一画はヘブライ語: י‎(ヨッド)の訳である」という記述がありますが、該当箇所であるギリシア語の「ιωτα εν η μια κεραια」を調べたところ慣用句ではなさそうなので、「一点一画」というのはこのセンテンスをまるごと四字熟語に置き換えた日本語訳聖書ならではの意訳なのでしょう。よってイオタとヨッドが個別に訳されたとするイザヤさんの記述は出典すらない現状では信憑性が乏しく、思い付きで書いていると判断せざるを得ません。もちろん、イザヤさんが書いた記事の大部分は得意分野であるはずの福音派にまつわるものなので、これらの記事に関して抜かりがなければ杞憂にすぎません。「ノート:ヘーレム」におけるわたくしの意見に対して何の根拠も提示することなくイザヤさんを擁護する方もおられるぐらいですから、その分野においては貢献が認めら、一定の評価を獲得されていると思われます。しかし、イザヤさんに対する不信感を共有しているユーザーの数もまた、一定の基準に達しているのも事実なのです。

もっとも、今回のイザヤさんの沈黙をブロックされたものと仮定したとして、どのような事後処理が必要なのかは、わたくしよりもBokemiannさんのほうが詳しいでしょうから査読依頼や削除依頼を強く要請するつもりはございません。ただ、これまでに抱いた感想を忌憚なく申しますと、ここまでイザヤさんがモンスター化した因縁は、「ノート:ヘーレム」の「改名&統合提案」にて、Bokemiannさんが「イザヤさんは、必要と考えれば独自に「聖絶」の項目を自分で起こして、自分の好きなように福音派に特化した聖絶の項目の編集を行なう」という言質を与えてしまったことにあるとも考えられるのです。本来ならばこの時点で合意形成のためのコメント依頼に「ノート:ヘーレム」を提出すべきだったのでしょう。「ノート:ヘレム」が2月の後半に提出されているのは存じておりますが、これはもう後の祭りといわざるを得ません。さんざん「自分の好きなように」させてしまった結果なのですから。

ともあれ、一週間のクールダウンを経たことですので、そろそろ活動を再開されてはいかがでしょうか? とくに「ヘーレム」にまつわる諸問題については早急に対処していただきたく存じております。「ヘブライストからの意見」においてはわたくしも超長文を披露しましたが、何よりも優先すべきは「ヘレム」「ヘーレム」「アナテマ」「聖絶」という四すくみがもたらす利便性の悪さという実務的な問題です。ひらがなの「へーレム」も合わせれば五すくみとなるのですが、同じ「חרם」という単語を由来としている以上、ひとつの記事に統合するのが最も合理的といえましょう。そのさい、どの言葉を記事名に選ぶかについてはBokemiannさんの裁量にお任せします。改めてコメント依頼に提出して投票を呼び掛けるのも妙案でしょう。また、例の(b)に偏向する内容となるのも、現代日本人の一般教養を鑑みればやむを得ないことだと思っております。要求を押し付けてばかりで恐縮なのですが、Bokemiannさんには大いに期待しております。よろしくお願いいたします。--61.203.120.235 2011年3月22日 (火) 14:37 (UTC)

Bokemiannのレス1[編集]

昨晩は疲れて寝ていたので、コメント依頼も件もあなたの書込みにも気がつきませんでした。Wikipedia:コメント依頼/イザヤに関してはジャムリンさんからその後凍結反対が表明されています。私も時期を見て取り下げをしないといけないとは思っていましたが、時期的にまだ早いでしょう。理想的には、イザヤさんが活動再開されて、様子を見てコメント依頼を再提出することですが、別垢で復活されることも考えなければならないので、軽々に取り下げてよいものか判断が難しいです。
それに、私も地震の直接的な被害こそ受けていませんが、本が散乱して部屋がすごい状態ですし(片付ける時間的余裕がないので今もそのまま)、東電の停電の後は1時間近い通信不良があります。その関係で、節電も兼ねてネットに繋ぐ時間も数時間止まりです。福島原発のことも不安だし、Wikipediaどころではないのは関東の人間ならば誰しも同じだろうと思います。みんな仕事を抱えながらウィキペディアンをやっているのです。そんな訳で、「とくに「ヘーレム」にまつわる諸問題については早急に対処していただきたく存じております。」とまで言うのならば、余裕のあるあなたがアカウントを取って(取らなくてもよいですが)率先してやるべきことではないでしょうか。私はイザヤさんの帰趨が決まるまでは特段の行動は取らないつもりです(後で騒がれることを考えると厄介ですし、これ以上仕事に差し支えると私も困るのです)。それに、彼が起こした大量のスタブ記事を査読依頼や削除依頼等に出す労力を考えると、それこそ気が遠くなります。それをやるのは誰ですか? あなたではないですよね。私は今の段階ではイザヤさんのスタブ量産を止めるだけでも意味があると思っています。これを放置すれば数年を待たずしてキリスト教項目はゴミの山になってしまうでしょうが、それを何とかしたいのであれば、私以外の編集者も動かなければ意味がありません。もちろん私も何れ時を見て編集活動を再開する予定ですが(私は「聖絶」関連項目を中心にイザヤさんの爪痕を何とかしてゆきたいと思っています)、まだ時期尚早だと思っています。当初からこの件は夏頃までかかると思っていましたが、イザヤさんが当分の間出てこないことが分かったら、ヘーレム関係の対処に本格的に手を染めるのもよいと思っています。でも、それも少なくとも来月以降の話です。
あと、まるで私がイザヤさんをモンスター化したかのような言いようですが、いささか心外です。モンスターという表現を使えば、彼はとっくの三月からモンスターです。Kinno Angelさんなども当初「ノート:ヘレム」などで「今回はそれほどひどくない、ヘレムを中心にコメント依頼するなら私は乗れない」などと何度も発言しているくらいです。理由は色々とあるでしょうが、要するにイザヤさんと関わった編集者の大半の対応が甘すぎてこういう事態になったとも考えられるのです。そんな訳で、イザヤさんに「さんざん「自分の好きなように」させてしまった」のは私ではありません。事情も知らずに勝手なことを言わないで下さい。私は今まで半分ウィキブレイクしたこともあって、コメント依頼を出したことすら今までなかったのです。それに、コメント依頼がどれほど効果があるかご存じないようですが、大した期待は出来ないようですよ。ちなみに、少ないながら私が今まで関与した逸脱ユーザーは、私がどうこうする前に他の人がコメント依頼やブロック依頼を提出して、それで出てゆくなりブロックされるなりしていました。今度はその役が私に回ってきたのだなと思って、私が率先して対処しているのです。IPさんはコメント依頼での盛り上がりが少ないことに驚いていらっしゃるようですが、Kinno Angelさんその他のウィキブレイクもあり、動きが少ないだろうことは当初から予想していました。さすがに地震の関係でコメントが極端に少ない状況ですが、コメント依頼に多少積極的に関わってくれるだろうと思っていたユーザーの数もせいぜい4~5名です。誤解を恐れずに言えば、それもこれも今までイザヤさんを野放しにしてきたキリスト教項目の編集者の行動から見て当然の帰結なのかも知れません。要するに、彼のことをどうにかしないといけないと思っている利用者が元々少ないということです。もっともこれは多分キリスト教項目が他の項目と比べてニッチな項目だから注目が集まらないこともあるのでしょうが、そんな訳で私一人が頑張ったからといって彼をどうこうできる問題ではありません。もちろん何かコメントがあれば対処しますが、私としては書くべきことは全て書いたのですから、何も書かれない場合は私もコメントを控えるのが当然でしょう(私ばかりが書いているため、自作自演と疑われるかも知れないと忠告をして下さった方もいるくらいです)。
折角色々と書いて下さったIPさんに失礼なご返事になったかも分かりませんが、ご不快なところはどうかご容赦下さい。何か+まとまりませんが、今回はこの辺で。--Bokemiann 2011年3月23日 (水) 15:05 (UTC)

IPさんのコメント2[編集]

ご多忙の中わざわざ返事をいただき恐縮しております。やや感情的な言葉が浴びせられるのは覚悟しておりました。ただ、いくつか誤解されている点があると思われるので補足させてください。なお、すでにご存じのようにわたくしもBokemiannさんに負けず劣らずの長文癖の持ち主ですので、どうか忍耐力をもって御覧になってください。また、文章の後半は返信を要求するような内容でもないので気の向いたときに読んでくだされば結構です。

はじめに、わたくしはBokemiannさんの意に反してコメント依頼の取り下げを具申しましたが、これは決してイザヤさんに情けをかけているからではありません。コメント依頼が出されてからはや2週間が経ちますが、その間におけるイザヤさんの沈黙が、はたして震災によるものなのか、あるいは対話拒否によるものなのか、という点で判断がつかないからです。それはコメント依頼に対する反響のなさにおいても同様です。震災でそれどころではないのか、あるいはそもそもイザヤさんを問題視しているユーザーがいないのか、という採決をあえてくだす必要もないと思うのです。その判断に悩むぐらいなら一旦リセットしたのち改めてコメント依頼を提出したほうがより適正な評価が図られるのは間違いないでしょう。ここまで問題を引き延ばしてきたのですから多少の延期がコミュニティに悪影響を及ぼすとは考えられません。再提出のタイミングについては難しいところですが、せっかくコメント依頼にユーザーさんが集まってきたことですから協議されてはいかがでしょうか? 

つぎに、「さんざん「自分の好きなように」させてしまった」というわたくしの発言にはたいそうご立腹のようですが、「聖絶」だけでなくその他の記事におけるイザヤさんの問題行動の責任のすべてをBokemiannさんになすり付けていると受け取られたのであれば、わたしの言葉がまったく至らなかったわけでして、その非を深くお詫びいたします。しかし、こと「聖絶」に関連する記事については発言を取り下げるつもりは毛頭ございません。「事情も知らずに勝手なことを言わないで下さい」という言葉は真摯に受け止めますが、事情を知らないからこそ今ある現状を客観的に評価できる場合もあるのです。そこで少々厳しい意見をいわせてもらいます。わたくしは「ノート:ヘーレム」でのコメントにて、このたびの「聖絶」に関連する記事における混迷を極める議論について、「テロリストの要求に屈して超法規的な措置をとっているも同然」とたとえましたが、これはまさに「イザヤさんは、必要と考えれば独自に「聖絶」の項目を自分で起こして、自分の好きなように福音派に特化した聖絶の項目の編集を行なう」というBokemiannさんが1月26日に出された提案を念頭に置いているに他なりません。その後イザヤさんによって編集された「聖絶」の内容はご存知のはずです。おそらく逐一チェックされていたことでしょう。そこでお聞きしたいのですが、あれが包摂主義を謳うウィキペディアにふさわしい内容だとお考えなのでしょうか? 日本人にとって聖書というのは西洋文化を知るうえで欠かせないツールであり、わたくしのように教会とは一切かかわりのない一般人でも一家に一冊というぐらい読まれている書物であることはいわれなくてもご存じのはずです。『新改訳聖書』にしても福音派の方々が独占的に読んでいるわけではなく、一般書店の本棚に並んでいる同書をそれとは知らずに購入している方も大勢おられましょう。聖書に書かれている内容の一字一句は、多くの日本人にとっては一般教養として理解されているのです。「私が問題視しているのも、彼の信じる福音派の思想信条では全くありません。それが幾ら表明されても、百科事典の記事としての条件を満たしていれば何も問題もないのです」とおっしゃるBokemiannさんの編集姿勢からすれば、たとえ「聖絶」の記事において「ここでは福音派の神学的意味を中心に解説する」という但し書きがあったとしても、イザヤさんによる偏向著しい編集を問題視して介入するのが当然となるはずです。一般人が聖絶について知りたいのは福音派による教義だけではありません。Bokemiannさんは聖絶の特筆性が福音派による独自の訳出(造語)にあると認めたからこそ、個別に記事を立てる案でイザヤさんと妥結されたのではないのですか? 実際それ以外に聖絶には特筆性はないのです。ならば、以下の点はすべてでなくとも少なくとも半分ぐらいは押さえておく必要があるでしょう。

  • 福音派以外の教派にもそれぞれ独自の造語があるのか?
  • 『新改訳聖書』では初版から「聖絶」と訳されていたのか?
    • 違うのならいつから「聖絶」と訳されるようになったのか?
    • それ以前はどのように訳出されていたのか?
    • 「らい病」が「ツァラアト」に改められたように、以前の訳出に何か問題があったからなのか?
  • 新共同訳など他の聖書ではどのように訳出されているのか?
  • 欽定訳聖書など他言語訳聖書ではどのように訳出されているのか?
  • 「(前略)キリスト教護教的な訳であるとして、批判されている」というが、その具体的な内容は?

ところが、この手の加筆をまったく行っていないばかりか、テンプレを剥がす以外なにもしていないことは、ただならぬ雰囲気を醸し出している同記事の履歴が示しております。なぜイザヤさんの編集を黙認していたのですか? わたくしが本来なら「ノート:聖絶」において語るべきことをこの場を借りて語っているのは、まさにその腫れ物に触るのを恐れているかのごとき異様な雰囲気に圧倒されて手が付けられなかったからに他なりません。明け透けに申しますと、裏で何か談合でも行われているのではないかと勘繰らざるを得ないのです。つまり、「ノート:ヘレム」にて書かれた「自分の立場と違う見解をイタズラに排除して記事の分割を主張する」というイザヤさんの習性を利用して、「聖絶」には手を出さないのを担保に、Bokemiannさんが実質的な主筆である「ヘーレム」の記事をご自身の思想信条に沿った内容に編集している可能性が浮かび上がってくるのです。「「聖絶」に固執する私」とまで公言される方である以上その疑念は払拭できません。また、イザヤさんが「ヘーレム」とは別にあえて「ヘレム」の記事を立てられたのは、振り返ればBokemiannさんに対する彼(彼女)なりの配慮だったとも考えられなくはないでしょう。要は「暗黙の了解」、具体的には「不可侵条約」というわけで、それを意図していようがいまいが結果的にそうなってしまっているのです。わたくしは「ノート:ヘーレム」において「ヘレム」「ヘーレム」「アナテマ」「聖絶」の統合案をうんざりするぐらいの長文を用いて述べさせてもらいましたが、それに対してBokemiannさんが全く反応しないのにいぶかしいものを感じておりました。当初は「ヘブライ語のほうが格好いい」といった、いわば中二病的な願望ゆえのささやかな抵抗かとも思っていたのですが、うがった見方をすれば、ご自身の独壇場である「ヘーレム」を是が非にも死守したかったから、というようにも考えられましょう。

もちろんそのような妄想めいた策略などはないと信じたいのですが、Bokemiannさんはご自身の編集姿勢について疑問符が付くようなコメントを残されております。「ノート:ヘレム」での返信において「ウィキペディアが誤謬とともにあることを選ぶのならそれでも構わないのです」というわたくしの発言を意趣返しに復唱されましたが、これはどうやらわたしの意図したニュアンスを勘違いされているみたいですね。ある程度察しはついていらっしゃるでしょうが、かつてわたしは他言語版ウィキペディアの記事を翻訳することで日本語版ウィキペディアに貢献してまいりました。しかし、その記事というのはその言語圏における認識、あるいは情報を一方的に伝えているに過ぎず、包摂主義を建前にするウィキペディアであれば他の言語圏における認識や情報も併記する必要があると感じたのです。「ヘーレム」の記事を例に上げますと、日本語版ウィキペディアの「ヘーレム」の他に、ドイツ語版ウィキペディアの「ヘーレム」の日本語訳、英語版ウィキペディアの「ヘーレム」の日本語訳、フランス語版ウィキペディアの「ヘーレム」の日本語訳、ヘブライ語版ウィキペディアの「ヘーレム」の日本語訳(以下省略)といった具合に、これらすべてをそろえてようやく体裁が整うと考えるようになったのです。これはもう途方もない話なのですが、将来自動翻訳の技術が飛躍的に向上すれば叶わない夢ではないでしょう。しかし、現行のウィキペディアがそれを到達点に据えているとは思えず、いうなれば「一言語偏向主義」に陥っているわけです。その点を評して「ウィキペディアが誤謬とともにあることを選ぶのならそれでも構わないのです」とコメントしたに他なりません。日本語版ウィキペディアの「ヘーレム」の記事では現役の「חרם」(c)よりも死語の「חרם」(b)のほうが優先されているというのが何よりの証です。要するにわたくしはもうウィキペディアに見切りをつけたということでして、それ以降は過去に携わった記事の成り行きを確認するとき以外はログインしておりませんし、一切の書き込みもしておりません。今回ウィキペディアに復活しましたのは、ひとえにヘブライ語に関するイザヤさんの発言の誤りを訂正するためです。調子に乗って「ノート:ヘーレム」にて持論をぶちまけたりしましたが、あれは余興だと思ってもらっても結構です。ところが、「納得のゆく形で決着を見るまでこの件には関わり続ける所存です。そんな訳でこの件はかなり長丁場になりそうです」とおっしゃるBokemiannさんにとって、その言葉のニュアンスは違ってきましょう。「余裕のあるあなたがアカウントを取って(取らなくてもよいですが)率先してやるべきことではないでしょうか」「それをやるのは誰ですか? あなたではないですよね」というのはまことに耳の痛い言葉なのでありますが、それならばあえてお聞きいたします。「ウィキペディアが誤謬とともにあることを選ぶのならそれでも構わないのです」などとのたまっている者に、はたして編集に携わる資格があるとお考えなのでしょうか? 初めから百科事典であることを放棄している人間に百科事典の編集を任せられますか? あまつさえ「最後はキリスト教項目に関わる編集者の判断に委ねるだけです」といった逃げの一手を想定している者にどれだけの責任を負わせることができましょう。これでは中途半端なスタブを量産した挙句、他のユーザーさんに尻拭いをさせているイザヤさんと同じではありませんか。ご自身で「コメント依頼:イザヤ」を出しているさなかにこのような発言をなさるのはあまりにも軽率でしょう。たとえ嘘でも形式上の建前は貫き通さなければならないのです。わたしはすでに「同じ穴のムジナ」とたとえましたが、「彼はこの本を見て誤読ないし誤解したか、或は実際には確認していないに拘らず恰も見ているかのように主張しているのでしょう」といってイザヤさんを非難しておきながら、ご自身が犯した同じ過ちをやり過ごそうとした行為を含め、残念ながら当初抱いていたBokemiannさんのイメージはもうありません。すべてはイザヤさんによってもたらされた心労がたたっての世迷言だとしましても、「イザヤさんは、必要と考えれば独自に「聖絶」の項目を自分で起こして、自分の好きなように福音派に特化した聖絶の項目の編集を行なう」という常軌を逸した提案をされた時点で、この問題を解決に導くだけの統括力がご自身にはないことを自覚すべきだったと思われます。何事にもタイミングがあると申しますが、この時点こそイザヤさんに対するコメント依頼を提出すべきタイミングだったのでしょう。

事情を知らない者が慇懃無礼な言葉を並べてばかりで本当に申し訳ありません。しかし、事情を知らないわたしに対して頭ごなしにイザヤさんが極悪人であるかのようにはやし立てていたのは、他ならぬBokemiannさんであったことは忘れないでください。たとえ事情を熟知していても公明正大な判断ができないのであれば無知な者にさえも劣るのです。とはいえ、今回のコメントにて糾弾した事案を理由にウィキペディアからの引退を勧告するといった物騒なことを画策しているわけではありません。「ここは一歩引いて他ユーザーさんに判断を委ねるのが最善なのではないでしょうか?」とは申しましたが、それに聞き従うほど素直な方でないことは存じております。ここまできたからには意地でも最後までやり遂げてほしいのです。今さら引き返せないでしょう。イザヤさんに対するコメント依頼は1月の下旬にはすでに検討されていたようなのですが、実際に提出されたのは一か月以上も過ぎた3月の8日となっております。これはわたくしが「ノート:ヘレム」にて「ヘブライ語についての助言」を提出した3日後のことであります。この行動が直接関係していたのか否かは定かではありませんが、停滞していた流れが一気に進むさまを見て我ながら悦に入ったものでした。もちろん今現在でもウィキペディアに復帰して正解だったと思っております。ただし、今後どのように感じているかについては全く見当がつきません。そこで改めと要望を申し上げます。Bokemiannさんには大いに期待しております。というのが今の率直な感想ですが、無責任極まりない発言であることは十分わきまえておりますので、気に障るようであれば、この発言もまた余興の一環だと割り切ってください。いずれにせよ、コメント依頼を出された張本人として着地点を設定する必要があります。およそ2週間たったここにきて、わたしを含めた複数のユーザーがコメントを発信したのは先行きの見えない不安感からだと思われるので、依頼を継続するのであれば、今後はこのようなことがないよう適宜方針を打ち出しておくべきでしょう。

最後になりますが、これが本題といっても過言ではありません。「私もヘーレムの(b)に固執している人間であり」とおっしゃり、今後も「聖絶」について飽くなき探求を続けられるであろうBokemiannさんには是非、ギリシア語とヘブライ語の基礎だけは学んでほしいのです。というのも「חרם」という概念の意味につきましては、すでに紹介した聖書ヘブライ語辞典などで複数の英訳語を見出すことができるのですが[1]、この英訳語というのはあくまでも欽定訳聖書が編纂された時代における解釈でしかないのです。そしてその解釈を可能にしているのは、すでにギリシア語訳の『七十人訳聖書』やラテン語訳の『ウルガタ聖書』においてヘブライ語以外の言語に翻訳された実績があるからに他なりません。とりわけ最も古い時代の翻訳である『七十人訳聖書』は外せないでしょう。つまり、「חרם」から英訳語に至るまでにはギリシア語の「ανάθεμα」の影響があるとみるべきであり、その「ανάθεμα」というのがそもそも何を意味していたのかということも合わせて各文脈における語義を判断しなければならないのです。ちなみに「解釈」やら「判断」といっているのは、大半の翻訳聖書が逐語訳ではなくかなりの意訳に拠っているからなのですが、その点はもちろんご存知ですよね。残念ながらわたくしはギリシア語をほとんど勉強していないので、「ανάθεμα」については辞書に記載されている以上のことは何も答えることができません。ヘブライ語の「חרם」については、「「聖」という意味は全く含まれておりません。かといって「呪い」という意味があるのかといえばそれもありません」と断定的に答えてしまいましたが、こういったことも含めて他人の意見に惑わされず、ご自分の努力によって結論を見出してほしいのです。そしてヘブライ語なのですが、聖絶について探求したいのであればこれは必須でしょう。わたしには「ヘーレム」の記事における「ヘーレムに対する評価」の項目やBokemiannさんとの対話を通じてずっと不思議に思っていたことがあるのです。念のためにいっておきますが、わたくしは『ヨシュア記』における殺戮行為がジェノサイドであるという意見には全く反対しない立場であります。では何が不思議なのかといえば、イスラエル人によるカナン地方への入植を描いた『ヨシュア記』の記述の中で、どういうわけか「חרם」という概念だけが突出して注目を浴びているということなのです。まるで「חרם」という言葉にのみ突き動かされて異民族虐殺が行われたかのごとく議論されているようなのですが、ヘブライ語には「חרם」(b)の意味に相当する単語が他にもたくさんあるのです。『ヨシュア記』だけに限定しましても、「הרג」(ハラグ:殺す)3、「המית」(ヘミート:殺す)2、「השחית」(ヒシュヒート:破壊する、滅ぼす)1、「השמיד」(ヒシュミード:滅ぼす、根絶する)6、「הכה」(ヒカー:撃つ、襲う)32といった具合に複数の動詞を確認できます(否定辞を伴った動詞も含めているので、これはあくまで目安としてください。また、いずれのカタカナ転写も以前に述べた「実践的な転写」によるものです)。本来ならこれらすべての動詞をもひっくるめたうえでジェノサイドについて語らなければならないのです。それでもなお「חרם」の14というのは相対的に多いと思われましょうが、これは裏返せば『ヨシュア記』におけるそれ以外の動詞の出現数が他の聖書文献に比べて相対的に少ないとも考えられるのです。「חרם」(b)の同義語には他にも「אבד」(アバッド:滅ぼす、破壊する)や「הרס」(ハラス:打ち倒す、破壊する)などがありますが『ヨシュア記』では確認できません。ちなみに銘形秀則牧師によれば「חרם」は「ヨシュア記のいわば特愛用語」だそうです。そこで基本に戻って考えたいのです。繰り返し述べているように「חרם」という概念の根本的な意味は「引き離す、隔離する」ということであります。これは「殺す」や「滅ぼす」などに比べればずいぶん穏やかな概念であるといえるでしょう。『ヨシュア記』におけるジェノサイドを背景に据えた場合、動詞の目的語は「異民族」、あるいは「異民族の町」となり、「חרם」という概念は「(異民族、あるいは異民族の町との)関係を断つ」という意味になります。すなわち、もし『ヨシュア記』に頻出する「חרם」のうち異民族や異民族の町を目的語とするものすべてが「関係を断つ」という意味で使われていたとするなら、それは「事実イエスの家系にもモアブ人女性ルツが登場することからも分かる通り、実際の歴史ではユダヤ人はアマレク人、カナン人、ミデヤン人、ペリシテ人、モアブ人、アモン人、エドム人などの近隣諸民族と共存・通婚しており、ユダヤ人の勢力がカナン・シリアで支配的なものとなってイスラエル王国・ユダ王国が建国された際も上記のようなユダヤ人以外の諸民族の共存は許されていた」という「ヘーレムに対する評価」における記述(出典は不明ですが)の間接的な裏付けとなるかもしれないのです。お分かりでしょうか? 近隣諸民族との共存、通婚という事実は、異民族を滅ぼし尽くさなくとも関係さえ絶てばいい、というヨシュアの時代における消極的な姿勢、あるいは現実的な判断によってもたらされた結果であると結論づけたところで、あながち間違った解釈であるとも思えないのです。つまり、「חרם」というのはジェノサイドを象徴する言葉ではなく、あべこべに平和共存の象徴となるべき言葉だったのかもしれないということです。という具合に、ここでもあべこべな現象がみられるという落ちなのですが、話自体は至極まじめなものであります。もちろん、異民族との関係を断つための最も効果的な手段はといえば相手方を殲滅することですから、局地的にはジェノサイドという短絡的な行為が選択されたケースも少なからずあったでしょう。しかしそれはもう「חרם」という概念に結び付けて考える問題ではないのです。では、現実的にはどういうケースがいちばん多かったのかといえば、これは意見が分かれるところではありますが、あるいは「追放」だったのかもしれません。ということは、すでに述べたように「חרם」という概念は「古代から今日に至るまでその意味は全くぶれることなく一貫して使われてきた」という結論に落ち着くことになるのですがいかがでしょうか? わたしが「חרם」について詮索できるのは現状ではこれぐらいです。これらの話を真に受けるか、あるいは狂人のたわごとで済ますかはBokemiannさん次第です。原理主義だといわれれば、たしかにそういうことになりますね。ただこれだけは明言できるのですが、聖書本文というのは多様な解釈が可能であり、それゆえ特定の教派に属していない一般の聖書読者にいたっては自分の好みに合わせて物語を構築することも可能なのです。それは誰かに非難されるようなことでもありません。わたしもまた独自の聖書物語というのを持っております。そこで最後にひとつだけ確認しておきたいことがあります。Bokemiannさんが固執しておられるのは聖絶なのでしょうか? それともジェノサイドなのでしょうか? もし聖絶であるのなら、望みどおりの答えは見出せないかもしれません。もしジェノサイドであるのなら、聖絶への固執を止めることがご自身の納得のいく答えを見出すための最短の道かと思われます。

以上、気違いじみた長文に最後まで付き合ってくださったのなら感謝の意を表します。また、これまでの非礼と差し出がましい発言の数々について改めてお詫び申し上げます。そしてくどいようですが最後に一言。Bokemiannさんには大いに期待しております。--61.203.120.235 2011年3月24日 (木) 16:04 (UTC)

IPさんのコメント3[編集]

なにか小姑のように執念深い人間かと思われるのも割に合わないのでこれを最後にするつもりです。「ヘーレム」の記事にある「ヘブライ語聖書(旧約聖書)における例」の項目において「ヘーレムの語は(中略)旧約聖書中で58箇所の使用が見られる」という記述があり、これは脚注によればJ-バイブル2000(新改訳聖書第2版対応)による集計とされております。わたしは当初このような独自研究の類はイザヤさんの手によるものかと思っておりました。ところが「ノート:ヘレム」でのわたしへの返信の文中にて「Jばいぶるにてヒットする聖絶の箇所58箇所に全て当たって確認するつもりです」と一文があることからして、これはBokemiannさん自身で調べられたということでよろしいのですね。そこでわたくしも確認すべくTakao's Home Pageさんの聖書用語検索(要登録)[2]にて調べてみたのですが、どうやらいくつかの節にて複数回の使用が認められるみたいなので数えてみたところ、「58節において68箇所の使用が見られる」というのが正解のようです。ただし、これはあくまでも新改訳聖書にて訳出された「聖絶」という造語の使用数についてのトピックなのであって、「ヘーレム」の記事において書かれるべきものではありません。「ノート:ヘーレム」にて指摘しました「ヘーレムを語っているようでいて実際に語られているのはアナテマや聖絶でしかない」というのはこういうところにも表れているのです。「ヘブライ語聖書(旧約聖書)における例」と銘打っているからには当然ヘブライ語の「חרם」の使用数について語る必要があります。これも数えてみたところ88節で102箇所あり、内訳は動詞が52箇所、名詞が50箇所となります。名詞のうち「網」を意味するものが9、「ハリム」のいう人名が11、「ホレム」という地名が1となるので、単純に考えれば「ヘーレム」の記事にて対象になる「חרם」は81箇所ということになります。集計には「DAVAR3」というフリーウェアを使っておりますので、興味があれば確認がてらに試用してみてください[3]。リンクページのLexicons [4]の欄にある「Rwebster's OT Hebrew dictionary」というモジュールを追加でインストールしてレキシコンを開き、文字テーブルにて「חרם」と入力すれば、4項目に分かれて88節102箇所の「חרם」すべての意味を確認できます。ただし、これはあくまでも欽定訳聖書における当該箇所の訳出でしかないということは留意しておいてください。ついでにe-Swordというフリーウェアも紹介しておきます[5]。DAVAR3に比べれば見劣りするものの、こちらのほうはオプションで口語訳聖書も読めるのでDAVAR3よりも活用できるかもしれません。かつては新改訳聖書も読めたのですが、去年あたりから日本聖書刊行会の方針が変わったみたいで現在はモジュールをダウンロードできません(ネット上に落ちているかもしれないかと思いさんざん探したのですが見当たりませんね)。再度方針が変わる可能性もあるので今後の成り行きを見守りたいものです。なお、善意のプロジェクトだったものが利用者の増加にともなって商業主義に走ることはしばしばあるので、できればDAVAR3のほうはむやみに喧伝しないでほしいと思っております。それから81箇所の「חרם」を確認したうえで記事を修正する場合は、「聖書翻訳における底本の定番である『ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア』(BHS)では」という但し書きを入れておく必要があります。一口に「ヘブライ語聖書」といってもいくつもの異本があるからです(ただしBHSを底本に欽定訳が翻訳されたわけではないので誤解のないように)。
ところで、81箇所において訳出されるべき「聖絶」が実際には68箇所にしかないということは、13箇所では別の訳語があてられていることになりますが、この訳語を通じて新改訳聖書の傾向が垣間見えるかもしれません。「聖絶」という造語にやや批判的で、とりわけ福音派の人々には懐疑的なBokemiannさんにとっては興味があるところでしょう。これは上記のDAVAR3などを用いてBokemiannさん自身の手で考証できるのですが、身の丈に合わない行動は慎むべきところなので、要らぬお節介であることははなはだ承知のうえで以下にまとめてみました。
(0)レビ21:18「だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者」:この節には「חָרֻם」(ハールム)という動詞(受動分詞)があり、例の「引き離す、隔離する」という意味に準ずれば、何かが引き離されたり隔離されたあとに残された「一部の欠けたもの」という意味になります。新改訳ではどれがその訳語にあたるのかは正直なところ不明です。七十人訳聖書では「κολοβόρριν」と訳されており、これは「鼻が損なわれた」という意味になるそうで、口語訳の「鼻のかけた者」と新共同訳の「鼻に欠陥のある者」はそれに倣っているのでしょう。この単語は網を意味する「חֵרֶם」(ヘーレム)と同じく除外してもいいものなのですが、「ח-ר-ם」という語根の理解を助けるうえでもってこいの例だと思ったのでリストに加えておきました。ということで「ヘーレム」の記事にて対象になる「חרם」は80箇所、うち「聖絶」と訳されていないのは12箇所ということになります。銘形秀則牧師のいわれる「旧約で51回使われています」というのもこれで計算が合います。
(1)レビ27:28「主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも」:動詞の「הֶחֱרִים」(ヘヘリーム)の未完了形(未来形)からの訳出です。
(2)レビ27:29「聖絶されるべきものは」:重言を回避するためか名詞の「חֵרֶם」(ヘーレム)が未訳出です。「聖絶されるべき聖絶のものは」となるべきところですがとくに問題はありません。
(3)申7:2「あなたは彼らを聖絶しなければならない」:独立不定詞の「הַחֲרֵם」(ハハレム)を動詞に添えることで動詞の意味を強調する聖書ヘブライ語独特の用法でまったく理にかなった訳出です。
(4)申20:17「必ず聖絶しなければならない」:同上。
(5)王下19:11「それらを絶滅させたことを聞いている」:不定詞の「לְהַחֲרִים」(レハハリーム)からの訳出です。
(6)イザ11:15「主はエジプトの海の入江を干上がらせ」:動詞の「הֶחֱרִים」(ヘヘリーム)からの訳出です。
(7)イザ37:11「それらを絶滅させたことを聞いている」:(5)と重複する節でヘブライ語の原文も全く同じです。
(8)エゼ44:29「イスラエルのうちのすべての献納物は彼らのものである」:名詞の「חֵרֶם」(ヘーレム)からの訳出です。
(9)ミカ4:13「彼らの財宝を全地の主にささげる」:動詞の「הֶחֱרִים」(ヘヘリーム)からの訳出です。
(10)ゼカ14:11「もはや絶滅されることはなく」:名詞の「חֵרֶם」(ヘーレム)からの訳出です。
(11)マラ4:6「のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」:副詞的な用法の名詞「חֵרֶם」(ヘーレム)からの訳出です。
(12)ダニ11:44「多くのものを絶滅しようとして」:不定詞の「לְהַחֲרִים」(レハハリーム)が不定詞の「לְהַשְׁמִיד」(レハシュミード:破壊する、滅ぼす)と合わせて訳出されております。
以上です。調べてはみたものの思ったほど意外な訳出があるわけでもないのでとくに結論はありません。あえて注目するなら(6)でしょうか。新改訳のイザヤ書11:15には「干上がらせる」に続いて「焼けつく風」という訳出があり、この言葉から熱によって入り江の海水が蒸発して消滅したという場面が連想されるのですが、「焼けつく風」というのはまったくの意訳であって同語根のアラビア語からの類推であって「風の力」と訳すのが適当です。つまり、熱を考慮に入れないのなら「主はエジプトの海岸線を後退させ」というのが適当な訳出になるかと思われます。それから(8)と(9)についても言及しておきます。わたくしは「ノート:ヘレム」にて最初に「חרם」の語義を説明したさい、「一方では神聖なものに対して用いられながら他方では不浄なものに対しても用いられるという両義性」と述べましたが、これについては下記のような例が分かりやすいかもしれません。
庭に芝生が敷いてあります。ある朝庭を見たところ、芝生の中から一輪の花が咲いておりました。そのあまりの美しさに根元から掘り起し、植木鉢に植え替えました。ところが翌朝庭を見たところ、芝生の上に野良猫のフンが落ちていました。面倒だと思いつつスコップで拾い上げ、ドブに捨てました。
ここでは一見したところ相反するふたつの行為が描かれているようにも見えましょうが、あるものを「引き離す、隔離する」という点では一致しております。すなわち、植木鉢に植えるのもドブに捨てるのも、ともにヘーレムという行為(動詞)になるのです。一方の引き離されたもの、隔離されたものもまた、たとえそれが美しい花であろうが悪臭を放つ猫のフンであろうが、ヘーレム(名詞)の範疇に属するものとなるのです。「引き離す、隔離する」という意味にばかりこだわっておりますが、これを聖書思想辞典の「別にしておく」や「俗用に供することを禁じる」という意味に置き換えてもなんら差し障りはありません。わたしは「「聖」だとか「呪い」だとかいうのは何を客体にするかによって決定されるものなのです。それはもう言語学ではなく神学の問題として考えなければならない」とも申しましたが、「花」や「猫のフン」が客体の場合、たとえ異なる宗教や文化を背景にしている者同士であっても、いずれを「美」とし、いずれを「醜」とするかでもめることなど滅多にないでしょう。ところが、どの神を「聖」とし、どの民族を「呪われたもの」とするのかという価値観における対立は、まさに宗教や文化の違いによってもたらされている場合が圧倒的に多いのです。つまり、価値観を共有できているのならヘーレムが問題視されることなどありえないわけで、価値観を共有できない理由をヘーレムに求めたところで何も答えは見出せないのです。出典を確認できないゆえ積極的な引用は控えていたのですが、ヘーレムという概念の根本的な意味はラムバムのいう「あるものをある状態から別の状態に移すこと」に他なりません。ヨシュア記の時代、たとえ「異民族を生の状態から死の状態に移すこと」という意味で使用されていたとしても、その罪科をたったひとつのヘブライ語の概念になすり付けて考えているようでは、殺された異民族も浮かばれないでしょう。
ちなみに新改訳や岩波の聖書で「חרם」が「聖絶」と訳されていない箇所があるからといって、それを即翻訳者による恣意的な意訳であると解釈し、その編集姿勢に疑問を呈してはなりません。ある言語から他言語への翻訳において意味が完全に合一する単語などそう多くはなく、たいていの場合は近似値的な訳語が採用されているものなのです。日本語訳聖書においては「神」ですら意訳でしかないのですから、その点はあまり神経質になる必要はないでしょう。なお、今回まとめましたものはウィキペディアの記事の編集にはまったく関係がありませんので、本ノート上に残しておけば目的外利用とみなされる可能性がなきにしもあらずです。よって上記のDAVAR3やe-Swordの紹介、さらには前回述べました狂人のたわごとをも含め、不要かとお思いでしたら削除してもらっても結構です。それから、これはイザヤさんにもいえることなのですが、ヘブライ語について背伸びをするのもいいのですが、やはり限度を弁えてほどほどにしておくべきでしょう(ギリシア語についてはわたし自身にもいえることです)。ただでさえネット上には「日本語のルーツはヘブライ語」といった日ユ同祖論者によって発信された怪しげな言説や、「タルムードにおける異教徒蔑視」といった出典さえも定かでない反ユダヤ主義者による中傷があふれかえっているなか、そういった輩に新しいおもちゃを与えるようなことになりかねない行為は控えてほしいのです。それが自然発生的に行われるのであれば誰にも制御できないのですが、ウィキペディアがその片棒を担ぐ必要はないでしょう。固執しているのは聖絶なのか、それともジェノサイドなのかとお聞きしましたが、聖絶であるのならばヘブライ語は避けて通れません。しかしジェノサイドであるならば「宗教的排他主義」という記事もありますし、かつては「ユダヤ教徒による宗教的迫害」という記事もあったみたいなので、イザヤさんにまつわる騒動をおさめられたのちは、そちらのほうに移ったうえでウィキペディアに貢献されたほうがよろしかろうかと思われます。「ヘーレム」の記事を死守したいがために「コメント依頼:イザヤ」を提出したのであったのならまことに皮肉な話ですが、「ノート:ヘレム」にてイザヤさんの詭弁に翻弄されるぐらいヘーレムについての認識が未熟であるうえは致し方がないでしょう。ともあれ、わたくしの「חרם」に対する固執も金輪際になるかと思われます。Bokemiannさんのノートをこれ以上重くすることはないのでどうかご安心ください。--61.203.120.235 2011年3月27日 (日) 15:55 (UTC)
色々とありがとうございます。月末で仕事もあり、お返事が遅れていました。今日はもう遅いので、明日か明後日にはお返事できると思いますが、IPさんの納得できる内容であるかどうかは分かりません。今日はもう寝ます。--Bokemiann 2011年3月27日 (日) 17:02 (UTC)

IPさんのコメント4[編集]

「最後」という言葉を何度も繰り返しておきながら再度書き込ませていただくのをどうかお許しください。前回のコメントに対する返信を約束してもらったうえはしかと待つべきところなのですが、補足を要する箇所がふたつあり、どうしてもそれを済ませておきたいのでご猶予を願います。
まず一点。新改訳聖書で「聖絶」と訳されていない箇所の(6)において「「焼けつく風」というのはまったくの意訳」と断定的に述べてしまいましたが、これは厳密には同語根のアラビア語から類推された訳出であるという意味です(聖書における使用が極めて少ない単語の場合、アラム語やアラビア語、ゲエズ語といった他のセム語系言語の同語根と対照したうえで語義を推定することがしばしばあります)。新改訳ではなにか宗教的な意図があって「風の力」という訳出を避けた、といった含みがあると受け取られかねないので文章を改めておきました。わたくしが動詞「הֶחֱרִים」(ヘヘリーム)の包括可能な意味の許容範囲を考慮したうえで「焼けつく風」という訳出を退けたのに対して、新改訳では逆に「焼けつく風」を念頭に「הֶחֱרִים」(ヘヘリーム)という動詞の意味を確定したのだと思われます。いずれにせよイザヤ書の大半は詩文学ですので他にも意訳があったとしても、それは翻訳者の信仰心ではなくむしろ詩的センスが反映しての結果でしょうからことさら目くじらを立てる必要はないでしょう。
もう一点は「庭の芝生」の例えについてのことです。この例えは何度も申しておりますヘーレムの両義性に苦慮した挙句に思い付いたもので、わたくしのおよそ1か月にわたる「「חרם」に対する固執」というのもこの点を理解したかったからに他なりません。「庭の芝生」の例えでは一見すると相反するふたつの行為が描かれておりますが、猫のフンを拾い上げてドブに捨てるという行為が芝生の美化という観点から芝生本位の行為であることは説明を要さないでしょう。いわゆる「割れ窓理論」に該当するのでしょうか。一方の花を芝生から掘り起こす行為ですが、これは希少価値のあるものをそれよりも劣った大多数のものと混在させることでせっかく備わった価値が損なわれる(たとえば芝生と一緒に踏まれる)のを未然に防ぐという点で、花本位の行為であると思われましょう。ところが、これもやはり芝生本位の行為であると考えてほしいのです(花本位で考えるのなら「聖別」を意味する「קָדַשׁ」(カダシュ)という動詞が相応しいでしょう)。一輪の花によって将来芝生が花畑と化し庭一面に花が咲き誇るのであれば、植木鉢に移さないのもひとつの選択肢です。しかし、たった一輪の花がそこまで大化けすることなど滅多になく、そのまま放置しておけば足元への注意が不可欠となり、さらには虫を寄せ付けたり芝刈りの邪魔になったりと、かえって不利益をもたらすはずなのです。よしんば庭の芝生が一面の花畑になったとして、それはそれでのっぴきならない別の問題を誘発することになるでしょう。すなわち、庭に踏み込むことができなくなるばかりか、植木鉢の花に価値を見いだせなくもなるのです。古代イスラエル民族を背景に据えるなら、それは「神の権威の失墜」に他なりません。富と神への畏怖心が反比例の関係にあることは古代イスラエルの歴史が繰り返し証明しております。カルミの子アカンの逸話(『ヨシュア記』7章)からして、ヨシュアの時代においてもそれは当然理解されていたでしょう。為政者が民を平定するにおいては、ここでも「背伸びをするのもいいのですが、やはり限度を弁えてほどほどに」というのが当てはまるのです。秩序を保つために劣悪なものだけでなく優良なものさえも一般社会から排除するという思想は、古代イスラエル民族に限ったことではなかろうかと思われます(もちろん優劣を決める価値観は各民族で異なり、場合によっては花をドブに捨てたり猫のフンを植木鉢に収めたりもありえます)。しかし、古代においてその思想をたったひとつの概念で言い表している言語があったとすれば、案外「חרם」を有するヘブライ語だけだったのかもしれません。これには非常に興味がそそられますし、事実であれば将来の研究対象としては申し分ないでしょう。わたしはすでに「「חרם」は宗教用語といった独占的な専門用語ではなく単なる普通名詞です」と述べてしまったのですが、いまやそれが確たる宗教用語、あるいは政治用語(当時は祭政一致だったので宗教用語は政治用語を兼ねているのですが)であった可能性を否定しません。また、ヘーレムという概念が「引き離す、隔離する」「別にしておく」「俗用に供することを禁じる」といった意味を超越した「思想」(あるいは宗教理念、政治理念)であったのなら、つい先日太字で強調したばかりの「まるで「חרם」という言葉にのみ突き動かされて異民族虐殺が行われたかのごとく議論されている」という苦言さえも取り消す必要に迫られることになりましょう。神のためではなく、イスラエル民族の秩序、あるいはアイデンティティを維持するため、つまり「ヘーレムという思想」ゆえに敢行した行為が結果的にジェノサイドをもたらしたというのなら、わたしはいまやそれを否定する立場ではありません。もちろんジェノサイドというのは結果論でしかなく、占領地から異民族を排除して関係を断ち、異文化によって育まれた価値観の流入を防ぐことが第一義であったはずです。これは例の破門を意味する「חרם」(c)についてもいえることなのです。破門という懲罰は異端者に対する制裁なのではありますが、ヘーレムを宣告されるほどの異端者というのは近代ではシャブタイ・ツヴィハシディズムの信奉者といった時代の寵児たちであり、民意を二分するほどの社会的影響力を備えた一大勢力の一員である場合が多いのです。二分は大げさかもしれませんが、その勢力による影響が長引けばやがては民意の分断に至るわけであり、それを憂慮すればこその破門なのです。つまり、時の為政者による既成の価値観が異端者による影響によって根底から覆されるのを最小限に食いとどめるための防衛手段であるに他なりません。さらには、「חרם」という概念に「「聖」という意味は全く含まれておりません」と断言した点についても、民族の秩序やアイデンティティを保持する目的において3000年以上も前の当時から「聖なる民であるために」という明確な意志、あるいは自発的な欲求が込められており、古代イスラエル人の選民思想が如実に表されているのなら(それを判断するのは言語学ではなく神学なのですが)、誤解を恐れずにいえば新改訳や岩波による「聖絶」という訳出もまんざら悪いものではないと思えるのです。まさか自分がこのような結論に至るとは思いもよらなかったのですが、どの宗教どの宗派にも属していないわたくしの自由な立場から申し上げることは以上です。もちろん無責任な素人の仮説が責任を負った専門家のそれに勝るとは思っておらず、また一か月後には違うことをいい出すのが素人の常なので、わたくしの導き出した結論に大した価値はございません。とはいえ、新改訳や岩波の翻訳者らが、ヘーレムが意味するところの古代ユダヤ人独自の思想(あるいは宗教理念、政治理念)といったものを想定したうえで「聖絶」と訳出しているわけではなさそうなので、その思想と突き合せて「聖絶」という造語の是非について考えるのは買い被りということになりましょうか(岩波の聖書は未読ゆえ本当のところはその主義主張をまったく把握できていないのですが、「ヘーレムという思想」を見越しているのならエズラ記の10:8は必ず「聖絶」と訳出されていたはずなので、「חרם」についての認識は新改訳のそれとほぼ一致していると思われます)。いずれにせよ、わたしのいう「聖絶」の主旨がイスラエル民族の連帯を目的とした「民族本位」の異民族との「関係断絶」であるのに対して、新改訳や岩波があくまでも神聖護持を目的とした「神本位」の異民族の「絶滅」を主張しているうえは、依然として大きな隔たりがあるといえましょう。ともあれ、ここまで書いたことを一度まとめる必要があるかもしれませんね。どなたかのノートにてBokemiannさんが「聖絶については原稿用紙100枚は書ける」みたいなことをおっしゃっているのを拝見したのですが、わたしも「חרם」について書かせればゆうに100枚はくだらないでしょう。しかしながら「חרם」に固執するのも本当に金輪際にしたいところなので、あとのことはすべて苦節10年を誇るBokemiannさんにお任せしたい所存であります。ここまで弄した駄弁の数々が何かの参考になれば幸いです。蛇足ですが、前回触れました「ユダヤ教徒による宗教的迫害」の記事なのですが、カテゴリーのページではどうやらBokemiannさんも議論にかかわっていらしたようですね。気づくまではそのようなことを予想だにしておりませんでした。なにか悪意にとられているかもしれませんので前もって謝罪しておきます。
以上で補足を終わります。この文章も記事の編集には無関係ゆえ不要かとお思いでしたら削除してもらって結構です。せっかく返信をしたためているさなかに水を差すようであったならばお詫び申し上げます。--61.203.120.235 2011年3月30日 (水) 13:23 (UTC)

Bokemiannのレス2[編集]

申し訳ありませんが、仕事の進捗が悪くて最低でも後3日はウィキブレイクしなければなりません。本来はもうお答えできているつもりだったのですが、いつまでも先延ばしをするわけにもゆきませんので、編集には直接関係のない観点につき、ちょっとだけお返事しておきます。

私が「聖絶」の語を知ったのは10年ほど前のことで、その時はさすがに驚きましたが、聖絶と聞いて当然ながらジェノサイドやホロコーストを連想しました。そして、それと同時に、これは「他者否定」「異質なものの排除の思想」だとして非難しました。その観点からすれば、IPさんの言うイスラエル民族の連帯を目的とした「民族本位」の異民族との「関係断絶」も、この間点からは問題視せざるを得ません。私は今回、申命記7:1-6に述べられた聖絶の理由から、改めて聖絶を「ユーデンライン」(この場合、正確には「カナンライン」)と同一視してもよいとの結論に達しました。簡単にまとめれば、ナチスも当初はユダヤ人隔離や追放でアーリア人種の純潔を守ろうとしたわけですが、その後行なわれた「最終的解決」の結果を知っている我々は、間違ってもこれを平和的な行為であるとは言えません。そんな訳で、異民族との関係断絶は異民族への想像力をなくします。それが聖絶の思想が捕囚後のユダヤにおいてのみ特に発達した理由のひとつでもあるのでしょう。ただし、ここで私は、実際に古代ユダヤにおいてジェノサイドが頻繁に行なわれたということを主張しているわけではありません。それは多くの研究者が否定しています。私が拘っているのは、あくまで「聖絶」という訳語から連想される、その限りでの「聖絶の思想」です。その意味で私が本当に関心があるのは、ヘブライ語のヘーレムの厳密な意味では必ずしもありませんし、また、ジェノサイドそのものでもありません。私が今までずっと拘ってきたのは、ヘーレムに「聖絶」という語を与えて自負している(出典あり)ような福音派キリスト者のメンタリティーであります。その証拠に、私は永年「キリスト教は何故こんなに排他的なのか」の問を追いかけてきたのです。それは「私が何故キリスト者となれなかったのか」の問いでもありました。ちなみに、私がこの語を知った当初、ソドムとゴモラの滅亡やノアの方舟の記述で「滅ぼす」「滅ぼし尽くす」と訳されていて「聖絶」と訳されていないこと、また、民数記21:2から、敵対者を神への奉納物とする何か特殊なヘブライ語が背後にあるのではないかと推測し、これは神自身が命じるものではなく、人間が(神に対して誓願の形で)行なう行為だと判断しましたが、後者に対しては大分外しました(この判断は基本的には今も変わっていませんし、それは要するに私がクリスチャンになり損なったJesusファンとして、聖絶がイエスの福音とは完全に違背する思想であるという考えが私の基本にあるからに他なりません)。その時は我ながらすごいなと思いましたが、改めて今になって考えると当たり前の話で、別段自慢にもなりません。

要するに私は、「ヘーレム」という語の本来の意味よりも、「聖絶」という訳語を通して思索することに拘っていると言えばよいのかも知れません。そんな訳で、これだけ色々と考えされられたわけですから、私もある意味で「聖絶」は名訳だと思っています。ちなみに、岩波訳における「聖絶」は、新改訳での訳語を採用したという側面はあるでしょうが、その立場は全然違います。新改訳聖書がヘーレムの箇所で(逐語霊感説の立場で)「破門」に当たる部分も「聖絶」と訳しているのに対して、岩波訳では「聖絶」をあくまで古代中東世界における「聖戦」の法として捉えているからです。しかも、それは必ずしも「殲滅」の思想ではなく、ヘーレムにおいても指摘しておいたように、あくまでも「儀礼的な奉献」(でしかない)なのです。ご存知とは思いますが、いったん自分たちの神に捧げ直されれば、異民族の所有物も穢れた物ではなくなって、自分たちの所有にできるとされているわけです。そして、(岩波訳ではそこまで踏み込んだ解説はないようですが)これがいつの間にか捕囚後のヘブライ語聖書においてのみ現在議論される「殲滅」を意味する語になったのだと多くの研究者によって解釈されているようです。

今日ももう遅いので、これ以上は書きませんが、編集やコメント依頼に関することは、必要があれば後日レスいたします。〔追記:私のヘーレムへの固執が第一義的でないからと言って、今までのヘーレムについてのIPさんの書込みが無意味であったと申しているわけでは全くありません。中学英語も覚束ないような私にとっては、翻訳文献を使わずにヘブライ語の意味にまで手を出すわけにもゆかず、そのことも手伝ってヘブライ語における本来のヘーレムは第二義的な関心にしかならないという側面もあるということです。-Bokemiann 2011年3月31日 (木) 11:20 (UTC)〕--Bokemiann 2011年3月30日 (水) 18:49 (UTC)

IPさんのコメント5[編集]

ご返信ありがとうございます。読み終わったあとの感想を率直に申しますと、議論をはぐらかされたと感じました。わたしは当然、「なぜイザヤさんの編集を黙認していたのですか?」という問いに真っ先に答えてくれるものとばかり思っておりました。ここまで返信が引き伸ばされたのは「IPさんの納得できる内容」に腐心されているゆえにと慮っておりました。そういった誠意があるのならどのような弁明になろうともそれ以上のことは不問に付すつもりでおりました。もちろん不本意ながらかなりの罵詈雑言を並べたてた以上は相応に毒づいた返答が寄せられるものと覚悟しておりました。それゆえ、すっかり肩透かしを食らった気分であります。「コメント依頼に関することは、必要があれば後日レスいたします」とおっしゃいますが、絶対に答えを聞く必要があると思ったからこそ太字で強調してまで質問したのです。あの文面からそういった意図さえも読み取れないのでしたら、イザヤさんとの対話の不調はBokemiannさんの側にも何か問題があったからだと考えざるを得ません。わたしがしかと待っていたのはご自身の思想遍歴や岩波についてのうんちくではなく「IPさんの納得できる内容」に他なりません。その後も長文が繰り返されたゆえ、質問自体がすっかり過去のものといった感覚をお持ちになったのかもしれませんが、知的障害云々と他人の人格攻撃さえ厭わないような方でしたらご自身にかかわることはなおさら筋を通しておく必要がありましょう。わたしとの対話においては、イザヤさんに対して非難されていることがいわゆるブーメランのごとくBokemiannさん自身にも当てはまるケースがやたらと目につくのです。また、「58節において68箇所の使用が見られる」と指摘した箇所がいまだに削除、あるいは訂正されていないのはどう解釈すべきなのでしょうか? わたし自身が削除なり訂正していいものをあえてしないのは、いうまでもなくイザヤさんと同じく「ヘーレム」の記事は不可侵であるという暗黙の了解からであります。わたしを含め長文癖の人間というのは自分の書いた文章をやたらと惜しむ傾向があるので、訂正はともかく削除するのはあまりにも忍びないというお気持ちは十分察せられます。しかし、このままでは悪意はなくとも、これでは誰が・何をアドバイスしても無駄である」といった不名誉な評価を賜るやもしれませんね。このノートはわたし以外のユーザーにもみられているのです。ご多忙であることは承知しておりますが、一定の責任を負っている以上は忙しいという言い訳が通用しない局面というのもあるのです。あれからわたしなりに「コメント依頼/イザヤ」を精査したのですが、Bokemiannさんが今回の依頼によってご自身がどれほどの責任を負ったと自覚しているのかについてははなはだ疑問に感じております。わたくしの提案した査読依頼や削除依頼についてはまさかの逆切れをされておりましたが、「出典を見ないでの出典付きの記事の執筆」の項目において問題提起されたのはイザヤさんの書かれた記事の信憑性に対する疑問であり、例の「彼はこの本を見て誤読ないし誤解したか、或は実際には確認していないに拘らず恰も見ているかのように主張しているのでしょう」というのはそれに対する注意喚起だったはずでしょう。ならば率先して対処に乗り出すべき立場であるにもかかわらず、それに対して協力を申し出ている者に向かって逆切れとは何と心得ているのでしょうか? スタブ量産をしきりに問題視するのも結構ですが、その対処に骨を折られていたのはKinno AngelさんであってBokemiannさんではありません。「聖絶」関連以外にもさまざまなノートにおける議論を取り上げておられますが、そういった議論に積極的に参加されているような痕跡もございません。今回のコメント依頼がいわば共同動議として提出されているのは承知しておりますが、やはり他人の褌で相撲を取っているという印象が拭いきれないのです。要は聖絶関連をひとりでは対処できないと悟った挙句の苦肉の策だったのでしょう。コメント依頼を提出する前日にKinno Angelさんがウィキブレイクに入られたのはおそらく確認済みだったはずです。ここで躊躇してもいいものをあえて提出に踏み切ったのは、その3日前のわたくしの出現が影響しているのかとも考えました。それゆえコメント依頼に対する反響のなさには責任すら感じたりもしたのですが、振り返ってみればBokemiannさんがもっと多くのユーザーさんに根回しをしておけばよかったというだけの話ですよね。いずれにせよ「コメント依頼/イザヤ」を提出された張本人としてきちんと落とし前を付けておく必要がありましょう。このままイザヤさんが推定無罪となった場合、今度はイザヤさんの名誉を傷つけた廉でBokemiannさん自身がコメント依頼にて審議される側に回る可能性もあるのです。もちろんそのようなことは誰もしないでしょうし、わたくしもするつもりは毛頭ございません。ただし、「コメント依頼/イザヤ」がよくある喧嘩両成敗で幕引きとなった暁には、ウィキペディアのコミュニティにおける両者の評価が「同じ穴のムジナ」となるのは明らかでしょう。ご自身に何もやましいことはないとお考えでしたら今回のコメントに対して何も答えられなくても結構です。わたくしもこの件に時間を割くのは当初から今月いっぱいまでと期限を設定していたので、これ以上かかわりたくはありませんし、今後の成り行きにも興味はございません。手向けとして今後のご健闘を祈っておりますと申し上げるのみです。--61.203.120.84 2011年3月31日 (木) 14:54 (UTC)

Bokemiannのレス3[編集]

疲れた身体に鞭打ってレスをしたのに、これですか。昨日だって本来はレスをするような時間的な余裕はなかったのです。余り待たせてもまずいと思い、簡単に答えられる事柄を先にお答えしたのですが、そういうこちらの誠意が理解できないのでは、こちらもガッカリです。あなたが勝手に妄想するのは構いませんが、今回のイザヤさんのコメント依頼にあなたの書込みは一切関係がありません。「ヘレム」の立項でコメント依頼が秒読み段階に入っていたにすぎません。単にこちらの仕事その他であのタイミングでコメント依頼を提出したまでで、そうしないとまた来月になるからです。今回も延期していたら、地震で無期延期になったでしょう。
ハッキリ申しますが、あなたになぜ納得のゆく説明をする必要があるのですか? 時間がないのでログを確認しないで書きますので不正確なところがあるかも知れませんが、あなたは「ヘレム」「ヘーレム」がどうゆう形になろうと構わないようなことを何度も言っていたじゃありませんか。関わると言ったり止めたと言ったり、そんな人になんで私がそこまで言われなくてはならないのでしょうか。編集に関わりたいのであれば、期間限定でよいから、IDを取って関わるべきです。IPのままでも編集が認められているのですから、「聖絶」や「ヘーレム」の記事の編集に関与してもよいはずです。それができない、やりたくないのならば、自分の意思を他人に押しつけないことです。それと、私はイザヤさんを知的障害者だとは言っておりません。ただ、軽症ながら私も発達障害を抱えているので、ついそのような発言をしてしまいました。それについては深く反省していますが、それらを下に私がコメント依頼されても構いません。脅しで言っているのでしょうが、逃げも隠れもしません。まあ、あなたの空想で色々と私のことを悪く言うのは構いませんが、今回はそれについて特に説明はしません。仕事がギリギリなので、今晩はこれでお終いにしますが、お答えは数日中に必ずします。ただし、あなたにとってはきっと満足のゆくものでないでしょう。最後に、私はイザヤさんを悪意に取っておりませんし、できればウィキペディアンとして残ってほしいと思っております。--Bokemiann 2011年3月31日 (木) 15:58 (UTC)

IPさんのレス6[編集]

了解しました。金輪際とは申しましたが、議論に参加して散々大口をたたいた手前、「ヘーレム」の記事だけは責任をもって編集させていただきます。ただしヘブライ語版の「ヘーレム」の翻訳をベースに加筆するかたちになるのでその内容は必然的に「חרם」(c)が中心となります。そのさいは現行の「ヘーレム」の文章をいったん白紙化するので、これまでに書かれた文章はしかるべき場所に退避(統合)しておいてください。退避すべき適当な場所は、当初は「アナテマ」であると考えていたのですが、Bokemiannさんの編集が岩波の聖書に依存していることが分かった今、「聖絶」ということになりましょう。繰り返し述べているように「ヘーレムを語っているようでいて実際に語られているのはアナテマや聖絶でしかない」というのがこれ以上にないかたちで証明されたからには容認せざるを得ないでしょう。反論する時間は十分あったにもかかわらず対話に応じなかったのはBokemiannさんなのです。わたしが記事の本文には手を出さないのを逆手に取って悠然と構えていたのでしょうが、わたしはそれを「対話拒否」とみなして有無をいわさず記事の白紙化を強行するつもりです。いずれの記事に退避されるのかはそちらの判断にお任せしますので、2週間後ぐらいまでには作業を済ませておいてください。翻訳自体は数時間もあればできるのですが、肝となるべき文章に出典のないケースがあまりにも多いので、確認に2週間ぐらいの猶予がほしいという次第です。どうしても確認できない場合は「要出典」タグを付した状態で記事を上げることになるかもしれませんが、相応しくないと思われた場合は好きに対処してください。
それから「なぜイザヤさんの編集を黙認していたのですか?」というわたくしの疑問を妄想とおっしゃいますが、失礼ながら脅し云々というBokemiannさんの被害妄想も重度のレベルに達していると思われます。また、わたしとの対話をあたかも私信であると勘違いされているようなのですが、ウィキペディアのノートでの対話というのはどのような些細なことであれコミュニティ内における議論であることを忘れないでください。上記質問はあくまでも「ウィキペディアンとして相応しい行為なのか?」という点を質しているのです。わたしがBokemiannさんのプライベートなことを質問したのなら「呆れました」というのもうなずけます。しかし誰も聞いていない「発達障害」というプライベートなことはむやみに口にすべきではないという点も含め、一度ご自身の姿を見つめなおす時期にさしかかっているのは間違いないでしょう。ウィキペディアというのはどのような境遇の者であっても対等に参加できるからこそ負うべき責任も対等になるのです。ここに至ってわたしにも果たすべき責任が生じたと思ったからこそ「ヘーレム」の記事の編集を約束しているのです。Bokemiannさんにも果たすべき責任があり当然それを自覚されていることでしょう。これまでにわたしが散々申し上げてきたのはひとえに「その責任を果たすべく努力してください」ということに尽きるのですが、いい加減に理解してもらいたいところです。いずれにせよ「ヘーレム」の記事においてはその責任を果たす意思がないのは明らかなので、こちらの随意に編集させてもらいます。記事を上げる数日前には連絡を入れます。今回は以上です。--61.203.120.84 2011年4月1日 (金) 16:41 (UTC)

Bokemiannのレス4[編集]

ページが重すぎるので、とりあえず目次分けしています。先ほど仕事にキリがついて、多少ながらやっと時間が取れるようになりました。

私は「いまは仕事も立て込んでいてWikipediaに割ける時間がない」と繰り返し書いているじゃないですか。それでも、時間のかからない内容に関して無理をして時間を作ってレスをしていたのです。確かに私には大事なことを後に廻す傾向がありますが、それで誤解されたのでしょう。しかし、必ずお答えすると再三にわたって書いているのですから、「対話拒否」と決めつけられても困ります。なので、「「58節において68箇所の使用が見られる」と指摘した箇所がいまだに削除、あるいは訂正されていない」のは何故かと問われても、「時間がないからだろうな」とは想像できないのでしょうか? もっとも、私は英語文献を出典に使った記事は起こさないようにしていますので、時間が取れても記事にはできなかったでしょう。それに、あなたは「ノート:ヘレム」にて自分の書込みを下に記事にしないでほしい旨を最初に書かれていたので、そのことも念頭にありました。私はそのあなたの意思を尊重していたのです。

また、なぜイザヤさんの編集を黙認していたのですか?とのご質問ですが、これは、当初からイザヤさんの「聖絶」における編集がある程度形を為すまで待つつもりでいたからです。それに、ヘレムのノートページにて、「まずは聖絶の記事を充実させるのが先だ」として私がイザヤさんに強く言い、Kinno Angelさんがアドバイスした結果、イザヤさんが集中的に「聖絶」の執筆に入られたので、暫く様子を観ていたにすぎません。それに、先にも書きましたが、イザヤさんによって「ヘレム」が立項されたと同時に彼にに対するコメント依頼が秒読み段階に入ったので、そのような時にイタズラに議論を錯綜させるような編集は控えたという意識が働いたという側面もあります。そんな訳で、折を見て私も「聖絶」の加筆に入る予定でいました。ただ、現在「聖絶」の記事や「ヘーレム」記事が特に編集されていないのは、地震や停電の影響その他の事情で時間が取れないことはもちろんですが、コメント依頼提出中のイザヤさんが地震の対応でウィキブレイクに入っている時に余り動きたくなかったからです。「ヘレム」をどうするかも含め、私が「ヘーレム」「聖絶」「アナテマ」の記事を統合する動きを見せなかったのも同様です。前にもちゃんと書いたはずですが、私はイザヤさんの帰趨が決まるまでは特段の行動は取らないつもりですと最初のレスで書いています。たとえコメント依頼提出中とは言え、ことが決するまではイザヤさんの意思は極力尊重されて然るべきです。いくらイザヤさんがいないからといって、「火事場泥棒」のような行為はしたくありません。本当はもっと丁寧にレスをする予定で、それでお待ちいただいていたのですが、あなたからは最後通牒のようなお返事をいただきました。全てが遅きに失したようですが、取り急ぎお答えしておきます。

さて、今回はこれが本論なのでしょうが、「ヘーレム」の記事を現代ヘブライ語の語義の記事として前面書き換えを為さるとのこと。私が「IPでもよいから編集を」と言ったのは、とりあえずは通常の加筆を想定していました。これが白紙化を伴う前面書き換えになると、当然ながらコミュニティーの合意が必要になります。これは元来私の会話ページで決めるべき事柄ではなく、まずは「ヘーレムのノートページ」での提案と議論、そして合意が必要になります。「ヘーレム」「アナテマ」「聖絶」が乱立したのには、私にも一端の責任はありますが、これはコミュニティーの合意でもあります。それを覆すような編集をするわけですから、個人間ではなく、複数の編集者の合意が必要になります。それをお分かりになっているのでしょうか? 私の会話ページで軽々に決めてよいレベルの話ではありません。よって、後ほど当該会話ページに白紙化による記事改変の是非についての議論を提起しておきます。なお、私はあなたによる「ヘーレム」の内容改変に必ずしも反対ではありません。ただ、あなたの言う記事の「白紙化」が単なる新記事の上書きを意味するのならばまだしもですが、それ以上の「白紙化」であれば反対です。それまでの履歴の継承等の問題が発生するからです。現在の「ヘーレム」の内容を待避(統合)するにしても、議論と合意が必要です。-Bokemiann 2011年4月2日 (土) 12:33 (UTC)

はじめまして。 ימח שמו וזכרוと申します。アカウントを取得して最初の書き込みになるので「はじめまして」と申しておきます。なにか一分違いだったみたいですが、「ノート:ヘーレム#皆様からのご意見を募集します」にて意見募集の項目を立ててあるので心配には及びません。こちらも時間が限られているので後々に火種を残すような強硬手段に打って出るほど愚かではありません。それから「ヘーレム」の編集に携わる決心をした今となっては「なぜイザヤさんの編集を黙認していたのですか?」という点は大した関心事ではありません。現行の「ヘーレム」の記事内容を「アナテマ」あるいは「聖絶」に統合するのに同意されるのか否かという問いに答えてくだされば結構です。また、「私はイザヤさんの帰趨が決まるまでは特段の行動は取らないつもりです」とおっしゃいますが、戻ってくるという確信はあるのでしょうか? 悪い言い方をすればたった一人のためにコミュニティの活動を停滞させるわけにはいかないのです。今回の震災でもってそれは身に染みて感じているはずでしょう。Bokemiannさんがイザヤさんと運命を共にしたいのであればイザヤさんと同様、公式にウィキブレイクを宣言してこの問題から手を引けばいいだけのことです。そしてこれも繰り返しになるのですが、たとえご多忙であっても一定の責任を負っている以上は忙しいという言い訳が通用しない局面というのもあるのです。社会人であればそういったことは十分経験されているはずでしょう。そんなにウィキペディアを重荷に感じているのでしたらしかるべき人に後を託して引退すればいいのです。また、「58節において68箇所の使用が見られる」についても弁明しておられますが、何のためにTakao's Home Pageさんの聖書用語検索[6]を紹介したのかまったく理解されていないのですね。それ以前にJ-バイブル2000でもう一度調べ直すという発想には至らなかったのですか? 正直なところ、今のBokemiannさん何をいわれようとわたしにはすべてが言い訳にしか聞こえません。ともあれ、去るにしろ残るにしろ「ノート:ヘーレム#皆様からのご意見を募集します」には言質を残しておいてください。--ימח שמו וזכרו 2011年4月2日 (土) 14:26 (UTC)
連日のように書き込んで申し訳ないのですが、「ノート:ヘーレム#皆様からのご意見を募集します」に追加事項があるのを報告しつつ、提案への返答を催促しておきます。本来ならば合意形成までには最低でも2週間ぐらいの猶予が必要で、わたくしも記事の作成に2週間はかかるといっている手前、そんなに急ぐことはないと思われましょう。しかし、わたしのほうでも本件に割り振れる時間は限られており、いざ記事を上げる段階になってBokemiannさんが抵抗されるのであれば骨折り損のくたびれ儲けとなってしまうのです。翻訳ならば数時間で終わると申しましたが、あれから出典と思しき記述をミシュナーなどで探してみたところ、若干それらと符合しない記述があるので、そういった文章の取捨選択には悩まされると思います。また、ヘーレムの説明にはどうしても「ニドゥイ」の詳細が欠かせず、こちらの記事の翻訳も必要となってきます。破門の具体的な事例についても個別に資料を集めて触れておくべきでしょう。英語版に倣って(a)についても詳述しておきたいところです。つまり、作業には相当の労力が必要なわけで、それが徒労に終わるとはじめからわかっているのなら謹んで辞退させていただきたいというのが正直な心境なのです。あらかじめいっておきますが、現行の「ヘーレム」の記事に(c)を加筆するというのは御免被りたいところです。「ヘーレム」の記事に聖絶のことが書かれている点については、たとえ今回わたしが妥協してもいずれ別のユーザーによってその妥当性が指摘されるでしょう。「聖絶」という記事がある以上それは当然の指摘であり、そしてまた同じ議論が繰り返されるのは目に見えているのです。聖絶関連の記事に関わったことのある3名のユーザーさんにはすでに意見の募集を呼び掛けておりますが、案外皆さん本件に関してはうんざりされているかもしれないので、あまり期待はしてはおりません。というわけで「ヘーレム」の統合案の可否はBokemiannさんの一存にかかっているといっても過言ではないので、決断するのであれば可能な限り早期の返答をお願いいたします。是か非かどちらでも結構です。しつこいようですが、返答を引き延ばされても忙しいが言い訳にならないことは忘れないでください。是か非かの一言で済むのですから。--ימח שמו וזכרו 2011年4月3日 (日) 13:12 (UTC)
1時間以上前に賛成票を投じておきました。-Bokemiann 2011年4月3日 (日) 13:19 (UTC)
これは大変失礼いたしました。即決していただき感謝しております。では早速作業を開始いたします。ところで、統合のほうはBokemiannさんにお任せしていいと考えてよろしいのでしょうか? わたしは聖絶については無知も同然なので、問題なく作業を完遂する自信はございません。本当に「アナテマ」でいいのか、という点でも疑問に思っております。それでも、統合もまた提案者に課せられた義務であるというのなら責任をもって作業にあたる所存でありますが、とりあえずご意見を聞かせてもらいたいところです。それから、多少のいがみ合いはありましたが、ようやく問題解決に向けて動き出したのですからお互いに過去のことは水に流して前向きに考えていきましょう。わたしのほうでも「善意に取る」という点で至らなかったのは否定できないので、この場を借りてお詫び申し上げます。--ימח שמו וזכרו 2011年4月3日 (日) 14:10 (UTC)
早速作業を始めてよいかどうか、即決はできないと思います。作業を始める前に、他の人からの意見を待たないと、どんな結果になるか、まだ分かりません。震災の影響でまだ世間がドタバタしているため、議論も活性化しないでしょうから、議論を尽くすまで1週間以上の時間は必要でしょう。できれば2週間は見たいところです。実際の作業はそれからの方が無難だと思います。なお、「アナテマ」でよいかどうかは私にも疑問がありしたが、現段階では「アナテマ」が最適と判断します。統合作業は未経験ですが、私がやっても構いません。最後に、大変申し訳ありませんが、今後はこのページでの会話は遠慮したいと思います。技術的な問題があれば当該ノートでお願いします。-Bokemiann 2011年4月3日 (日) 15:06 (UTC)

ノート:ヘーレム#皆様からのご意見を募集します」にてBokemiannさんへの質問があるのでご覧になってください。--ימח שמו וזכרו 2011年4月7日 (木) 14:18 (UTC)

ノート:ヘーレム#皆様からのご意見を募集します」にて確認事項と要望がありますのでご覧になってください。熟考を要するものゆえ返答は急ぎませんが、こちらも段取りがあるので、できれば3日以内にお願いしたいところであります。--ימח שמו וזכרו 2011年4月9日 (土) 13:43 (UTC)