利用者‐会話:KAGEROU

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かげろう

みなさんへ ここで「荒らし」と認定された方の削除していただいてますが、せっかくではございますが、その投稿のアカウント名のあとで、おしらせ頂くだけで結構です。大切な時間を割いておはなしにこられているのですから、どなたでも無下にしたくはありませんので。私も先日巻き添えで投稿ができなくなりました。このようなイタチゴッコは解決にはつなららないのではないでしょうか。犯罪的な荒らしは警察に、そうでなければ話し合いでというのは、考えとしてよろしくはありませんか?--KAGEROU 2010年1月9日 (土) 15:31 (UTC)[返信]


システムソフトウェアの件[編集]

システムソフトウェアに要出典を貼り付けた理由ですが、次のようなことを考えてのことです。

  • ひっかかったのは「ウィンドウズ 自体をさす場合もある」という部分。OSがシステムソフトウェアであることはそれ以前の文にあるし、Windows が OS であることも自明ですから、殊更にこのように書くのは何故だろうと考えたわけです。
  • そして、「ウィンドウズ」が「システムソフトウェア」そのものであって、同値である(それ以外はシステムソフトウェアではない)と言いたいのだろうか? と考えました。そうであるなら出典が必要だし、そうでないなら無用の誤解を与えないよう表現を改める必要があると考えました。

で、私の会話ページに書かれた内容から察するに、同値とは思っていらっしゃらないようなので、「ウィンドウズ 自体さす場合もある」と修正すべきかと重いますが、そうすると、やはりなぜ今更なことを書きたてているのか、よくわかりません。いかがでしょう?--Melan 2008年9月4日 (木) 15:25 (UTC)[返信]

修正されたものを確認いたしました。私としては問題ないと思います。若干、体裁を修正させていただきました。--Melan 2008年9月5日 (金) 16:48 (UTC)[返信]

ありがとうございます。--KAGEROU 2008年9月17日 (水) 11:26 (UTC)[返信]

コメント依頼について[編集]

ユーザーについてのコメント依頼の場合は利用者をサブページ名には入れないこととなっていますので(Wikipedia:コメント依頼をご参照ください。)、作成されましたコメント依頼は移動しました。--Tiyoringo 2008年11月28日 (金) 13:45 (UTC)[返信]

スミマセン。ありがとうございました。--KAGEROU 2008年11月28日 (金) 15:40 (UTC)[返信]

ノート:ジークフリート (楽劇)[編集]

KAGEROUさん、こんにちは。

ノート:ジークフリート (楽劇)で新たな提案を行っております。ご意見下さい。--汲平 2008年12月18日 (木) 15:23 (UTC)[返信]

私等の意見の必要などないでしょう?
私にとってワグナーはナチスの収容所にただよう死臭をイメージするのには一番相応しい音楽家です。
嘔吐を催すので、ワグネリアンともワグナーともリアルでは係わり合いになりたくないですね。
ただ、芸術性を認める人も多く、正確な記事は必要でしょう。
音楽に正面から向き合えば当然こういう反応もおきるわけです。
私のサービスは終わりです。KAGEROU 2008年12月18日 (木) 16:38 (UTC)[返信]
え〜っと、上記の発言は、ノート:ジークフリート (楽劇)にご意見を頂戴した15分後になされておられるのですが、『私等の意見の必要などないでしょう?』ということは、KAGEROUさんのご意見は無視して議論を進めて欲しいという意思表示と理解してよろしいのでしょうか?それから『私のサービスは終わりです。』という言葉の真意も量りかねます。誰に対するどのようなサービスをKAGEROUさんは今までなさっていたのでしょうか?今後の議論に関わることですので、明快なご回答を頂戴したく存じます。よろしくお願い致します。--汲平 2008年12月20日 (土) 15:36 (UTC)[返信]
『私等の意見の必要などないでしょう?』という疑問には、「正直申し上げて同じような主張を繰り返されるのはもう結構ですから、こちらからの疑問に少しは答えて下さいよぉ」と思っています。--汲平 2008年12月20日 (土) 15:48 (UTC)[返信]

ドイツ語で1日は夜に始まって日没に終わるという古い考えと、近代的に午前0時から24時間をとる考えがあり、夕べから深夜におこなれる江戸時代から明治初期のオペラに関しては、一夜の公演を2日間と勘定することもできるということです。例、heute abent(辞書で調べてもないのならそんな辞書は捨てた方がいいでしょう。)。日本のように太陽を中心とした1日の感覚も、ドイツ的に考えれば2日にまたがるとも言い得るわけです。そもそも12月の北ドイツの日照時間と太陽高度はどう?1年でかなり変わるでしょう?だからTagが1日ってヘンでしょう?Lichter Tagというやつではないでしょう?ということです(独自研究)。「heute abentを昨晩という理由」がおわかりにならないではナニを聞いても無駄でしょう。ヒトの説明を自分の納得できる答え以外聞けないなら尋ねなければいいんじゃないですか?

>要は、ドイツ版にはそう書いてあったからということですね。フランス語版はSiegfried est le troisième des quatre drames lyriques qui constituent Der Ring des Nibelungenとあっさりですね。思うんですけど、ドイツ語の1階2階の訳と同じことなんですよ。第1階は日本の2階にあたるわけです。だから、あえて1夜とレコードなんかでしてるのかな、と考えたのは私の考えすぎですか?なお、abentは夕暮れにです。heute abent(今晩)は、(陽のあるうちでは)まれに昨日の晩という意味になります(これが本来のゲルマンの習慣なわけです)。だから、Abentは一日のはじまりで、Tagは日の終わりで日数を数える単位です(と私は聞いてる。日本の夜はNachtで真っ暗で闇で寝てしまっている感じ?)。vor abendsは「晩になる前」という熟語で、Vorabendは前日、前夜というふうに訳します。だから、第~日とするなら、序夜はヘンでせいぜい前夜祭でしょう。Tagもは一日の終わりで~日をレコードの様に~夜と訳すことは誤りではありません。夜は序夜のみという表現のとおりなら、まるで、第1日では前夜祭のあと、昼間(日本の芝居のように)に第1~3日を行うように字つらからはみえるのですが。だけ説明した意図は、単に絵があったからです。どうでもいいことですけど、私は退廃的なワグナーは、軍靴の音が後ろでするようなで嫌だし、バイロイトにゆくこともないでしょう。ただ、初演時は何時だったからかしらないですが、今は6時くらいからやるんじゃないですか?なのに何故、 Vorabendだけが夜なんだ!とおもっただけです。しかしこれは内心のことで、多くのレコードや放送が第~夜とういう表現をしているからそちらがよいかなと思うだけです。

を、もういちど読んでください(これは単なる意見です)。「ジーク・フリート」は私も分かりません。音節で書いたミスタイプでしょう。「一般の人」はあなたの言い出したことです。たぶんあなたと同じ人たちでしょう。議題はなんですか?議論の本題はなにか、もういちど考えてみて下さい。あなたにつきまとわれるのは迷惑です。--KAGEROU 2008年12月22日 (月) 04:40 (UTC)[返信]

コメント依頼を提出する際の注意について[編集]

はじめまして。貴殿が2008年12月14日に提出なさったコメント依頼ですが、依頼の書式に不備があったため、僭越とは思いつつも訂正させていただきました。具体的には、Wikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメントにおける、

  • 利用者名付き署名(~~~や~~~~チルダ3-4個など)をしないようにしてください。詳細も書かないようにしてください。これは、このページ自体が議論の場になることを防ぐためです。利用者名をつけない署名の仕方は、チルダ5個(~~~~~)で行えます。

という規定に基づき、署名の中に記入されている利用者名を除外させていただきました。なお、今回のコメント依頼の提出それ自体に影響は無いため、ご安心下さい。それでは、失礼いたします。--白文鳥 2008年12月23日 (火) 23:28 (UTC)[返信]

お手数をおかけしました。ありがとうございます。--KAGEROU 2008年12月25日 (木) 12:46 (UTC)[返信]


平福画像とカメラデータ記載の件[編集]

KAGEROUさん、こんにちは。平福川端風景のパッチを評価していただき、幸いに思います。パッチに気づく方は極少数と思っていました。
当画像、はからずも写っていたパッチのために3年前の撮影直後の投稿リストからは外して眠らせていたものです(^^
撮影データの件ですが、カメラは自動的にデータが載りますから追記不要としましても、レンズデータまでは載っていませんね。ということで、ひとまず本日投稿分にはテスト的にですが、記載いたしました。過去投稿画像につきましては、現在の使用レンズはSAL1680ZかSAL16105(稀にTAMRON11-18)だけなので、その点については追跡可能です。ご提案ありがとうございました。--663h 2009年9月23日 (水) 11:16 (UTC)[返信]

ごていねいにありがとうございました。あの写真は、文化遺産に住む人の気持ちを、パッチ一枚で見事に表現しているオノ・ヨーコ的な非常に面白い作品でした。--KAGEROU 2009年9月30日 (水) 15:02 (UTC)[返信]

削除議論について[編集]

Wikipedia:削除依頼/日本語における外国語の誤用 20090628において、「反対」とされていますが、Wikipedia:削除依頼#依頼への投票・コメント方法には投票の場合は削除・特定版削除・存続を用いることとされているので(削除議論用の投票アイコンTemplate:AFDでも同様)、修正をお願いします。--BBG 2009年9月30日 (水) 06:22 (UTC)[返信]

わざわざありがとうございました。ご指示どおり変更しておきました。--KAGEROU 2009年9月30日 (水) 14:56 (UTC)[返信]

ご相談です[編集]

  • 利用者:Dr jimmy 会話 / 投稿記録 / 記録氏の編集行為の件ですが、正直正しい記述を書いても自分が気に食わなかったらユーザーの編集前の記事に差し戻し(IPアドレスで利用エリア等チェックする等やっている行為ネットストーカーに近い)。議論でノートで書いても対話せず。更に他のユーザーに散々批判しながら自分はやっている。過去の行動が異常すぎる(Wikipediaを監視している、他のユーザーの揚げ足をとっている)ので許させる行為で無いと思います。せっかく文献やデータ等収集して記載しても差し戻しや嫌がらせに近い差し戻しに何百人・何千人といやな思いをしていると思います。本人に忠告するか投稿ブロックは厳しいかもしれませんが管理人に忠告をしないとDr jimmy氏の価値観が記事を承認・承認しないになると思います。--221.184.149.211 2009年10月3日 (土) 10:20 (UTC)[返信]


ここ[1]で、自分で言ってるように確信犯だから、態度をあらためてもらうことは無理だろうと思う。

>基本的にあまり執筆は行っていない。これに関して、たまに批判の声もあるが、百科事典としてふさわしくない記事を書き散らす人よりも、よっぽど貢献していると、確信している。

から分かるとおり、自分が絶対に正しいと思う人間を説得するのは難しいところだろう。「たまに批判の声もあるが、百科事典としてふさわしくない記事を書き散らす人よりも、よっぽど貢献していると、確信している。」らしいから、批判が大きくなっても、誰が何を言っても、不感性で終わるのもけだし当然といえる。おそらく説得は無理だと思う。>IPユーザーに対してはあまり快くは思っていない(Wikipedia:説明責任)から、ルールにより無視するというのが、彼の行動のすべてを物語っているだろう。--KAGEROU 2009年10月4日 (日) 03:41 (UTC)[返信]

KAGEROU様 このまま進めばDr.Jimmyが全ての記事の検閲することになりますよ。管理者やチェックユーザー係でもないし、投稿記録を見る限り1字だけ微修正してウオッチリストにする(一日50件~100件で年間で40,000件程度)⇒都合が悪い記事やソックパペットとなれば即刻差し戻しする。このまま続けば編集したい記事やデータ更新した記事も差し戻しになるんです。尚ソックパペットの記事無効やIPアドレスはチェックするべき等はルール(あのユーザーの勝手な解釈)なのでそれでかなりのユーザーに迷惑をかけているのは投稿ブロックの対象にはなるんですけどね--221.187.142.74 2009年10月5日 (月) 08:40 (UTC)[返信]


最悪の事態は、彼が管理者やチェックユーザー係になることだろうね。私が管理者なら、注意するだろうけど、管理者の海獺さんなどは彼に協力をもとめさえしているしね。管理者などに忠告は全く意味ないと思う。対話拒否も管理者が平気でやってることだから、彼がしても文句はいえないだろうし…。雑草とるために花壇に大きな足跡つけたり、花の芽まで抜いてることに気づいてほしいね。誰の目にも彼の活動が不都合となるまでは、個人的な苦情を述べるしかないのかな。それで考えを少しでも修正してくれればいいのだけれども。--KAGEROU 2009年10月10日 (土) 15:50 (UTC)[返信]

割って入ってすいません。僕も彼の行動を見させてもらったのですが、ノートページでの対話をしていないのはよくないことだと思います。少し投稿ブロック依頼をしてもよいような気がします。――凹凸 2009年10月11日 (日) 12:57 (UTC)[返信]

対話というのは、意見、つまり事実に基づいた判断を示すことなんだけれども、それは物別れでも仕方はないのだが、彼の場合は意見と感想の区別がどうもついてるのだろうか?と思うのである。そういう点では、対話をしていないと私も思う。ブロック依頼はこのままだとねえ。まあ、貴方からも意見があればしてあげて下さい。--KAGEROU 2009年10月13日 (火) 17:36 (UTC)[返信]

皆様へ この件ですけど、過去に彼の行動があまりにも問題だったので投稿ブロックをかけたユーザーがいます。しかし、反対票が多く即終了で投稿ブロックを依頼したユーザーアカウントが無期限使用禁止となったことがあります。という事でもし誰かが投稿ブロックを出せばDr.Jimmy氏を擁護している管理者からブロックをかけられる。つまり今でもそうなんですけど誰もDr.Jimmy氏に口出しする事はできないのです。かといってDr.Jimmy氏の行動派絶対に許せません。管理者やチェックユーザー係じゃないのにほかの新規ユーザーの揚げ足をとる行為や完全なネットいじめ、ネットストーカー行為、自分のまずい会話の投稿には必ずといっていいほど会話を削除する会話拒否は問題行動です。一番いいのは本部に英文でメールを書いて問題行動を通報するのが一番ではないかと思います。--203.91.169.110 2009年10月14日 (水) 09:08 (UTC)[返信]

でも、まあひと文字だけ変えるような変更は確かに正しい行為なんですよね。あと、確かに決まりは破っておらず、メンテナンスなどで役に立っている所もある。そこが、難しいところなんです。--凹凸 2009年10月14日 (水) 13:17 (UTC)[返信]
結局そこなんですね。ただ、正しい行為も、正しくない行為も、どちらもウィキペディアのルールに照らしてなわけです。
しかし、そのルールが存在する目的は、百科事典の編纂の為であるので、
>百科事典の編纂について、基本的にあまり執筆は行っていない。よっぽど貢献している。
と、自らの思い込みを宣言して、その宣言をかたくなに行動にうつし、自らの行為やその結果を微塵も省みない人では、何が正しく何が間違っているかはについて、他の意見を聞くという大切な検証過程が抜け落ちていることは明らかです。それが何よりの問題なのです。なお、利用者:FREEZA さんみたいなのもいましたから、メインテナンス云々は考慮する必要はないでしょう。もっとも、上のIPさんの言うとおりなら、凹凸 さんのような人が、知識を沢山身につけて、ウィキペディアで貢献されるのを待つしかないでしょうなあ。--KAGEROU 2009年10月14日 (水) 14:17 (UTC)[返信]
本人のウイキペディアでの活動ですけど、決して許される話で無いと思いますけどね。事実で証拠や参考資料があるのに本人がルールブック化しているし、本人が気に入らないユーザーがいれば即刻投稿ブロックを依頼したり管理者に頼んで即ブロックをしてもらう。完全に昔の中国の文化大革命の言論の自由の弾圧に近い状態です。--222.148.178.122 2009年10月21日 (水) 02:28 (UTC)[返信]

Dr Jimmy氏の行為について[編集]

  • 利用者:Dr jimmy 会話 / 投稿記録 / 記録氏の編集行為ですけど、本当にいい加減にして欲しいと思いますよ。会話ページは書き込みできないし、単に本人が被害者ぶっていますけどDrJimmy氏が加害者ですよ。IPアドレスでチェックしてプロファイリング等する。しかもこの方の問題は誰かが同じことをすれば3分以内にチェックする。あと言いますけど「IPアドレスユーザーをチェックする行為」や「ソックパペットが書いた記事は無効」なんて勝手な解釈だと思います。--60.38.249.198 2009年11月13日 (金) 04:44 (UTC)[返信]

色々な人から文句を受けても、自分の行動を改めない人は多いですけどね。自分の事として、お互いに注意しましょう。--KAGEROU 2009年11月13日 (金) 16:13 (UTC)[返信]

KAGEROU様そう言いますけど問題ありですよ。DrJimmy氏の行動を少しでも批判すれば必ず管理者の海獺氏が投稿ブロックを掛ける等管理者の海獺氏がDrJimmy氏の行動を助長しているのです。過去に書けば3分後に投稿ブロックを掛けている酷さです。言っておきますけどDrJimmy氏の反発したユーザーは発言権なしなのはある意味問題だと思います。何とかしないとDrJimmy氏がルールすれすれの行為をして結果は権限が無いのに管理者同然の事をするかのうせいありですよ。--210.162.9.51 2009年11月14日 (土) 00:07 (UTC)[返信]

KAGEROUの行為について[編集]

(以下の頭痛の投稿はSergei semenovich氏の会話ページに書かれた利用者:KAGEROU氏のコメントにつけたものを、KAGEROU氏が移動したものです。見出しはKAGEROU氏自身によります。--頭痛 2009年11月18日 (水) 21:24 (UTC)) Wikipedia:投稿ブロック依頼/hyolee2/H.L.LEE 2009-賛成者は依頼者のみ、反対意見9件で早期終了。どこからどう見ても「論外」の依頼です。最後に投票されたSergei semenovichさんの時点ではすでに反対意見が出尽くしていました。そんなことも考慮されず会話ページに押しかけてきて詰め寄るとはどういう了見なのですか。--頭痛 2009年11月18日 (水) 17:34 (UTC) [返信]

「論外」の意味がわからないから聞いてるだけですよ。私は何でもかんでも、理由を欲しがるだけです。「論外」とか、「決まってるだろう」、とかだと消化不良になるのです。しかし、考慮ってAの考えにBを合わせて考えるんじゃないですか?この場合、何を考慮するんです(答えなくていいですよ)?貴方はSergei semenovichさんじゃないでしょ。びっくりするんですけど。--KAGEROU 2009年11月18日 (水) 20:54 (UTC)[返信]

  • コメントを移動するならその点をきちんと文章中に明記してください(要約欄だけでなく)。他のひとが見たらやり取りの意味が不明でしょうが。上のコメントはSergei氏に対するあなたのコメントに関するものなのですから当のやり取りが行なわれている場に付けられるのは当たり前です。おかしなコメント移動をしないでください。今回はあなた自身の投稿も撤回されたようなので差し戻しはしませんが、撤回するなら利用者‐会話:Sergei semenovichにおけるコメントはコメントアウトではなく除去すべきです。当人の迷惑を考えてください。
  • 「考慮」の本義は「(事情を)考え合わせる」であって「具体的なAとBという事物を考え合わせる」ではありません。弁証法じゃないんですから。この場合で言えば「すでに多数の反対意見が出ていたという事情を考え合わせれば」という意味です。どうも基本的な日本語の理解に問題があるように思われるのですが。びっくりするのはこっちです。--頭痛 2009年11月18日 (水) 21:24 (UTC)[返信]

あんまり横槍に慣れてないのでね。しかし、消去はまずいでしょ。あれでいいんじゃないですか。考慮は、「すでに多数の反対意見が出ていたという事情を考え合わせれば」と書けばいいじゃないですか。それできっちりわかるでしょ。>日本語の理解に…。同じ言葉を返しますよ。--KAGEROU 2009年11月18日 (水) 21:34 (UTC)[返信]

消去せずコメントアウト部分だけ残す方がまずいです。よくありません。あなた自身でする気がないなら私が除去しておきます。『「すでに多数の反対意見が出ていたという事情を考え合わせれば」と書けばいいじゃないですか』という文章が意味不明なのですが、それは私に言っているのですか? 「考慮」などという中学生でもわかるような言葉をつかわずに「事情を考え合わせる」と言い換えてくれと? 大丈夫ですか?--頭痛 2009年11月18日 (水) 21:42 (UTC)--(文面変更)--頭痛 2009年11月18日 (水) 22:49 (UTC)[返信]

「考慮」などという中学生でもわかるような言葉をつかわずに小学生でもわかる「事情を考え合わせる」という簡単な言い方がブレがなくて本当は良い言い方でしょうね。--KAGEROU 2009年12月5日 (土) 12:34 (UTC)[返信]

相手が小学生ならね。--頭痛 2009年12月5日 (土) 21:44 (UTC)[返信]

建設的でない攻撃的な発言を繰り返す行為を重ねることは止めてください。--KAGEROU 2009年12月6日 (日) 06:02 (UTC)[返信]

投稿ブロック依頼は慎重に[編集]

KAGEROUさんには申し訳無いことですが、「Wikipedia:投稿ブロック依頼/頭痛」はブロックしないこととして終了させていただきました。以前にKAGEROUさんが依頼された別のブロック依頼でも同様のことを指摘されておりますが、もし他の利用者と意見が対立しているのであれば、穏便に話し合う努力を怠らないようにお願いします。ブロックは利用者を強制的に排除する最後の手段であり、いきなり投稿ブロックを依頼されても、それが実施される見込みは全くと言って良い程、有りません。ウィキペディアは他の利用者との共同作業という要素を含んでいます。他の利用者と摩擦を起こさないよう、心がけてください。--Bellcricket 2010年1月11日 (月) 13:09 (UTC)[返信]

了解しました。--KAGEROU 2011年12月5日 (月) 14:36 (UTC)[返信]

メッセージの誤配ではないでしょうか?[編集]

どうもはじめまして Stukn と申します。利用者‐会話:Stuknで、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに関して、「切るなと書いてありますが、あまりに長過ぎます。他人の編集が気に入らないから、自分のに差し戻しでは、このサイトでは無用な軋轢になるでしょう。そもそも、切るなという理由は何でしょう?」とのメッセージをもらいましたが、編集履歴を参照して頂ければ明らかなように、私が編集したのは、いずれも曖昧さ回避のためのリンク先修正(ヘルダーヨハン・ゴットフリート・ヘルダーなど)でありまして、KAGEROUさんが言われるような差し戻しを行った覚えは一切ありません。おそらくMeridianさんとお間違えていらっしゃるようですが、十分ご確認のうえ、適切なあて先へメッセージをお送りくださいますようお願いいたします。--Stukn 2010年2月8日 (月) 03:44 (UTC)[返信]

申し訳ありませんでした。--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 10:18 (UTC)[返信]

コメント依頼を行いました[編集]

Wikipedia:コメント依頼/KAGEROU. --頭痛 2010年2月24日 (水) 01:44 (UTC)[返信]

  • あなたは既に投稿ブロックを受け、多くの人からその行動について問題があると指摘されています。このコメント依頼当時に私には理解できて余人に理解できなかったことが、理解されているのだと私は思います。問題があると考えるなら、お続けください。--KAGEROU 2011年12月1日 (木) 05:08 (UTC)[返信]

江村潤郎「データ通信システム入門」オーム社の情報を教えてください[編集]

こんにちは。データ通信にてKAGEROUさんの編集を拝見しました。そこで、教えていただきたい件が1点あります。出典に使われた江村潤郎「データ通信システム入門」オーム社の情報が確認できませんでした。出版年など、もう少し詳しい情報をいただけないでしょうか。よろしくお願いします。私は著作者が江村潤郎氏である該当本は存在しないと思っています。なんらかの情報不足かミスの可能性を考えています。
私の知っているオーム社の「データ通信システム入門」は、1980年代前半に改版を重ねた本です、1980年代前半ですと一般家庭でのパソコンの普及率はまだまだ低く、パソコン通信も非常に低速なアナログ通信、音響カプラに頼っていた頃でもあります。そういったことから今現在の一般的な「データ通信」の定義の参考とするには古すぎるのではないかと思います(データ通信の歴史を考える本としてはありでしょう)。KAGEROUさんが参考にした本も、そういった時期の本であるならば冒頭の定義は再考の余地があるやも知れません。
再考については先走りした所もあります。ひとまずは出典情報の補足をお願いします。--Bellis 2011年12月3日 (土) 00:01 (UTC)[返信]
こんばんは、はじめまして。さて「定義の件」、Bellis様のご懸念は当方もよく理解しているつもりです。実は私も定義については様々考えての末の記述でございまして、データ通信とは?と思い、資料(と申しましても雑誌やネット検索ですが)をゴソゴソとやってみましたが、結局は日々時々刻々進歩するアーキテクチャにおきましては、いまだ確定的な定義は不可能(法的な規制の区分、技術的な区分、一般のイメージ、さらに例外を考えた場合…アシモが手旗で人やアシモと通信をしたら?等…)と考えました次第です。そんな中、古い教科書として件の図書を久方ぶりに開きましたところ「なあんだ変わってないじゃないか」と引用してしまった次第です。しかし、「冒頭の定義は再考の余地」は当方も大いに感じていまして、もしよろしければBellis様の方でご編纂の労をおとりいただけますれば幸いでございます。今回はわざわざお知らせいただきありがとうございました。今後とも、不備がありましたら、ご指導の方よろしくお願い申し上げます。--KAGEROU 2011年12月5日 (月) 14:35 (UTC)[返信]
連絡がおくれました。記事の更新対応ありがとうございます。著作者の問題は監修者のみを書いて著作者が抜けていた問題が改善されたことを確認しました。--Bellis 2012年2月4日 (土) 18:13 (UTC)[返信]

国文学の件[編集]

私のノートページに半年以上前に書き込みをいただいておりました件です。お盆に日本に帰ってきて久しぶりにログインしましたので、簡潔ですがお返事を。日本史的にというのはやや難しいですが、文学史的にということであれば、大正期までは「国文学」は近代文学を対象としていなかったということを小谷野敦が繰り返し述べていたことを思い出します。たしか中村光夫を境に国文学が近代文学も含めるように変化したという趣旨だったと思います。私が今手許にある『反=文芸評論』でそういうことをいっていますし、『恋愛の昭和史』などでも言っていたかもしれません。求めていらっしゃるような精神史的背景については今はちょっと手ごろな出典が思いつきません。--Kanbun会話2012年8月18日 (土) 04:01 (UTC)[返信]