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利用者‐会話:Ukycbseuksl

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Ukycbseukslさんがウィキペディアにおいて実り多き執筆・活動をなされることを楽しみにしております。--Trgbot会話2013年1月10日 (木) 19:48 (UTC)[返信]


北条氏康の編集について

[編集]

こんにちは。編集お疲れ様です。ですが、「北条氏康」の記事において、掲示された出典にある記述を消して、出典に無い内容を書き加えることは止めてくださいますよう、お願いします。新たな内容を投稿される場合は、その都度出典を掲示してください。これは上記のテンプレートにありますように、wikipediaはに参加するにあたっては、守らなければならないルールがあり、その中でも重要なガイドラインであるところのWikipedia:出典を明記するについてのことです。また{{工事中}}のお願いにご留意いだだけますよう、宜しくお願い致します。--ジャムリン会話2013年1月11日 (金) 03:24 (UTC)[返信]

こんにちは。私は出典のある記述を消したことはありません。私の投稿内容は全て歴史的事実を記載した本に書かれているもので出典も明記しています。どうぞご安心ください。--Ukycbseuksl会話2013年1月11日 (金) 03:32 (UTC)[返信]

お返事ありがとうございます。失礼しました、出典に無い内容を編集されておいででしたので、その部分を除去修正いたしました。編集内容に触れられた新たな出典の掲示をページ数や項目章名含めて正しくお願いします。--ジャムリン会話2013年1月11日 (金) 03:39 (UTC)[返信]
度々すみません。「北条氏康」の2013年1月11日 (金) 03:56(UTC)時点における版で出典として「黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』洋泉社、2011年、pp75-76」を追加の上、「一方で、今川義元武田信玄里見義堯に敗れ、梁田晴助に退けられるなど苦戦の連続であった。」と編集されていますが、該当のページは古河公方・足利義氏の任官に伴う氏康の任官から、鶴が岡八幡宮への参拝と義氏の関宿城入城。そして三国同盟の成立時における武田の信濃侵攻と今川の三河戦略の解説で、苦戦の状況は見えてこないんですが、要約でなければ独自研究ということになってしまいますが、ページ数をお間違えでしょうか。他の出典についてもページ数か章題の掲示をお願いします。--ジャムリン会話2013年1月11日 (金) 05:32 (UTC)[返信]
報告こんばんは。上記のUkycbseukslさんの編集についてですが、残り2点の出典についても該当部分が確認できませんでしたので、出典除去の上、一時的な措置としてコメントアウトいたしました。一応説明いたしますと、「今川義元武田信玄里見義堯に敗れ、梁田晴助簗田晴助?)に退けられる」といった逸話を含めた史実はそれぞれの出典中にありますが、それをもって出典中にない「苦戦の連続であった」とwikipediaの編集の際に論評を下してしまうことは、「独自研究・考察」であり、「Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」にあたります。該当部分の出典とするには「北条氏康の生涯は苦戦の連続であった」と研究者が北条氏康という人物について総括的に論評している必要があります。残り1点については、ただ今確認中ですので、そこに問題としている研究結果なり、論評が確認できない場合は除去させていただきます。--ジャムリン会話2013年1月16日 (水) 18:27 (UTC)[返信]
残りの出典にて確認できたり、確認できる別出典(今度こそページ番号掲示でお願いします。またこの場合は特に一次史料ではなく、二次資料でなければなりません。)がありましても、「Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)#導入部 」にあります「5・人物がどうして重要か(主な活躍を記載する)」から外れた異様なパターンの解説でありますので、これ以上、同じ内容や類似した内容の記述を編集された場合は、「Wikipedia:コメント依頼」で他の方の意見を問うつもりでおります。これは他のアカウント・ユーザーの方が編集された場合も同様にいたします。--ジャムリン会話2013年1月16日 (水) 18:27 (UTC)[返信]
また「生野山の戦い」におけるバトルテンプレートの勝敗記述につきましても、「戦略的勝利」「戦術的勝利」ともに出典のない独自研究として差し戻させていただきましたので、ご了承願います。上杉謙信を焦点にした研究と後北条氏を焦点にした研究ではまた別なのかも知れませんが、私が確認した最新の出典では後北条氏にとってのこの戦いは、この時点での松山城の攻略よりも北条氏邦の支配域(藤田氏の領域)の奪還が目的であり、そのために上杉軍を武蔵から追い出すことに主軸を置いていたようですので、後北条氏にとっても「戦略的勝利」ではあります。今のところ、そのことについて編集するつもりはありませんが、他の方の編集の内容次第では、中立的観点からも、そのことについて加筆する準備はあります。もともと記事自体が「Wikipedia:信頼できる情報源」で非推奨の一次史料によったものでしたので、{{一次資料}}でwikipediaのガイドラインに添った出典掲示編集の呼びかけをいたしましので、ご協力いただければ幸いです。--ジャムリン会話2013年1月16日 (水) 18:27 (UTC)[返信]