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利用者:あるふぁるふぁ/サンドボックス5

益田事件(ますだじけん)は、1949年昭和24年)1月25日から1月26日にかけて島根県美濃郡益田町(現在の益田市)で発生した在日朝鮮人による騒擾事件である。島根軍政部将校等が令状なしに密輸物資を捜索・摘発しようとしたことにはじまる「ヤミ物資摘発事件」と、それに対する抗議行動から警察官との乱闘に発展した「益田署事件」からなる。騒擾罪並びに建造物侵入罪で8名が有罪判決を受けた一方で、自治体警察の弱体ぶりも明らかとなって後の益田町警察廃止の遠因となるとともに、裁判の過程での対立から島根県下の朝鮮人組織の分裂をもたらした。

概要

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島根県美濃郡益田町(現在の益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

背景

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在日朝鮮人

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太平洋戦争の戦時体制下、国家総動員法国民徴用令が公布されると、労務動員計画に基づいて朝鮮から大量の朝鮮人労働者が徴用されて内地の土木工事や鉱山での作業に従事させられることになった。島根県内でも、簸川郡鰐淵村(平田町・平田市を経て現在は出雲市の一部)の鰐淵鉱山、仁多郡温泉村大原郡雲南木次町・大原郡木次町を経て現在は雲南市の一部)の新北原発電所工事現場、美濃郡匹見下村(匹見村・匹見町を経て現在は益田市の一部)の澄川発電所工事現場、美濃郡都茂村(美都村・美都町を経て現在は益田市の一部)の都茂鉱山などに動員され、終戦時には島根県内に約4万人の在日朝鮮人がいたとされる。終戦により解放された朝鮮人の多くは帰国したものの、事件当時の島根県には約5,500人、益田町内には約700人の朝鮮人が在留していた。

在日朝鮮人は、終戦後曖昧な立場に置かれた。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1945年(昭和20年)11月の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」において在日朝鮮人を「解放民族」と規定したが、その後の扱いは必ずしも一定ではなく、場面ごとに日本人・外国人としての立場を便宜的に使い分けられた。不安定な法的立場に置かれ、日本政府からも進駐軍からも生活の保障を得られない状況の中で、在日朝鮮人の中には生活のために闇市密貿易に関わる者もいた。そして闇市において密造酒は魅力的な商品であった。

こうした中、日本に在留していた朝鮮人は、1945年(昭和20年)10月15日在日本朝鮮人聯盟(朝聯)を結成して帰国者の支援と在留者の生活安定を図った。島根県においても遅くとも同年11月には朝聯島根県本部が設立されており、当初は益田町高津に本部事務所が置かれたが、後に益田駅前に移り、1946年(昭和21年)2月には松江市雑賀町に移転した。全国的には日本共産党をはじめとした左派の主導を嫌った勢力によって1946年(昭和21年)10月3日在日本朝鮮居留民団が分裂したが、当初は朝聯とは比べものにならないほどの小勢力にとどまり、事件当時の島根県においては朝聯島根県本部が唯一の朝鮮人組織であった。

朝聯は、強制連行された朝鮮人の不払い賃金支払いや帰国者の支援などを行う一方で、戦勝国民として扱われることを望み日本政府に対する納税拒否や日本政府による刑事裁判権を否定するなどした。これらに対してGHQは早い段階で在日朝鮮人に対する刑事裁判権行使を日本政府に認め、日本共産党と密接な関係にある朝聯に対する監視・規制を強めていった。1948年(昭和23年)に入ると、朝聯に対してさらに厳しい態度で臨むようになった。1月には文部省から朝鮮人学校取締方針が示され、9月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が創建されると翌10月には北朝鮮国旗の掲揚禁止が通達された。これらに対して朝鮮人側は激しく反発し、大阪府兵庫県での阪神教育事件宮城県での評定河原事件山口県での宇部事件などで治安当局と衝突した。また、密造酒や密輸物資の摘発が強化されると、朝聯は生活擁護を掲げて各地で組織的な抵抗を行うようになっていた。

益田町警察

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1947年(昭和22年)12月17日に警察の地方分権と管理・運営の民主化を図る警察法が成立すると、市と人口5,000人以上の町村には自治体警察が設置されることとなり、従来の島根県警察部は解体されて益田町には「益田町警察」が設置されることになった。翌1948年(昭和23年)2月1日から準備期間に入り、同年3月7日に正式に発足した。庁舎は益田町を除く美濃郡を管轄した国家地方警察美濃地区署と同じ建物におかれ、職員の定員は、警察長以下、警部補1名、巡査部長2名、巡査25名、その他職員6名の計35名であった。

しかし、自治体警察の経費は各自治体が負担することとされたことから各自治体財政を圧迫することとなった。また、自治体警察と国家地方警察、自治体警察間の横のつながりが不十分であったことから警察としての責任を果たせない事案も頻発し、新しい警察行政批判の世論が次第に強まっていった。益田町においても益田町警察が設置された1948年(昭和23年)の12月議会で「民主警察の再建」「警察行政の公正化」などが議題に上り、一時、警察長の罷免要求まで出される状態であった。

経過

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ヤミ物資摘発事件

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1月25日の捜索

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1月26日の捜索

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益田署事件

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検挙および裁判

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影響

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在日朝鮮人組織の分裂

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1949年(昭和24年)3月18日に松江地方裁判所で行われた第2回公判に出廷した在日朝鮮人の証人に対して、被告側に不利な嘘の証言をして朝聯の名誉を傷つけたとして、査問のために朝聯美鹿支部に連れ込んで暴行・傷害を加える事件が発生した。以前から朝聯に批判的であった証人は、直ちに益田町警察署に朝聯を告訴し、他県の在日本大韓民国居留民団(在日本朝鮮居留民団から1948年に改称)の支援を得て民団島根県本部の結成準備を進めていった。

新聞報道によれば、1949年(昭和24年)9月8日の朝聯解散後の1950年(昭和25年)5月26日に松江市で民団出雲部の結成大会を開いていることが確認できる。民団島根県本部の結成年月日は詳らかではないが、翌1951年(昭和26年)5月5日には民団島根県本部の臨時全体大会を開催して役員改選と県本部を松江市に置くことを決議していることから、少なくともそれ以前には結成されている。これによって、島根県下の朝鮮人組織は分裂することとなった。

益田町警察署の廃止

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益田事件の対応にあたった警察官は270名にのぼり、国家地方警察・自治体警察を合わせた県下の警察官の約1/3が動員された。この事件への対応で益田町警察は年間警察費予算の1/4を費消するとともに、自治体警察権の弱体ぶりが白日の下にさらされることになった。

事件の2年後の1951年(昭和26年)6月に警察法が改正され、住民投票によって自治体警察を廃止することができるようになると、益田町は同年7月5日に臨時議会を召集して住民投票の実施を圧倒的多数(24対5)で決定。8月10日に実施した住民投票でも賛成4,200票、反対1,134票(無効113票)となり、島根県内で最初に廃止を決定した。

脚注

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参考文献

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  • 岡崎勝彦 「「益田事件」について(続)-在日朝鮮人運動とGHQ地方軍政チームとの関りに即して」『経済科学論集』15号、島根大学法文学部法経学科編、島根大学法文学部、1989年、43-98頁。
  • 笹本征男 「益田事件-私的なノート[1]」『東西南北 別冊1-地域社会における在日朝鮮人とGHQ』(和光大学総合文化研究所年報) 和光大学総合文化研究所、2000年、56-72頁。
  • ロバート・リケット 「占領期における地域社会と在日朝鮮人-地方史から見えてくるもの」『東西南北 別冊1-地域社会における在日朝鮮人とGHQ』(和光大学総合文化研究所年報) 和光大学総合文化研究所、2000年、4-15頁。
  • 内藤正中 『日本海地域の在日朝鮮人-在日朝鮮人の地域研究』 多賀出版、1989年。
  • 島根県警察史編さん委員会編 『島根県警察史』昭和編 島根県警察本部、1984年。
  • 益田市誌編纂委員会編 『益田市誌』下巻 益田市、1978年。
  • 島根県総務部国際課 『もう一つの国際化-在日韓国・朝鮮人問題をご存知ですか?』 島根県、1998年。

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