利用者:この字/sandbox
架空戦国武将を作りたい
[編集]時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正6年(1510年) |
死没 | 永禄10年(1563年10月15日) |
改名 | 信高→高佐(法名) |
別名 | 丹波守 紀伊守 |
墓所 |
高野山奥之院 高山寺 熊野速玉神社 |
官位 | 従五位下 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 細川高国、稙国→畠山稙長、政国、高政 |
氏族 | 大槻氏 |
父母 | 父:大槻筑前守 母:不明 |
子 | 養子:高良 |
大槻信高(おおつき のぶたか)は、戦国時代の武将。細川氏、畠山氏の家臣。
細川高国の近臣として各地を転々し、大物崩れ後は高国遺児の細川稙国に仕えた。その後畠山稙長に仕えたが、木沢長政の手によって稙長が紀伊に追放されると信高は紀伊国内の勢力拡大に努める。紀伊統一後、畿内へ進出し宿敵の細川晴元を破り、南紀及び河内、大和を支配した。
生涯
[編集]細川高国に仕える
[編集]永正6年(1510年)、丹波国で誕生。父の筑前守は丹波における細川高国の配下として名が見られる。信高が初めて史料に現れるのは大永5年(1526年)、16歳の頃だった。同年に高国は家臣の香西元盛を殺害し元盛の兄弟である波多野元清、柳本賢治が丹波で挙兵した。さらにこの挙兵に呼応した阿波の細川晴元の軍が摂津に上陸した。翌大永6年(1527年)2月、桂川の戦いに敗北した高国は京から逃亡し信高も付き従う。同年10月、越前朝倉氏の援軍を受け高国は京に進出。信高は柳本賢治と三好元長の離間に成功している。しかし戦況は長期戦になり享禄元年(1528年)2月、朝倉軍が帰国したことで高国は伊勢の北畠氏を頼った。その後若狭武田氏、尼子氏、浦上氏を流浪し、浦上村宗の支援で享禄3年(1531年)摂津に侵攻したが同年6月、天王寺の戦いによって総崩れになって、高国は大物にて自刃した。信高は丹波へ落ち延び、高国の遺児である細川稙国に仕え細川晴元勢力と戦う。
高国勢力として
[編集]信高は稙国に仕え、丹波国内の支配を進め再起を図った。香西元盛の殺害以降、晴元勢力として活動していた波多野元清の調略に成功した。晴元勢力は高国亡き後の内部抗争や一向一揆が多発し信高はその間、京にも一部支配を広げた。天文2年(1533年)6月には高雄で晴元重臣の薬師寺国長を討ち取る戦果を挙げた。しかし摂津方面は晴元方の巻き返しによって、協力していた本願寺が晴元と和睦し、信高は京から撤退した。またこの活躍は稙国との対立、信高の畠山稙長に仕える原因となった。翌天文3年(1534年)7月、晴元勢力の木沢長政と手を組んだ畠山家重臣遊佐長教が稙長を河内から追放し、高国勢力の稙長を中心に追放された。稙長に付き従い、紀伊に下向した信高は同地で勢力拡大、高国勢力の巻き返しを図った。 紀伊は寺社勢力(根来寺、高野山、熊野三山)と在地勢力(湯川氏、玉置氏、山本氏など)が強く、幕府守護の畠山家は国内で限定的だった。 信高は内政を新たに登用した熊野信吉や吐田兵武に任せ、自身は各勢力の切り崩し、外交を行った。熊野水軍と湯川光春の西牟婁郡をめぐる争いに介入し、熊野への影響を拡大し湯川光春や在地勢力は不満でこの仲介に抗議したが、それが有田川の戦いに発展した。
各勢力の粛清
[編集]天文4年(1535年)6月、有田川にて湯川光春、直光、玉置衆を討ち取り紀中の日高郡を短期間で制圧。さらに南下して7月中に田辺衣笠城に入城。8月に山本氏の居城龍神山城を落とし、西牟婁郡を制圧した。しばらく亀山城に留まり、熊野水軍とは熊野信吉を配置し根来寺には調略した根来妙算を置いた。稙長は大野城で国内の内政を仕切っており、傀儡ではなかった。