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遊佐長教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
遊佐 長教
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文20年5月5日1551年6月8日
別名 通称:新次郎、次郎左衛門尉[1]
官位 従五位下 河内守[2]
幕府 室町幕府 河内守護代
主君 畠山稙長長経晴熙晴満、稙長、政国
氏族 遊佐氏
父母 遊佐順盛[3]
兄弟 長教杉坊明算[4]
木沢長政縁者[5]日野内光[6][7]
信教[8]三好長慶継室(遊佐氏[9]筒井順昭[10](娘2人は養女とも[11]
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遊佐 長教(ゆざ ながのり[12])は、戦国時代武将尾州畠山氏の家臣。河内国守護代

出自

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遊佐氏出羽国飽海郡遊佐郷の発祥とみられ、藤原秀郷の末流とされる[13]鎌倉時代より畠山氏に仕えたと考えられ、南北朝時代には畠山国清執事伊豆越前の守護代を務めた遊佐国重がいる[12]

永徳2年(1382年)に畠山基国が河内守護に就任すると、遊佐国長(長護)が河内守護代となり、それ以来遊佐氏は代々河内守護代を務めてきた[14]畠山義就政長の対立が起きると遊佐氏も二派に分かれる[12]。長教はその内の政長流畠山氏(尾州家)に仕えた家の出である[15]。別流には義就流畠山氏(総州家)に仕えた家の他、能登畠山氏に仕えた遊佐氏や、陸奥二本松畠山氏に仕えた遊佐氏がいる[13]

生涯

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誕生

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畠山尚順に仕えた河内守護代・遊佐順盛の子として生まれる[3]

生年については不明だが、天文5年(1536年)に初めて本願寺に音信し、天文7年(1538年)には河内にある本願寺寺院の還住について、重臣と相談した後に返事をすると本願寺に伝えている[16]。このことから当時の長教は未熟とされる年齢と考えられ、小谷利明大永7年(1527年)まで活動の見える遊佐順盛[注釈 1]の晩年の子で、大永2年(1522年)生まれの三好長慶とほぼ同世代であるとしている[16]

長教と畠山氏家督

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畿内では天文元年(1532年)8月頃より細川晴元と本願寺の間で対立が始まっており、長教は細川晴元に味方していた[20]。しかし、長教の主君・畠山稙長は天文3年(1534年)1月に弟・基信を本願寺に入れるなど、旧細川晴国派と共に本願寺方として活動している[21]。これに対し、同年8月、長教は稙長の弟・長経を擁立[22]高屋城に戻れなくなった稙長は紀伊に在国することとなった[23]。長経の擁立については、義就流畠山氏の実権を握っていた木沢長政が関わったともされる[24]

長経は間もなく失脚し[25]、天文5年(1536年)5月には稙長の別の弟・晴熙が擁立されている[26]。晴熙は、翌天文6年(1537年)11月に死去する長教の妻が取り立てたといわれ(『天文日記』)、この妻は木沢長政の縁者と推測される[5]。しかし、晴熙の家督継承は幕府から認められなかったとみられ、天文7年(1538年)7月には畠山晴満(弥九郎)が屋形として高屋城に入り、政長流畠山氏の家督を継承した[27]

長教が支える政長流畠山氏と木沢長政の義就流畠山氏は、天文3年(1534年)の長経擁立以降、争った様子が見えず、和睦を図っていたとみられる[28]。天文7年(1538年)8月に晴満の家督継承が幕府に認められたことで、政長流当主の晴満と義就流の当主・畠山在氏の両者が河内の半国守護として並立する体制が成立することとなった[28]

稙長の復帰

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天文10年(1541年)、木沢長政が細川晴元と対立すると[29]、翌天文11年(1542年)3月8日、長教は木沢長政の弟・中務を婿とする斎藤山城守父子[注釈 2]と伊地知氏を殺害し[31]、紀伊にいる旧主・畠山稙長を迎え入れる態勢を整える[32]。3月9日に幕府から「御敵」とされた畠山晴満は、木沢氏の城へと入った[31]。3月17日、細川晴元の家臣である三好長慶政長の援軍を得た長教は、河内の太平寺(大阪府柏原市)で木沢長政の軍を破り[33]、長教の家臣・小島氏が長政を討ち取った(太平寺の戦い[32]。稙長が河内に復帰すると、長教は稙長の意を奉じて文書を発給する立場に戻っている[34]。天文13年(1544年)3月13日、長教は稙長の下で従五位下河内守に補任され[2]、同年8月25日[6]、畠山尚順の娘と日野内光の間に生まれた稙長の姪と婚姻している[6][7]

高屋城に復帰した稙長は、天文12年(1543年)7月に挙兵した細川氏綱を支援していたが、天文14年(1545年)5月に死去した[35]。この時、稙長の後継者が分家の能登守護家当主・畠山義総の子に定められることになったが、同年7月の義総の死により流れることになったという[36][37]。この義総の子は、同年3月に「代替」(家督継承)と一字拝領への礼として幕府に太刀や馬を献上している畠山四郎(晴俊)[38]であると考えられ、稙長存命中の家督変更は細川晴元政権の意向によるとみられる[37]。長教や畠山氏内衆が晴元政権の干渉を退けようとしたため、四郎は高屋城に入ることができず、長教は稙長の弟の政国を畠山氏の当主として擁立した[37]。なお、政国は晴元政権から家督相続を認められなかったため、「惣領名代」と称されている[37]

細川晴元との戦い

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天文15年(1546年)8月、長教は細川氏綱を擁して挙兵した[39]。長教らは初めにを攻め、9月には摂津芥川城を落城させた[39]。10月になると、三好実休率いる[40]阿波の軍勢が畿内に上陸し[41]、長教が落とした摂津の諸城を攻め始める[39]。この年の12月20日、長教は政国の名代として将軍足利義輝(当時は義藤)の将軍宣下の儀式に参列した[42]。これについては、細川氏綱の意向を受けて足利義晴・義輝父子との関係構築を図ったとの見方がある[42]

天文16年(1547年)7月、舎利寺の戦いで長教らは敗れ[43]、翌天文17年(1548年)4月まで高屋城を包囲された後、晴元方と和睦した[39]。その後、長教は三好長慶と同盟を結び、娘(養女か)を長慶に嫁がせる[44]。天文18年(1549年)6月、長教は晴元方から氏綱方に転じた三好長慶と共に江口の戦いで晴元方を破り[45]、細川晴元政権を崩壊させた[46]。この戦いの結果、将軍・足利義輝は細川晴元と共に近江に逃れており、将軍と敵対する長教との方針の違いのためか、長教の主君・畠山政国は紀伊に遁世した[47]

死去

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天文20年(1551年)5月5日、長教は高屋城内で暗殺された[39]。下手人は『興福寺大般若経(良尊一筆経)奥書』によると京都六条道場の法師で[39]、『長享年後畿内兵乱記』には敵に買収された時宗の僧の珠阿弥とある[48]。この後、長教の死は100日間秘匿された(『天文日記』)[49]

長教の死後、遊佐氏の被官である萱振賢継安見宗房の間で対立が生じ、三好長慶が両者の婚姻をまとめたものの、天文21年(1552年)2月に安見宗房が萱振氏らを粛清している[50]。これに伴い、長慶は萱振賢継が擁立を図っていた長教の弟(杉坊明算[51])を殺害し、長教の後継者の地位には安見宗房が推す遊佐太藤が就いた[52]

主な家臣

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この他、河内国高安郡恩智(八尾市恩智[63])を本拠とする恩智氏や、和泉国出身とみられる草部氏・菱木氏・中小路氏・行松氏らが長教の内衆・被官として確認できる[64]

脚注

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注釈

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  1. ^ 順盛は永正8年(1511年)の船岡山合戦で討死したともされるが[17]、その時死亡した「遊佐河内入道印叟」(「不問物語」永正8年8月24日条)は畠山義英(総州家)方の守護代の遊佐就盛(印叟宗盛)である[18]。『臨済宗法語集』(内閣文庫所蔵)には、禅僧の梅屋宗香が天文12年6月18日に河内国の藤原長教が先考(父親)である「前河内太守仙叟覚公禅定公」の13回忌を行った際に詠んだ漢詩が収められている。遊佐氏が藤原氏を称し、順盛が河内守を称したことがあることから、これは遊佐長教が実施した父・順盛の13回忌法要を実施した時に詠まれたものと考えられ、逆算すると順盛は享禄4年(1531年)6月頃に亡くなったことになる。順盛の死が同年6月4日に発生した大物崩れと関連するのか、それとも全くの偶然の出来事かは不明であるが、彼の死が畿内情勢に少なからぬ影響を与えたと推測される[19]
  2. ^ または、斎藤山城守の息子が木沢中務の娘を娶って、中務の婿になっていたとされる[30]

出典

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  1. ^ 弓倉 2006, p. 236; 天野 2023, p. 366.
  2. ^ a b 弓倉 2006, p. 236; 天野 2023, p. 372.
  3. ^ a b 天野 2023, p. 365.
  4. ^ 天野 2020, p. 51; 天野 2022, p. 362; 天野 2023, p. 370.
  5. ^ a b 天野 2023, p. 368.
  6. ^ a b c 小谷利明「畿内戦国期守護と室町幕府」『日本史研究』第510号、2005年。doi:10.11501/13007229 
  7. ^ a b 天野 2023, p. 372.
  8. ^ a b 天野 2023, p. 373.
  9. ^ 天野 2020, p. 58; 天野 2023, pp. 206, 374.
  10. ^ 天野 2020, p. 51; 天野 2022, p. 353.
  11. ^ 天野 2020, pp. 51, 58; 天野 2022, p. 353; 天野 2023, pp. 206, 374.
  12. ^ a b c 天野 2023, p. 364.
  13. ^ a b 太田亮姓氏家系大辞典第三巻・ナ―ワ』姓氏家系大辞典刊行会、1936年、6411–6413頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1131019/1174 
  14. ^ 今谷明「室町時代の河内守護」『守護領国支配機構の研究』法政大学出版局〈叢書・歴史学研究〉、1986年。 
  15. ^ 天野 2023, pp. 364–365.
  16. ^ a b 天野 2023, pp. 366–367.
  17. ^ 遊佐順盛」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E9%81%8A%E4%BD%90%E9%A0%86%E7%9B%9Bコトバンクより2023年3月2日閲覧 
  18. ^ 馬部隆弘『戦国期細川権力の研究』吉川弘文館、2018年、348頁。ISBN 978-4-642-02950-6 初出:畠山家における奉書の展開と木沢家の出自」『大阪大谷大学歴史文化研究』第17号、2017年http://id.nii.ac.jp/1200/00000298/ 
  19. ^ 畑和良「河内守護代遊佐順盛の没年」『戦国史研究』第86号、2023年9月、P32-33.
  20. ^ 小谷 2004, pp. 64–65.
  21. ^ 小谷 2004, pp. 64, 67, 82; 弓倉 2006, p. 310.
  22. ^ 小谷 2004, p. 64; 弓倉 2006, pp. 47, 315.
  23. ^ 弓倉 2006, p. 47.
  24. ^ 弓倉 2006, pp. 314–315.
  25. ^ 弓倉 2006, pp. 309–313.
  26. ^ 弓倉 2006, pp. 255–259.
  27. ^ 弓倉 2006, pp. 313–314.
  28. ^ a b 弓倉 2006, pp. 314–316.
  29. ^ 天野 2014, pp. 40–42.
  30. ^ a b 天野 2023, p. 370.
  31. ^ a b c 小谷利明 著「鷹山家文書に見える河内守護畠山氏―鷹山弘頼を中心に―」、生駒市教育委員会 編『興福院所蔵 鷹山家文書調査報告書』生駒市教育委員会〈生駒市文化財調査報告書 第38集〉、2020年、186–187頁。全国書誌番号:23381716 
  32. ^ a b c 天野 2014, p. 42.
  33. ^ 天野 2014, p. 42; 天野 2022, p. 328.
  34. ^ 弓倉 2006, pp. 234–237.
  35. ^ 天野 2023, pp. 372–373.
  36. ^ 「天文十四年日記(兼右卿記)」。
  37. ^ a b c d 弓倉 2006, pp. 238–243.
  38. ^ 「天文十四年日記」天文14年3月13日条。
  39. ^ a b c d e f 天野 2023, p. 374.
  40. ^ 天野 2014, p. 47.
  41. ^ 天野 2014, p. 47; 天野 2023, p. 374.
  42. ^ a b 木下昌規 著「戦国期足利将軍家の任官と天皇―足利義晴の譲位と右大将任官を中心に―」、木下昌規 編『足利義晴』戎光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究 第三巻〉、2017年。ISBN 978-4-86403-253-7 初出:『日本歴史』第793号、2014年。 
  43. ^ 天野 2023, pp. 135, 374.
  44. ^ 天野 2020, p. 58; 天野 2023, pp. 194, 374.
  45. ^ 天野 2023, pp. 194–195, 374.
  46. ^ 弓倉 2006, p. 326; 天野 2023, p. 376.
  47. ^ 弓倉 2006, pp. 326–328.
  48. ^ 天野 2014, p. 61.
  49. ^ 弓倉 2006, p. 333; 天野 2014, p. 61.
  50. ^ 小谷 2003, pp. 132–133; 小谷 2015, p. 321; 天野 2020, pp. 59–60.
  51. ^ 天野 2020, p. 60.
  52. ^ 小谷 2003, pp. 132–133; 小谷 2015, p. 321.
  53. ^ a b 天野 2023, p. 367.
  54. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 970–971.
  55. ^ a b 弓倉 2006, p. 330.
  56. ^ 弓倉 2006, p. 333; 小谷 2015, 史料29.
  57. ^ 弓倉 2006, p. 333.
  58. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, pp. 337–338.
  59. ^ 小谷 2003, p. 295; 小谷 2015, p. 321.
  60. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 29 奈良県』角川書店、1990年、662–663頁。ISBN 4-04-001290-9 
  61. ^ a b c 弓倉 2006, pp. 331–332.
  62. ^ 天野 2023, pp. 378–381.
  63. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1983, p. 278.
  64. ^ 弓倉 2006, pp. 329–330.

参考文献

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  • 天野忠幸『三好長慶』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年。ISBN 978-4-623-07072-5 
  • 天野忠幸『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』吉川弘文館〈列島の戦国史4〉、2020年。ISBN 978-4-642-06851-2 
  • 天野忠幸 編『戦国武将列伝7 畿内編 上』戎光祥出版、2022年。ISBN 978-4-86403-446-3 
    • 山下真理子「木沢長政―畠山・細川に両属する畿内のジョーカー」(320–330頁)
    • 金松誠「筒井順興・順昭―官符衆徒の一員から大和最大の国人へ」(341–359頁)
    • 廣田浩治「杉坊明算・照算―軍事を担った根来寺の院家」(360–369頁)
  • 天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編 下』戎光祥出版、2023年。ISBN 978-4-86403-447-0 
    • 古野貢「細川晴元―澄元の後継者にして高国のライバル」(128–137頁)
    • 天野忠幸「三好長慶―足利将軍を擁さない畿内の"覇者"」(191–204頁)
    • 小谷利明「遊佐長教―三好長慶を天下に向かわせた舅」(364–375頁)
    • 弓倉弘年「安見宗房―河内交野を領した政長流畠山氏の有力内衆」(376–386頁)
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川書店、1983年。全国書誌番号:83052043 
  • 小谷利明『畿内戦国期守護と地域社会』清文堂出版、2003年。ISBN 4-7924-0534-3 
  • 小谷利明 著「畠山稙長の動向―永正〜天文期の畿内―」、矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』高志書院、2004年。ISBN 4-906641-80-6 
  • 小谷利明 著「文献史料からみた私部城」、交野市教育委員会 編『私部城跡発掘調査報告』交野市教育委員会、2015年。doi:10.24484/sitereports.17362 
  • 弓倉弘年『中世後期畿内近国守護の研究』清文堂出版、2006年。ISBN 4-7924-0616-1 

関連項目

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