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筒井順昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
筒井順昭
時代 戦国時代
生誕 大永3年(1523年
死没 天文19年6月20日1550年8月2日
改名 藤松[1]、順昭
別名 栄舜坊
墓所 圓證寺
氏族 筒井氏
父母 父:筒井順興
兄弟 順昭、順政慈明寺順国福住順弘
大方殿[注釈 1]遊佐長教娘(養女?)[3]
順慶井戸良弘室、慈明寺順国室、福住順弘室、
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筒井 順昭(つつい じゅんしょう)は、戦国時代大和国大名筒井順興の嫡男。筒井順慶の父。興福寺官符衆徒で、筒井城を居城とした。

生涯

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大永3年(1523年)、順興の子として誕生。天文4年(1535年)7月、父の死にともない家督を継ぎ[4]、天文7年(1538年)に得度(元服)した[5]

順昭が家督を継いだ当時、大和は木沢長政の支配下にあったが、天文11年(1542年)3月、太平寺の戦いで長政は戦死する[6]。順昭は長政を討った河内守護畠山稙長に与し、同年9月、長政方の飯盛山城へと出陣している[7]

天文12年(1543年)4月、順昭は6000騎の軍勢を率いて東山内(ひがしさんない、大和高原[8])の簀川氏を攻め、須川城を落城させた[9]。さらに、順昭は古市氏を攻めて古市城を奪うが、城は古市方の手により焼け落ちた[10]。翌天文13年(1544年)7月には、東山内の柳生城を攻め落とした[11][12]。このとき順昭が率いたのは、十市氏の300や鷹山弘頼の指揮する河内勢300[13]などからなる1万の軍勢だったという[14]

天文15年(1546年)8月の細川晴元細川氏綱の争いでは畠山政国遊佐長教とともに氏綱に味方し、順昭は一時竜田(生駒郡斑鳩町)へと出陣した[15]

同年9月、越智氏を攻めて、翌10月に貝吹山城を落城させる[16]。これにより、順昭は「一国悉以帰伏了」といわれ(『多聞院日記』)[17]、東山内と国中(くんなか、大和盆地[18])周辺の統一を果たした[19]。また、9月には十市氏より城(十市城か)を明け渡され[20]、天文16年(1547年)5月には箸尾氏の城を破却しており[20]筒井氏の最盛期を築くこととなった[21]

しかし、天文18年(1549年)4月、順昭は数名の供のみを連れて比叡山に入り[22]、生まれたばかりの嫡男・藤勝(順慶)へと家督を譲る[23]。順昭は、天文15年(1546年)に「もがさ」(天然痘か)を患っていたとみられており[22]、天文19年(1550年)6月20日に死去した[24]。享年28[25]

この後、幼少の順慶は、一族の福住宗職[26]や順昭の弟の筒井順政が後見していくことになる[27]

なお、順昭の供養塔である五輪塔(重要文化財)が、奈良県生駒市圓證寺にある[28]

元の木阿弥

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順昭は死の間際に一族や重臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに、自分に容姿(または声[29])の似た奈良の盲目の法師・黙阿弥木阿弥[29])を身代わりに立てるよう遺言した[30]。黙阿弥は順昭が最期を迎えた奈良の下屋敷で約1年間過ごし、一周忌を迎え順昭の死が公表されると恩賞を受け取り元の法師・黙阿弥に戻ったとされ、これが「元の黙阿弥(木阿弥[29])」の語源といわれる[30]。また、元の木阿弥の由来については他にも諸説ある[29][31]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 日野大納言資定の娘とする説(『寛政重修諸家譜』)、山田順貞の妹とする説(『系図纂要』)、山田道安の妹とする説(『奈良坊目拙解』)があるが真相は不明[2]
  2. ^ a b c d e f g 順政以外の兄弟姉妹は『和州諸将軍伝』に基づいており、信憑性の高い史料からは判明しない[32]
  3. ^ a b c d e 『和州諸将軍伝』による[32]。また順慶以外の子は妾腹とされる[32]

出典

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  1. ^ 朝倉 1993, pp. 425–426; 金松 2019, p. 16.
  2. ^ 金松 2019, p. 18.
  3. ^ 天野忠幸『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』吉川弘文館〈列島の戦国史4〉、2020年、51頁。ISBN 978-4-642-06851-2 
  4. ^ 朝倉 1993, pp. 425–426.
  5. ^ 朝倉 1993, p. 426.
  6. ^ 朝倉 1993, p. 212; 金松 2019, p. 16.
  7. ^ 朝倉 1993, p. 213.
  8. ^ 金松 2019, p. 14.
  9. ^ 朝倉 1993, p. 214; 金松 2019, p. 16; 籔 1989, pp. 133–134.
  10. ^ 朝倉 1993, pp. 214–215; 金松 2019, p. 17.
  11. ^ 朝倉 1993, p. 216; 金松 2019, p. 17; 籔 1989, pp. 209–211.
  12. ^ 『多聞院日記』天文13年7月27日条、28日条、29日条(『多聞院日記 第1巻(巻1至11)』三教書院、1935年、355–356頁)。
  13. ^ 小谷利明 著「文献史料からみた私部城」、交野市教育委員会 編『私部城跡発掘調査報告』交野市教育委員会、2015年、320頁。doi:10.24484/sitereports.17362 
  14. ^ 籔 1989, p. 210.
  15. ^ 朝倉 1993, p. 216.
  16. ^ 朝倉 1993, pp. 216–217; 金松 2019, p. 17; 籔 1989, pp. 88–90.
  17. ^ 朝倉 1993, pp. 217, 426.
  18. ^ 金松 2019, p. 12.
  19. ^ 金松 2019, p. 17.
  20. ^ a b 朝倉 1993, p. 217; 金松 2019, p. 17.
  21. ^ 朝倉 1993, p. 426; 金松 2019, p. 17.
  22. ^ a b 朝倉 1993, pp. 218, 426; 金松 2019, p. 18.
  23. ^ 朝倉 1993, pp. 218, 426; 金松 2019, p. 19.
  24. ^ 朝倉 1993, p. 218; 金松 2019, p. 19.
  25. ^ 金松 2019, p. 19.
  26. ^ 朝倉 1993, p. 437; 金松 2019, p. 19.
  27. ^ 朝倉 1993, p. 427; 金松 2019, p. 23.
  28. ^ 圓證寺”. 生駒市デジタルミュージアム. 生駒市. 2021年9月15日閲覧。
  29. ^ a b c d 元の木阿弥」『ことわざを知る辞典』https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%98%BF%E5%BC%A5コトバンクより2022年2月7日閲覧 
  30. ^ a b 籔 1985, pp. 44–45.
  31. ^ 元の木阿弥」『世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E3%81%AE%E6%9C%A8%E9%98%BF%E5%BC%A5コトバンクより2022年2月7日閲覧 
  32. ^ a b c 朝倉弘 著「筒井氏」、山本大; 小和田哲男 編『戦国大名系譜人名事典 西国編』新人物往来社、1986年、204-205頁。ISBN 4-404-01316-7 
  33. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千九十四(『寛政重脩諸家譜 第6輯』國民圖書、1923、685頁)。
  34. ^ 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、63頁。ISBN 978-4-642-01457-1 

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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