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利用者:さぱしあ

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013122900037

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013122900029 命山いのちやま)とは、津波高潮など自然災害時の避難施設として人工的に造成された小山。東北地方太平洋沖地震東日本大震災)を契機として静岡県を中心に整備が進められている。

歴史

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江戸時代

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延宝8年(1680年8月6日東海地方台風が襲来し、江戸時代最大規模とも言われる大きな被害が発生した。

遠州(現在の静岡県西部)でも、沿岸部で高潮が発生し、多くの田畑が塩水に浸かり人馬に被害がでた。『百姓伝記』によると、午前5時頃から風が強くなり、10時頃から汐が押し寄せ横須賀城の中土井で止まり、城から西、南西の村々が海水に浸かった。中でも東同笠村、西同笠村、大野新田、中新田、今沢新田(いずれも現在の袋井市沿岸部、国道150号線沿いの地区)で300人余が死んだ」と記されている。現在は干拓により田が広がっているものの、当時この周辺には内陸まで広がる潟湖に隣接した低湿地であり、高潮被害が発生しやすい地形だった。

『横須賀根元歴代明鑑』には「中新田村の命山と云うは先年中の年大汐の後築立候地也」とあり、この台風災害の後に中新田地区に命山が築かれたことがわかる。中新田村の隣村である大野地区でも同時期に命山が造成されたとみられる。『横須賀根元歴代明鑑』には後年の高潮災害時に人々が避難し、船で横須賀から物資を輸送したとの記述があり、命山の頂上部に船が常備されていた可能性もある。

「大野命山」は南北32m、東西24m、高さ3.5mの長方形、頂上平地面積が136m2で土量は1500m3である。「中新田命山」は南北30.5m、東西27m、高さ5.0mで頂上平地面積が68m3、土量2200m3、いずれも地区の神社総代が現在に至るまで管理を行っている。両者ともに静岡県指定文化財に指定されている[1]

宮城県名取市閖上地区の中心部には、人工的に造成されたとみられる高さ8mの日和山がある。平成23年(2011年)に発生した東北地方太平洋沖地震においては高さ10m以上とみられる津波がこの地区を襲ったため避難施設としては機能しなかった[2]

現代

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東北地方太平洋沖地震によって発生した津波により、従来から危険性が指摘されていた三陸海岸のみならず岩沼市など阿武隈川河口付近のなだらかな海岸線でも大きな被害が発生した。

津波対策としては、防潮堤の建設、補修、津波タワーの建設などが行われてきた。津波タワーは耐用年数が50年程度と比較的短く、建設費に対して収容人員が限られ、また景観上の問題もある。それに対して人工の小山を造成してつくる命山は耐用年数が長く、多くの市民を収容でき、普段は公園としての利用も可能である利点がある。

袋井市では、遠州灘から1kmほどを平行してはしる国道150号沿いに、集落に隣接する避難施設として一箇所の津波タワーとともに四箇所の命山を建設した。一つ目の「湊東地区命山」は平成25年12月に完成し1300人の収容が可能である。同県湖西市においても、同市新居町の寺から土地の寄付を受け、この急傾斜地の上部を削り取り、その土砂で2つの命山を造成する津波対策事業を計画している[3]

名取市では、東日本大震災においては機能しなかった日和山の西側、貞山堀の東方に高さ15mの築山を建設することを決めている。

徳島県小松島市は2016年に同市和田島町松田新田に高さ5.5mの命山を建設した。頂上部に約920人、スロープを合わせると隣接するニュータウンの住民2100人を全員収容できる[4]

参照

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  1. ^ パンフレット「袋井の命山」、袋井市
  2. ^ 浪分けの論理 続編 〜文化論としての震災への対処〜、小林健彦、新潟産業大学経済学部紀要、2016年2月
  3. ^ 急傾斜地削り命山 静岡県と湖西市、整備へ、静岡新聞、2015/8/19 07:42
  4. ^ 「命山」が小松島に完成 西日本初、津波避難の人工高台、徳島新聞、2016/6/11 09:34

外部リンク

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「真崎は、中国大陸戦線の拡大を通して、ついに太平洋戦争にまで突入することになった一連の戦争勢力(あるいは南進論と呼ぶこともできる)にとっての最大にして最後の障害物として排除されたものである」という仮説。