横須賀城
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横須賀城 (静岡県) | |
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別名 | 松尾城、両頭城 |
城郭構造 | 平城 |
天守構造 | 不明、3重4階(1578年築) 4重4階 構造は半分が土塁の上、半分が下にある特殊な構造だったと予想される |
築城主 | 大須賀康高 |
築城年 | 天正6年(1578年) |
主な城主 | 大須賀氏、渡瀬繁詮、大須賀氏、西尾家、他 |
廃城年 | 明治元年(1868年) |
遺構 | 石垣、曲輪、水堀、移築櫓他 |
指定文化財 | 国の史跡 |
位置 | 北緯34度41分8.46秒 東経137度58分17.64秒 / 北緯34.6856833度 東経137.9715667度 |
地図 |
横須賀城(よこすかじょう)は、遠江国城東郡横須賀(静岡県掛川市西大渕)に戦国時代から江戸時代にあった日本の城(平城)。国の史跡。
概要
[編集]天正6年(1578年)、武田家の高天神城を締め付ける付城群の中核として、徳川家康が大須賀康高に命じて築いた城郭である。大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎える。
西尾家歴代の藩主のなかで忠尚は名君の誉れ高く、若年寄を務め5千石加増され、都合3万5千石になり、老中も務めている[1]。
城郭の特徴
[編集]横須賀城の特徴は他に類を見ない、天竜川より運ばれた玉石垣を用いた築城法である。天守閣は四層四階であった[2]。宝永地震のため湊が隆起してしまい、用水路を作ってしのいだ[3]。
遺構
[編集]石垣、堀、土塁などが残り、現在公園として整備されている。国の史跡に指定されている[4]。また、不開門が城跡の北西にある撰要寺に、町番所が市役所大須賀支所北側に、それぞれ移築され現存している[1][2]。これらのうち、横須賀城のしゃち瓦と鬼瓦は、掛川市文化財に指定されており、恩高寺に残されている。[5]。このほか、袋井市の油山寺には旧御殿の一部が移築されている。
歴代城主
[編集]- 大須賀康高(1580年 - 1588年)
- 大須賀忠政(1588年 - 1590年)
- 渡瀬繁詮(1590年 - 1595年)
- 有馬豊氏(1595年 - 1600年)
- 大須賀忠政(1601年 - 1607年)
- 大須賀忠次(1607年 - 1615年)
- 徳川頼宣(1615年 - 1619年)
- 松平重勝(1619年 - 1620年)
- 松平重忠(1621年 - 1622年)
- 井上正就(1622年 - 1628年)
- 井上正利(1628年 - 1645年)
- 本多利長(1645年 - 1682年)
- 西尾忠成(1682年 - 1713年)
- 西尾忠尚(1713年 - 1760年)
- 西尾忠需(1760年 - 1782年)
- 西尾忠移(1782年 - 1801年)
- 西尾忠善(1801年 - 1829年)
- 西尾忠固(1829年 - 1843年)
- 西尾忠受(1843年 - 1861年)
- 西尾忠篤(1861年 - 1868年)
この節出典:[1]