利用者:のりまき/恒藤規隆と水谷新六 対照的な二人の人生

執筆の経緯[編集]

水谷新六

恒藤規隆水谷新六、この二つの記事に取り組んだきっかけはラサ島鉱業所の立項でした。二人ともラサ島鉱業所の記事の中で重要な役割を果たした人物であり、特に恒藤規隆は主人公といって差し支えありません。なお、恒藤規隆は既存の記事があり加筆、水谷新六は新規立項でした。ラサ島鉱業所の記事を書いていく中で、恒藤は重要度がかなり高い人物であるものの大幅な加筆が必要な状態であり、水谷は南進論の中などでよく話題となる人物であるにも関わらず未立項であったのを見て、ほぼ同時期に作業に取り掛かることになりました。

両者とも自分が取り組んだ題材の中では比較的執筆は楽な方で、自分としては執筆期間は短めでした。記事のポイントのところで触れますが、二人は似ているところと大きな相違点があり、特にリン鉱石と燐酸肥料のことしか考えない恒藤に時に周囲は辟易としながらも、どこか憎めなくて、真摯に己の道を歩み続ける姿に暖かい目を注いでいるのを感じ、恒藤規隆は珍しく執筆が楽しいと感じました。

主執筆者からみた記事のポイント[編集]

恒藤規隆

恒藤規隆の記事のポイントは、本人の評価にもあるように一にも二にもライフワークたる「リン鉱石と燐酸肥料」に尽きると言えます。もちろん日本初の農学博士の一人であり、日本の土壌学の創始者との学問的な面での評価も記事内で触れる必要はあります。しかし肥料鉱物調査所の廃止後に退官してリン鉱石資源探検家に転向し、ラサ島に有望なリン鉱床を発見してラサ島鉱業所の事業化に成功して、その後亡くなるまでリン鉱資源探査に精力的に取り組んだ恒藤は、人生ここまで一事に専心し切れればあっぱれというしかないと思います。部下が評した「恒藤はリン鉱石のお化け」は、もはや誉め言葉だと感じます。事業家時代、第2次大隈内閣や与党の同志会に喰い込んで政界工作等を行った経緯もあるにはありますが、まあ、政界工作みたいな画策や寝技は得意ではなかった人物だと思います。もう「リン鉱石バカ一代」といって良いお方です。

一方、水谷新六は結果として「探検バカ一代」となってしまった人物です。水谷は南鳥島の開発、開拓を行った人物として有名であり、南鳥島から伝馬船で1800キロメートルを航行した冒険談、そして取り残されてしまった東沙諸島からの脱出の逸話が知られています。ただ、記事を書きながら感じたのは、水谷は実業家としても成功したかったのではないかということです。そこで様々な運動やら画策を起こすものの、全く上手くいくことがなかったちぐはぐな人生を送った人物という印象です。バイタリティーは人一倍だったので、本人が晩年に述べたという「冒険が三度の食事よりも好き」という言葉通りの人生を歩めば、きっともっと大きなことが出来た人物だったと思います。

恒藤と水谷の記事はほぼ同時期に取り組んだのですが、両者にあまりにも対照的な面があると感じました。お二人ともかなり饒舌なタイプで、色々なお話を雄弁に語っているのですが、恒藤が両親、妻など家族の話を豊富にしているのに対し、水谷は家族関係のことは口に出すことが無いのです。出生時川上姓で、水谷家に養子となった幼少時の話は全く口にすることが無く、また婚姻して子どももいた事実も本人は口にしていません。故郷中津から出奔して大阪に向かおうとした恒藤をバックアップしてくれた両親、そして初婚の妻を亡くした際の落胆ぶりなどをみると、恒藤の家族には愛があったと感じます。一方幼少時の人生を全く語ろうとはしなかった水谷は、不幸な幼少期を送ったのではないかと思います。そして婚姻して子どもがいた事実が判明したのも近年のことであり、水谷と家族との繋がりは希薄であったと考えられます。そうしてみるとこうした家族関係や人間関係の違いが、ともにバイタリティーに溢れ、やりたいことをやりたいように押し進めようとした中で、失敗や挫折も繰り返しながらも恒藤は周りからの理解や支援を失うことなく人生を全うしたのに対し、水谷は死亡した時期も場所も明らかではないという結果に繋がったのではないでしょうか。

参考文献[編集]

恒藤規隆と水谷新六の両記事、そしてラサ島鉱業所、北大東島のリン鉱山の記事で、平岡昭利『アホウドリと「帝国」日本の拡大 南洋の島々への進出から侵略へ』は大変にお世話になりました、必要な事項が漏れなく、そして要領よくまとめられた名著かと思います。また恒藤規隆の自伝、『予と燐礦の探検』、熊沢喜久雄「肥料化学」6、『恒藤規隆博士と日本の燐酸資源』も大変に参考になりました。

水谷新六では大塚由良美「桑名市博物館紀要」9『南鳥島の発見者「水谷新六」に関する考察』 がこれまで不正確であった生年月日、婚姻歴を明らかにしており、必読の文献です。その他、長谷川亮一『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』を参考文献として多く使わせていただきました。