利用者:のりまき/第九作業室

天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは、江戸時代中期の1782年天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本近世史上では最大の飢饉。

概要[編集]

東北地方1770年代より悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日1783年4月13日)には岩木山が、7月6日8月3日)には浅間山噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による冷害傾向をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年度から深刻な飢饉状態となった。さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策がとられていたこととも相まって、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。

被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死したと杉田玄白の著書『後見草』が伝えるが、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしていたため実数は1ケタ多い。被害は特に陸奥で酷く、弘前藩の例を取れば8万人とも13万人とも伝えられる死者を出しており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。また、津軽藩では、死者が十数万人に達したと伝えられている。飢餓と共に疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減をまねいたとされる。

農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安の悪化が進行した。1787年(天明7年)5月には、江戸大坂で米屋への打ちこわしが起こり、その後全国各地へ打ちこわしが広がった。

大飢饉の遠因[編集]

東北地方での稲作の拡大[編集]

江戸時代初期、大きな河川の下流に広がる沖積平野を中心に、開墾によって水田が急速に広まった[1]。中でも東北地方の諸藩の水田増加は目を瞠るものがあった。庄内平野を抱える庄内藩では17世紀前半、仙台藩秋田藩盛岡藩弘前藩では17世紀後半に大規模な新田開発が行われ、水田が大きく広まった。東北地方、とりわけ東北北部の盛岡藩、弘前藩で新田開発が盛んに進められた17世紀後半は、比較的気候が温暖であったと考えられ、新田開発による水田の拡大も比較的順調に進んだものと考えられている[2]

江戸時代前期の17世紀、東北地方に水田が広まっていくのに大きな役割を果たしたと考えられるのがジャポニカ米赤米である。ジャポニカ米の赤米は早稲であり、冷害に強かった。しかし江戸時代、赤米は白米と比べて商品価値が低かった。これは食味が白米よりも落ちるという理由もあったが、白米を重んじる食文化が赤米を嫌う主な理由であったと考えられる。そのため早くも元禄期には弘前藩は年貢に赤米を納めることを制限するようになった。また赤米は晩稲よりも単位面積当たりの収量が少ないという欠点もあり、東北地方北部の弘前藩でも晩稲の栽培が広まっていた[3]

しかし当時の晩稲は冷害に極めて弱いという欠点があった。寒冷な夏を迎えると容易に収量が激減する晩稲のみを栽培することは、当時の東北地方北部の状況では極めてリスクが高く、忌避されながらも赤米は東北地方北部で栽培し続けられた。また東北地方北部の太平洋側にあたる盛岡藩八戸藩の山間部では、当時イネの栽培自体が困難であり、田にヒエを栽培する稗田や稗畑が広がっていた。稗田は当時の弘前藩や秋田藩でも見られ、イネよりも耐冷性に優れしかも長期間の保存に耐えるヒエが東北地方北部の農業生産の一翼を担っていた[4]

現在の東北地方である陸奥国出羽国に江戸時代にあった諸藩のうち、八戸藩盛岡藩仙台藩一関藩相馬藩米沢藩会津藩二本松藩の8藩で、ある程度まとまった年次の公式人口データが残されている。それぞれの藩の記録には記録の残存状況に差が見られ、盛岡藩など人口記録の信憑性に重大な問題が見られる例もあるが、江戸時代の東北地方について理解を進めるための重要なデータである[5]。人口データの分析から、盛岡藩、仙台藩、会津藩、一関藩の四藩で17世紀末まで人口増加が見られる[† 1][6]。また会津藩の郡奉行の記録にも17世紀の民力増強を記した記録が残っており、17世紀の東北地方では人口が増加していたことは確実と考えられている[7]。これは上述の東北地方各地で大規模に進められた新田開発、そして小家族中心の自作農経営と労働集約型の農業が東北地方でも進んだことによって出生率の増加が見られるようになったことが原因と考えられる[8]。しかし18世紀に入ると東北地方の人口増加は停止し、逆に人口減少が見られるようになった[9]

18世紀の危機[編集]

繰り返される飢饉[編集]

大飢饉の原因[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 高木・新屋(2008)によれば、八戸藩、米沢藩、相馬藩、二本松藩では17世紀の人口データがないため、人口動向を知ることはできない。

出典[編集]

  1. ^ 菊池(1997)pp.48-49
  2. ^ 菊池(1997)pp.49-55
  3. ^ 菊池(1997)pp.55-58、菊池(2012)pp.186-190
  4. ^ 菊池(1997)pp.55-56、pp.58-60、菊池(2012)pp.187-203、pp.210-219
  5. ^ 高木・新屋(2008)pp.1-7
  6. ^ 高木・新屋(2008)p.16
  7. ^ 速水(2009)pp.371-373
  8. ^ 高木・新屋(2008)p.16、速水(2009)pp.371-372
  9. ^ 高木・新屋(2008)p.16、速水(2009)p.377

参考文献[編集]

  • 菊池勇夫『飢饉の社会史』ISBN 4751723804 校倉書房、1994年
  • 菊池勇夫『近世の飢饉』ISBN 4642066543 吉川弘文館、1997年
  • 卜蔵建治『ヤマセと冷害』ISBN 4425550919 成山堂書店 2001年
  • 高木正朗、新屋均「18・19世紀の人口変動と地域・村・家族 歴史人口学の課題と方法」『東北諸藩の人口趨勢 仙台藩群方・一関藩村方人口200年の復元』ISBN 9784772241144 古今書院、2008年
  • 山本起世子「18・19世紀の人口変動と地域・村・家族 歴史人口学の課題と方法」『天明飢饉期・陸奥国農村の人口と世帯 仙台領3ヶ村の比較』ISBN 9784772241144 古今書院、2008年
  • 速水融『歴史人口学研究 新しい近世日本像』ISBN 9784894347076 藤原書店、2009年
  • 菊池勇夫『東北から考える近世史』ISBN 9784792409722 精文堂、2012年