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利用者:のりまき/鉱山史の迷路 日立鉱山

執筆の経緯

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1915年の大煙突完成前、煙害がひどかった時期の製錬所。

日立鉱山の執筆を始めたきっかけは、第六回執筆コンテストでした。第六回執筆コンテストからエントリー記事の条件が執筆の新規作成記事、または5,000バイト以下の記事への加筆となり、コンテスト前は5,000バイト以下の記事であった日立鉱山がエントリーの条件に当てはまることになったため、加筆に取り掛かることにしました。

鉱山執筆の要点と日立鉱山

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日立鉱山の加筆以前、私は長登銅山などの鉱山記事を手掛けていましたが、日本を代表する銅鉱山のひとつとされていた日立鉱山は規模が格段に大きく、かつ日立製作所を生み出し、日産コンツェルンの源流ともなったため、取り掛かる前から執筆の難航を予想していました。結論から言うと日立鉱山は他の鉱山と比べて中立性の観点に配慮された良質な資料が多く、また鉱山本体のみならず文化、スポーツ面などの各種資料も充実しており、日鉱資料館という優れた資料館もあり、多角的な視点での執筆が出来る条件が整っていました。これは前述のように日立鉱山は日立製作所、日産コンツェルンの生みの親であるという日本の近代産業史における重要性とともに、日立市自体が日立鉱山の発展をきっかけとして発展していったこともあって、地元日立では鉱山史の研究、顕彰、継承が熱心に行われているためです。

文献を集め始めたところ、単に鉱山のことを書くだけでは済まないことに気づきました。まず鉱山は労働条件が厳しいため、必然的に労働問題のウエイトが大きくなります。そして労働問題ともリンクするのですが、従業員に対しての福利厚生についても記述しなければなりません。また地下深くから鉱石を効率的に採掘し、製錬、精錬を行って製品とするためには、電力や輸送手段などの充実を図らなければなりません。また特に製錬時には鉱害発生が問題となりがちです。このような事柄の前提として鉱床や採掘される鉱石の特徴は鉱山の経営に大きな影響を与えるため、鉱山の地学的特徴についても押さえなければいけません。また鉱山の立地も重要な要素です。

地学的観点から言うと、日立鉱山はキースラーガー(層状含銅硫化鉄鉱床)と呼ばれる鉱床であり、足尾銅山のような鉱脈タイプの鉱山よりも鉱床が厚く機械化が容易でした。また日立鉱山は他の有力銅山よりも鉱石の品位が低く、地表に近い部分の鉱床の品位が高く江戸時代を通して採掘の継続が可能であった別子銅山とは異なり、技術の進歩によって採算が取れるようになるのが近代になってからとなったため、本格的な開発が遅れることになりました。そして鉱石の塩基性が高いという特徴もあり、この特徴は製錬時に溶剤として珪酸質の鉱石を使用する必要が生まれ、常磐線に近く他の有力鉱山よりも交通の便が良い日立鉱山は、他の鉱山から金、銀を含む珪酸質の鉱石を購入する買鉱を推進して、銅とともに副産物として金、銀を生産するシステムを確立します。また買鉱した鉱石の輸送等の目的で日立鉱山専用電気鉄道が建設されます。

日立鉱山の大煙突

鉱山の発展とともに鉱害が大きな問題となってきます。日立鉱山は比較的海に近く、鉱山の近くを流れる宮田川の流域が狭かったため、渡良瀬川流域に大きな被害をもたらした足尾鉱毒事件のような事態は起きませんでした。日立鉱山の公害問題は製錬時に発生する亜硫酸ガスによる煙害がメインです。煙害は鉱山周辺の農作物に大きな被害を与えましたが、日立鉱山の大煙突の建設と、気象観測による予報で煙害の発生が予測される時には、制限溶鉱という一種の生産制限を行うことで被害の軽減に成功します。この日立鉱山の鉱害予防のための気象観測と日立鉱山の大煙突の建設について知った新田次郎は、小説『ある町の高い煙突』を執筆し、大煙突は鉱工業都市日立市のシンボルとなっていきます。また鉱害に強いため積極的に植樹されたオオシマザクラに続き、ソメイヨシノの植樹も盛んに行われるようになって日立市は桜の名所としても知られるようになり、市の花にも選ばれました。

石岡第一発電所

日立鉱山の操業開始後、早い時期から電化・機械化が進められました。また製錬後の粗銅を電解精錬して純度が高い銅とするためにも電力が不可欠です。そこで電力確保のために石岡第一発電所石岡第二発電所など発電所を相次いで設け、電力の確保を進めます。石岡第一発電所は土木技術者の宮長平作により、日本初の鉄筋コンクリート製の発電所として建設されました。石岡第一発電所は日本における最古級の鉄筋コンクリート製建造物であり、日立鉱山の代表的な遺構であることが評価され、2008年に重要文化財に指定されています。そして石岡第一発電所の鉄筋コンクリート技術は前述の日立鉱山の大煙突建設に生かされることになります。そして鉱山用の輸入機械の修理責任者が小平浪平でした。修理とはいっても鉱山の厳しい条件下では新造に近い大修理を行わねばならないことも少なくなく、それならば修理よりも新たに製作する方が良いと、小平は機械の製作にチャレンジします。この鉱山用機械の製作所から日立製作所が始まります。

共楽館(現・日立武道館)

労働問題に関しては日立鉱山を大鉱山とした久原房之助が標榜した「一山一家」という家族主義的経営がある程度功を奏したこともあり、足尾銅山などよりも大きな社会問題とはなりませんでした。しかし大正時代には友愛会の活動が行われ、戦時中の勤労動員、朝鮮人や中国人の強制連行、連合軍捕虜の使役、戦後は労働組合の結成など、やはり労働問題は欠かすことが出来ない部分です。余談ですが実業家から政友会の政治家として転身した久原房之助は、「一山一家」論に倣った「一国一党」論を唱えるようになります。

「一山一家」の理念のもと、日立鉱山は従業員の福利厚生に気を配りました。鉱山劇場である共楽館、本山劇場で娯楽を提供し、米などの生活必需品や日用雑貨等は従業員と家族のために市価よりも廉価で販売しました。このような中で日立鉱山では文化、スポーツ活動が盛んに行われるようになります。中でも吹奏楽団、野球、ラグビーは全国レベルの大会で活躍するようになりました。野球部ではヤクルトでは先発投手、近鉄ではリリーフとして活躍した鈴木康二朗ら、12名のプロ野球選手を輩出しています。

このように日立鉱山に関連する事項は幅が広く、単に鉱石を採掘して製錬・精錬するばかりではなく、様々な経済、技術、社会問題、そして文化スポーツの分野までも関わりがあるということがおわかりいただけると思います。これは他の大規模な鉱山も同様で、例えば足尾銅山は鉱毒問題、特に田中正造の運動に大きなウエイトを割く必要がありますし、別子銅山では江戸時代の銅の海外輸出について触れていかねばなりません。そして神岡鉱山ではイタイイタイ病について述べる必要があります。大鉱山にはそれぞれの特徴があるため、各鉱山で執筆すべき内容はかなり変わってきます。

感想

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久原房之助

執筆時の個人的な感想としては特筆性の問題もあり、鉱山記事は基本的に成功者について書くことになります。久原房之助は鉱山のみならず財閥を作ってしまったのでいわば成功者の中の成功者です。しかし記事には書きませんでしたが、久原は日立鉱山の前身である赤沢銅山買収の決め手について「最後はヤマに惚れた」と言っているくらいですので、最後はやはり運任せの部分が出てしまいます。ただ、現実には一握りの成功者の背後に遥かに多くの失敗者がいるわけです。文献を読み進める中でそのような失敗者の話も出てくるので、特筆性がある鉱山についていつかそのような失敗者のことも書いてみたいと思っています。また個人的には久原房之助はあまり好きにはなれないのですが、記事を書く中で特に創業直後など「久原房之助がんばれ!」と声を掛けたくなってきました。これは横須賀海軍施設ドックの記事を書いていた際にレオンス・ヴェルニーに対してやはり「ヴェルニーがんばれ!」と声を掛けたくなったのと同様で、やはり久原もヴェルニーも生き生きと活躍する中で日立鉱山やドックを造りあげていったのだと感じました。

参考文献について

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参考文献については1952年刊行の「日立鉱山史」は必読文献です。1986年刊行の「日立鉱山史追補」は、「日立鉱山史」よりも記述は簡素ですが要領よくまとまった好資料です。また「日本鉱業株式会社50年史」も参考となる文献です。日本における銅の生産について俯瞰した文献としては、武田晴人著の「日本産銅業史」は非常に良い文献であると思います。そして日立鉱山の場合、鉱山の歴史を記録する市民の会編の「鉱山と市民 聞き語り日立鉱山の歴史」が多方面にわたって記載された極めて重要な資料であり、必須の文献です。このような文献が市民の会で編纂されたという事実は、日立鉱山と日立市民との距離の近さ、重要性を意味していますし、共楽館を考える集い[1]のような市民活動が継続して行われていることに通じているのだと感じます。