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霊鑑寺
ファイル:霊鑑寺のjpgを探して入れる
未定
所在地 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12
山号 円成山
宗旨 臨済宗
宗派 南禅寺派
寺格 比丘尼御所
本尊 如意輪観音・当初不動明王
創建年 1643年頃、
開山 1653年
開基 浄法身院 宗澄
中興年 1871年
中興 宗諄(そうじゅん)女王が、霊鑑寺宮を続ける還俗せず。
正式名 円成山霊鑑寺(えんじょうさん・れいかんじ)
別称 谷の御所・鹿ケ谷比丘尼御所、椿寺とも
札所等 洛陽十二支妙見巡り、卯(東)
文化財 未指定。
公式サイト [なし。 なし。]
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霊鑑寺
ファイル:霊鑑寺のjpgを探して入れる
未定
所在地 京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12
位置 北緯34度36分53.85秒 東経135度44分22.47秒 / 北緯34.6149583度 東経135.7395750度 / 34.6149583; 135.7395750←要変更
山号 円成山
宗派 臨済宗南禅寺派
本尊 如意輪観音
創建年 由緒に拠ると1643年頃、正規には1653年
開基 (伝)持明院 基子浄法身院 宗澄
別称 谷の御所・鹿ケ谷比丘尼御所・椿寺とも。
札所等 洛陽十二支妙見巡り、卯(東)
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'''霊鑑寺(京都市左京区:尼門跡)私案・草稿'''

霊鑑寺(れいかんじ)は、現在、京都市左京区鹿ケ谷にある江戸時代創建された、尼門跡寺院。 江戸時代はもとより、明治時代まで、法内親王様・入道内親王様、若しくは、皇孫女様が、ご住職をお勤めになったお寺である。

概略[編集]

元々、上皇殿下女房(大納言の典侍)のご出家に伴いできていたを、当時の後水尾上皇御発心により、初代の堂宇を建立※庵は壊されたとは伝わっていない※皇女のご出家を迎えてとして開山。 ご本尊は、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)、他に著名な仏様として、妙見菩薩(洛陽十二支妙見巡りにて、卯(東))を護持。 元々のご本尊は、不動明王様。如意輪観音様の安置は、後述の京都市滋賀県大津市県境付近にあった如意寺との関係による。 お庭は、門跡寺院の例に漏れず美しく、早春の椿、晩秋の紅葉が見事である。例年の特別拝観は、この時期に合せておられる。

  • 晩秋には樹齢350年を超えるタカオカエデをはじめ、色鮮やかな紅葉が見られる。かねてから椿寺の異名があり、後水尾天皇(ごみのをてんのう)遺愛の日光椿を始め椿の名木が多い。詳細は、お庭の項目参照。

※俊寛僧都、山荘跡との関連を、加筆補遺改訂する事※

御由緒と沿革[編集]

御由緒[編集]

  • 後陽成上皇の女房で大納言典侍(ナイシノスケ)持明院 基子(じみょういん もとこ)が出家、妙法院門跡の口添えにて120石の扶持を賜り、慶長17(1612)年に妙法院門跡領地の一部を譲り受け屋敷を設けた。
    典侍は、死後も寺領として120石を持って寺とするように希望して死去。この時点のご本尊は不動明王。
  • 典侍・没後、1653年(承応2)後水尾(ごみずのお)天皇は霊夢を感じ、如意ヶ嶽(大文字(だいもんじ)山)山頂付近にあった如意寺の如意輪観音像を移し、如意ヶ嶽西側の山麓:鹿ヶ谷に霊鑑寺を建立、その際、(京都市左京区粟田口:如意ヶ嶽稜線を中心に寺域を展開していた)如意寺(初代)(当初は平時望に拠って創建されたが、伝承では智証大師による開山と伝えられる。天台宗の独立寺院を経て、山門派寺門派が分裂して以降、寺門派の本山と成った三井寺の別院として平安後期平家の帰依を得てから、鎌倉時代を通じて繁栄。有力な園城寺の別院で塔頭も多数抱えていたが。室町時代以降、寺域の一部を足利将軍の如意ヶ嶽城に奪われ、戦乱に巻き込まれるなどして衰退。如意寺の塔頭:宝厳院の場所は如意ヶ嶽稜線沿い:(京都市埋蔵文化財研究所に拠る)如意寺遺跡・寺域は広く大きい。現在も如意ヶ嶽山中に在る「池ノ谷地蔵」「雨神社」などは、如意寺の遺構が御由緒)に伝わる霊鏡も移したことから寺号を命名した。(如意寺跡1(宝厳院跡))
    この当初の寺地は鹿ケ谷の渓流に沿っていた。通称・異称の、谷御所(たにのごしょ)の由来。

※西麓と言う言葉は、ウィクショナリーに無いので、対策を要する。→書き換えた。

開山後の沿革[編集]

  • 承応3年(1654)に、後水尾(ごみのお)天皇の皇女:多利宮(たりのみや)様(幼名・谷宮(たにのみや))がご出家、浄法身院(じょうほうしんぐう)宗澄(そうちょう)と名乗って入寺。開基とされる。当時の寺領120石。
    ご本尊は、如意ヶ嶽山頂付近にあった如意寺(初代)からの如意輪観音像を移し安置。※後に、霊鑑寺門跡の御発心により、鹿ケ谷の如意ヶ嶽寄り山麓に、(過去のものより小規模な)如意寺を再興、一旦、如意輪観音様は、再興した如意寺(二代目)に移されたが、(再興)如意寺の火災廃寺に伴い、霊鑑寺に戻る)※(宗旨が違うので、疑問視する説がある。但し、開基以前の庵は、妙法院天台宗の御由緒であり、如意寺(初代)は、園城寺の塔頭であり(天台宗寺門派)であることから、容易にありえる。)
  • 1687年(貞享4)後西(ごさい)天皇の皇女普賢院(ふげんいん)宮が住職を勤めていた時に、父帝:後西天皇の旧殿を賜ったとされ、南麓に移り円成寺跡に現在の地にお寺を造営。表門、玄関書院居間は、江戸時代の姿を今に伝える。江戸時代の正式名称は、鹿ケ谷比丘尼御所(ししがたにびくにごしょ)。
  • 現在に残る本堂は、江戸幕府十一代将軍・徳川家斉寄進。(安置される、ご本尊:如意輪観音像は、霊鑑寺門跡の御発心に拠って、一旦、霊鑑寺に程近い如意ヶ嶽山麓に再興されていた如意寺が、再度の廃寺後、如意寺の本尊を再度お祭りして現在に至る。)
  • 明治時代まで皇女・皇孫女が尼門跡として住持、比丘尼御所の格式で護持してきた。明治四年、太政官布告にて、公的門跡制度が廃止されるに及んでも、宗諄(そうじゅん)女王が、霊鑑寺宮(※宮家として扱われた。還俗されなかった。※)とされ、明治24年まで住持されていた。

お寺に所蔵される宝物・見どころ[編集]

美術品・寺宝[編集]
  • 後西天皇の院御所の御殿を移築した書院は、狩野派の作と伝わる「四季花鳥図」などの華麗な障壁画に彩られていて、代々皇女さまが住持門跡として入寺された事から、御所人形200点など貴重な寺宝が残されている。
    宮様方の御親筆等も多数伝えられていて、襖絵なども貴重である。
  • 仏像:(ご本尊)如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)・本堂に安置。
    (著名な仏様)妙見菩薩(洛陽十二支妙見巡りにて、卯(東))

※御親筆の内容、襖絵など、一部明示可能なものを、加筆補綴改訂する事※

お庭[編集]

(元々のお庭)俊寛僧都別荘跡などの石碑に見られるとおり、山麓から水を引いて池泉回遊式庭園
(現在のお庭)江戸中期の特徴有る庭石を取り入れた作庭された池泉鑑賞式庭園、かって池には水が引かれていたが、現在は涸れている
早春の椿、晩秋の紅葉が見事である。晩秋には樹齢350年を超えるタカオカエデをはじめ、色鮮やかな紅葉が見られる。
かねてから椿寺の異名があり、後水尾天皇(ごみのをてんのう)遺愛の日光椿を始め椿の名木が多い。
カラー花の寺と、椿の記録を得て、補遺改訂する

拝観・参詣 ・アクセスおよび近辺[編集]

拝観・公開[編集]

  • 常時は非公開、春秋に、特別公開が行われるのが慣例
    他に、椿の咲く時期などに臨時の特別公開が行われる場合がある。
  • 宗旨:臨済宗南禅寺派、(但し、初代堂宇の建立時にも、妙法院の御由緒を得て、既に事実上の寺院。)

※ウィクショナリーに慣例がないので、立項するか、リンクを変える、※

近辺と、アクセス[編集]

大文字火床に対して、西南西の山裾に辺り、閑静な場所である。

典拠・注釈[編集]

  1. 都名所図会※訳本を宇治市図書館にて貸し出し閲覧※
  2. 拾遺都名所図会、※京都名所図会(解説本に、一部引用あり)※
  3. 京都観光ナビ
  4. 京都花の寺(淡交社) (自家所蔵品)
  5. 園城寺境内古図(日文研より、閲覧)
  6. 雍州府志(抜粋・京都総合資料館展示資料).、
  7. 雍州府志:岩波文庫 ※宇治市図書館にて貸し出し閲覧※
  8. 京都市埋蔵文化財研究所
  9. 国文学研究資料館資料

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(典拠資料とのリンク、連録、注釈、図示、など補綴項目尚多し。如意寺関係、原資料を読み込みが困難(難儀))

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