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歴代の自由民主党執行部の一覧
[編集]歴代自由民主党執行部の一覧(れきだいじゆうみんしゅとうしっこうぶのいちらん)は、日本の自由民主党本部において最重要業務の執行する役員の総称である自由民主党執行部の歴代役員達の一覧である。
記載内容
[編集]自由民主党の党総裁や幹事長・政務調査会長・総務会長・選対委員長を筆頭とする党十役を主に記載する、またほとんど常設される副総裁や自由民主党顧問も党重役として記載する、また党総裁が最初指名した党役員が辞任または任期満了になり新たな役員が就任した場合その人物も役員表に記載する。(例として幹事長などは1期1年、任期最大3期3年となっている。)また再当選(2期目・3期目)した場合は別に分けて執行部を記載する(例安倍晋三2012執行部・安倍晋三2015執行部は同一に記載しない)。
総裁代行について
[編集]一度のみ大平正芳総理総裁がハプニング解散による選挙中に急死したことにより選挙運営をするにあたっての総裁権限を当時副総裁であった西村英一に移譲した例がある、これは西村暫定執行部(選挙期間内執行部)として一応は記載するが、結局は大平執行部の代行ためその枠で記載する。
総裁以外の統一首班指名者
[編集]二度首班指名選挙に自由民主党総裁以外の人物が指名されることがあった、一つは社会党委員長村山富市を首班候補に指名し、村山内閣を形成した時、もう一つは当時の麻生太郎総裁が選挙の大敗を受け辞任をした、しかし首班指名はその後にあるので総裁不在の状況であった、なので党が一致するために若林正俊両院総会長に指名することがなされた、しかし議席数により民主党の鳩山由紀夫が指名されたので若林は当選しなかった、また谷垣禎一新総裁が誕生するまでの期間は総裁不在期間として麻生執行部のページにて記載する。
歴代自由民主党執行部一覧
[編集]ここでは総裁代行委員時代から現在の石破執行部までを掲載する。
総裁代行委員時代 (1955 - 1956)
[編集]
保守合同 自由民主党設立
[編集]戦後の政党政治に始まり、占領下の時代で多くの政党が誕生した、そして1955年に中央大学講堂にて自由民主党結党大会をおこなった、また日本社会党の再統一がその1ヶ月前に行われていたため、それに対抗しての保守合同だと思われる、また自由党と日本民主党からの党員がほとんどであり、また自由民主党のトップである総裁が選出されるまでの数ヶ月間は総裁代行委員として自由党から緒方竹虎・大野伴睦、日本民主党から鳩山一郎・三木武吉の四人が選出された、その後初代総裁に選出される鳩山一郎執行部になるまで総裁代行委員制度が事実上の執行部となっていた。
日本民主党 | |
---|---|
衆議院議席数 |
185 / 467 (40%) |
参議院議席数 |
2 / 250 (1%) |
自由党 | |
---|---|
衆議院議席数 |
112 / 467 (24%) |
参議院議席数 |
93 / 250 (37%) |
選出方法
[編集]選出は両党の話し合いの末に決定したと思われる、(どちらの党出身にも総裁代行委員が2名ずつ)
政治
[編集]設立当時から総裁代行委員鳩山一郎が総理大臣のため、与党となっている、また第2次鳩山一郎内閣から宮澤内閣まで与党第一党として55年体制を築いた(1993年に細川内閣が誕生するまで)、また戦後2024年までに野党に政権交代を許したことは二度(八党派連立政権・民主党政権)しかない、よって世界的に見ても長期による政党政権に認識されている。
執行部
[編集]この時は総裁代行委員制(4人が最終決定を行う)ため現在の副総裁や幹事長は未設置であった、またあくまで総裁代行委員なのでその後自由民主党総裁選挙(公選)が行われその結果事実上の信任投票で鳩山一郎が自由民主党初代総裁に就任し、それと同時に副総裁や幹事長が設置された。
役職 | 氏名 | 衆参別 | 旧所属 | 任期 | |
---|---|---|---|---|---|
自由民主党総裁代行委員 | 鳩山一郎 | 衆議院 | 元日本民主党 | 1955年11月15日 1956年4月5日 | |
緒方竹虎 | 衆議院 | 元自由党 | 1955年11月15日 1956年1月28日(急逝) | ||
不在 | 1956年1月28日 1956年2月18日(松野鶴平就任前) | ||||
松野鶴平 | 衆議院 | 元自由党 | 1956年2月18日 1956年4月5日(緒方竹虎死去後に就任。 | ||
三木武吉 | 衆議院 | 元日本民主党 | 1955年11月15日 1956年4月5日 | ||
大野伴睦 | 衆議院 | 元自由党 | 1955年11月15日 1956年4月5日 | ||
幹事長 | 岸信介 | 衆議院 | 元日本民主党 | 1955年11月 1956年12月 | |
政務調査会長 | 水田三喜男 | 衆議院 | 元自由党 | 1955年 1956年 | |
総務会長 | 石井光次郎 | 衆議院 | 元自由党 | 1955年 1956年 | |
自由民主党国会対策委員長 | 中村梅吉 | 衆議院 | 元日本民主党 | 1955年 1956年 | |
参議院議員会長 | 松野鶴平 (代行委員兼任) |
参議院 | 元自由党 | 1955年 1956年 | |
選挙対策委員長 | 未設置 |
衆参合計議席
[編集]議会第一党の日本民主党(党首・鳩山一郎)、第二党の自由党(党首・緒方竹虎)が合併したことにより議席数は議会圧倒的1位になった、またその後の選挙にて自由民主党が比較第一党から外れたのは2009年の衆議院総選挙により民主党に大敗した時のみである。(2024年現在)
自由民主党 (1955年) | |
---|---|
衆議院議席数 |
299 / 467 (64%) |
参議院議席数 |
118 / 250 (47%) |
補足
[編集]総裁代行委員在任中に緒方竹虎が急逝したためしばらくの不在がありながら同じ自由党系の松野鶴平が就任した、(鳩山一郎が総裁になるまで)、また総裁代行委員時代では地方の党組織、都道府県連を作り基盤を固めた。
鳩山一郎執行部 (1956)
[編集]自由民主党初代総裁
[編集]自由民主党の初代総裁として就任し、総裁代行委員制から総裁を筆頭とした執行部として正式に変更された、またこの当時は副総裁が配置されておらず、事実上の党No.2として幹事長の岸信介(後の総裁)が選任された、ここから総裁が選出する執行部制度は現在までも使用されている。
派閥政治
[編集]またこの鳩山総裁が選出された頃から本格的に自由民主党内に派閥が発足する、後に総理総裁の出身派閥が変わることを擬似政権交代または党内政権交代と言う、実際1970年代福田赳夫首相と大平正芳総裁が首班指名にて党内での票を二分化してしまい事実上の党内分裂が起きた例があり、僅差で大平正芳が勝利したが、その後福田赳夫を筆頭に野党の内閣不信任決議案に賛成をし衆議院解散となった、またこの派閥政治は第27代岸田文雄総裁が選出された後志公会(麻生派)以外の派閥が解体された。
選出方法
[編集]鳩山一郎総裁代行委員は投票日以前でも当選することは殆ど確定していた、立候補制の選挙ではなかったため、各派閥の人物に票が入っている、各国会・都道府県連の議員が1票ずつの決選投票制で行われた、また選出された鳩山一郎は合計投票数が95%を超える(白票は除く)、事実上の信任投票の意味合いがあり、対抗できる人物として元自由党総裁の緒方竹虎がいたが、代行委員時代に逝去したため、ほとんどの議員の投票が鳩山にいった、また鳩山一郎に行かなかった票は全て反対派の白票もしくは他人物への投票となっている。
鳩山一郎 | 岸信介 | 林譲治 |
衆議院議員 (自由民主党総裁代行委員)(1955-現職) 内閣総理大臣 |
衆議院議員 元日本民主党 |
衆議院議員 元自由党 |
鳩山派 (鳩山一郎派) |
岸派 (岸信介派) |
不明 |
投票数 394 |
投票数 4 |
投票数 3 |
投票された人物
[編集]この総裁選挙ではその他にも次の総裁となる石橋湛山や池田勇人にも投票がされていた、また後の総裁となる人物は河野洋平・谷垣禎一の2人を除いて内閣総理大臣に就任した。
投票の結果鳩山一郎が自由民主党総裁に就任、そして与党統一首班指名候補にも自動的になるので内閣総理大臣に就任し、第3次鳩山一郎内閣が発足した。 政治[編集]第2次鳩山一郎内閣が与党基盤が変わったことで形式上内閣総辞職を行い、首班指名にて鳩山一郎首班の第3次鳩山一郎内閣が組閣された、主な政治政策は日ソ共同宣言であり、これによりソビエト連邦との国交回復に成功し、今後行われる自由民主党の親米政策とは一線を画した政策であった、(またアメリカの敵対国または警戒国と国交正常化をした自由民主党の総理総裁は鳩山と田中のみである。)また国際連合への加盟を行うなど、他国との国交正常化や外交の積極化が進んだ。 執行部[編集]
衆参合計議席[編集]1956年第4回参議院選挙が鳩山一郎内閣下で行われた、社会党再統一と保守合同が行われて最初の議員選挙であった、結果は党として過半数を獲得することはなかったが、議会第一党を維持し、与党としての存在感を見せた、改選61、非改選61議席の計122議席を獲得した、また過半数は126であった。)ただ鳩山一郎内閣では改憲を目標としていたので総議席数の3分の1を護憲派の日本社会党が手に入れたので改憲が難しい情勢となった。
また衆議院総選挙は行われなかった(参議院のみ選挙)。 補足[編集]鳩山一郎は日ソ共同宣言署名後総理総裁を辞任することを表明、その後次期総裁を話し合いにより選出し、党を分裂させないように試みられたが失敗、結局選挙が行われ、3人が立候補し、岸信介が得票数1位、石橋湛山が2位となりどちらも過半数を得なかったため決選投票が行われたが、約7票差で石橋湛山第2代総裁が選出された。(後に首班指名にて内閣総理大臣となる。)
石橋湛山執行部 (1956 - 1957)[編集]自由民主党二代目総裁[編集]総裁選挙により第二代自由民主党総裁に就任、総理総裁辞任を発表した鳩山一郎の後を受け継ぐ形となった、また在任中に脳梗塞となり2ヶ月半ほどの短期政権であったが、総裁選での2位3位連合、約7票差の当選、などの党の歴史に残る選挙を繰り広げた、また人事でも党執行部では幹事長には後に総裁に選出される三木武夫、内閣人事では外務大臣に第三代総裁となる岸信介が入閣していた。 前任者の突然の辞任[編集]内閣総理大臣・自由民主党総裁に就任していた鳩山一郎だが、日ソ共同宣言に署名した後どちらも辞任を表明した、それにより党の次期総裁を決めなければならない状況となった、岸信介・石橋湛山・石井光次郎が立候補(厳密には立候補制ではない)を表明したが、党内分裂を防ぐため次期総裁をその3人を念頭に話し合いで選出することを画策されたが、不調に終わり、本格的な派閥同士による総裁選挙が行われることとなった。 選出方法[編集]前回の事実上の信任投票とは違い、派閥同士の本格的な総裁選挙となった、多方の見解は岸信介が他の2人(石井光次郎・石橋湛山)をリードしているという見解だった、しかし石橋湛山を支えた三木武夫や石田博英の活躍もあり、急速に支持を拡げた、当初は岸・石井・石橋の順位かと思われたが、やはり石橋擁立に回った三木武夫と石井支持派の元自由党幹事長の池田勇人である、総裁選前日に池田は決選投票になった場合石井陣営は石橋湛山候補の支持に回ると言ういわば2位・3位連合の成立がなされた、結果は岸信介が2位の石橋湛山に対し約70票差をつけ第1回投票で1位となったが、過半数には満たず決選投票となった、決選投票ではやはり岸信介が有利かに思われたが、三木と池田によって交わされた2位・3位連合により僅か7票差で岸信介を上回り、石橋湛山が第二代自由民主党総裁に選出された、また敗北を喫した岸陣営は岸本人に対して外務大臣のポストを要求し、それを受け入れた。
投票された人物[編集]自由民主党総裁選挙で初の決選投票となった、また岸信介が第一回投票では1位だったが前述の2位・3位連合により石橋湛山が票数を逆転して当選した。
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