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曽屋水道
[編集]曽屋水道(曾屋水道、そやすいどう)は神奈川県秦野市本町地区(計画開始時は神奈川県大住郡曽屋村、配水開始時は大住郡秦野町字曽屋)で稼働していた上水道。1890年(明治23年)に近代水道として横浜、函館に続いて全国で3番目に完成した。1983年(昭和58年)まで稼働した旧曽屋配水場は曽屋水道記念公園として整備、公開されている[1]。秦野町水道(https://dl.ndl.go.jp/pid/2951683/1/12)、秦野水道(https://dl.ndl.go.jp/pid/1875538/1/288)とも呼ばれた。国の登録記念物[2]。土木学会選奨土木遺産[1]。
概要
[編集]陶管水道が開通した19世紀末頃の秦野地域は葉タバコ耕作で知られており、街道の交差する曽屋村はその商業的中心地であり小さな宿場町として発展していた。曽屋村の坂上には境内に湧水のある神社があり、江戸期から町中へ用水路を引いて市民の生活用水として活用されていた。村ではたびたび疫病が流行したが、特に1879年のコレラでは死者を25人出し、調査で用水の汚染が原因とされ水質の改善が求められていた。そんな中、1887年にイギリス人技師が持ち込んだ水道技術によって横浜水道が開通。地元の梶山良助ら有力者が水道敷設の重要性を唱えて水道敷設の機運を高め、横浜水道を敷設したばかりの神奈川県庁の技術支援を受けながら、高価な輸入鉄管を避けて前例のない特注の耐圧陶管を採用する敷設計画を立て、全国初の陶管による近代水道として、1890年に曽屋水道が開通する。
全国でも早い時期の水道敷設であること、配水管が比較的安価な陶管であること、住民らによる自営水道・簡易水道であることなどで注目され、全国から視察は多かったが、1923年の関東大震災で埋設管の3分の1が破壊。一旦は陶管によって復旧されるが、間もなく鉄管による新水道の計画・敷設が始まり1924年には鉄管による水道供給が開始。翌1925年、陶管による水道供給が終了した。その頃には全国で多数の水道・簡易水道が稼働しており、鉄管の国産化も進んでいたことや陶管のデメリットが見えてきたことからも、陶管が注目されることはなくなった。
秦野水道百年史[3]
特徴
[編集]曽屋水道の主な特徴は、近代水道として全国で3番目に敷設された点、陶管を水圧のかかる上水道の水道管に採用した点、行政主導ではなく費用の負担を含めて住民主導で計画・敷設された点にある。
近代水道
[編集]近代水道に明確な定義はないが、日本ではイギリス人技師の水道技術を用いて敷設した横浜水道以降、汚染された水の混入を防ぐ。有圧送水、ろ過処理、常時給水とされ、この定義に当てはまる(堺市上下水道局)。ただし、鋳鉄管を要件と考える場合もあり、この場合は定義から外れる。ロンドンの1847年水道事業条項法では「常時給水・水量確保・適正水圧・汚染防止・消火栓設置の義務化・料金の明確化」が制度化された(宇都宮市水道100周年下水道50周年史通史)。
水道条例の適用を受ける要件を満たすものと考えることもできるが、第三条に書かれているろ過池や貯水池は必ずしも必須のものではないと解釈されている(https://dl.ndl.go.jp/pid/1462334/1/71)。
水道条例に従って施工したのは大阪市、明治28年から。厳重な施工管理、同時に相当の保護奨励、公費の一部を補助、施設は公共団体樽市町村の公設を原則とする、内務大臣の認可監督を要する(https://dl.ndl.go.jp/pid/1688816/1/276)、施設の大要(https://dl.ndl.go.jp/pid/1688816/1/277)、河川や湧水の水源から、水路や木樋等で導水し、そのまま飲用に供するのが旧式。現在の水道法で必須(?)であるカルキによる殺菌については昭和4年の資料で紹介されているが当時日本国内(統治下を含めむ)では採用例がない。
東京都では1922年からカルキ注入、1957年昭和32年の法令で定められる。(https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suigen/topic/07.html)
衛生的、経済的、防火的(https://dl.ndl.go.jp/pid/1561595/1/31)
単に引水するだけではなく、沈澄、ろ過で浄化し、圧力をかける。(https://dl.ndl.go.jp/pid/1688816/1/275)
水量、水源の水質、水路、浄水、配水。集水、浄水、配水。消防?(https://dl.ndl.go.jp/pid/1243410/1/63)
簡易水道
[編集]簡易水道の嚆矢であると紹介されることもある。
簡易水道という名称自体は1907年(明治40年)頃から資料で確認できるようになり、曽屋水道が最初の簡易水道であると言われるようになった[4][5]が、その定義は明確でなく、大都市に敷設された水道と比較して給水人口などの規模が小さいものや、圧力設備やろ過設備を省略して建設費を抑えた水道を指したと解釈されている[6]。現在の簡易水道の制度は水道法により1960年(昭和27年)に施行され[7]、給水人口が100人を超え5000人以下の水道事業と定義されている。
自営水道
[編集]陶管水道
[編集]当時、陶管は土管という呼び方が公的な資料の中でも見られたが、給水地域の住民の間ではこの「どかん」という言葉で水道水や水道事業のことも指し、後に鉄管に替えられてからもしばらく呼び名が残っていた。「どかんのは便利だ」とか「どかんの水は夏冷たく冬温かい」などと言われた[8][9][10]。
敷設計画以前
[編集]秦野盆地の地質は砂礫と火山灰が互層しており透水性が高く、扇状地の扇端部では湧水の自噴が見られるが、曽屋村の位置は秦野盆地の中でも扇央に位置し台地状に少し高くなっており、井戸を掘っても簡単に水を得ることができなかった[要出典]。
曽屋は江戸時代には煙草の名産地として知られており、周囲の地域の中心地として発展していた。
1723年(享保8年)、曽屋で疫病の流行があり数百人が感染した[11]。曽屋の生活用水を供給していた井明神社(いみょうじんじゃ、1873年(明治6年)から曽屋神社)では境内で湧水があり多くの氏子はこれを頼りにしていたが、一部に井戸を掘って水を得ようとする者もいた。お告げで、氏子が井戸を掘って清泉の水を使わなくなれば明神の怒りにあったとされた[11]。これをきっかけとして井明神社の湧水から曽屋通りに用水路を引いたのが曽屋村の初期の水道である[12]。井明神社の近くの乳牛水神社にも水源があり、乳牛通りにも用水路ができた[11]。
集落は曽屋通り、大道通り、乳牛通りにあった。
1773年(安永2年)、片町に近江屋文右衛門が清酒酒造業を始めるにあたり[13]水源である井明神社から大道通り(だいどう、現在の県道705号線)に沿って1kmの距離を竹管で導水した。尺竹(外周30cmの竹筒)に流れる量を限度とし、3月9日の例祭に清酒1樽を奉納するよう約束したという[11]。これが大道の通水路の起源であり、後に曽屋水道の幹線となる[3]。
1858年(安政5年)、大道の佐藤安五郎が私財(750両、現在の価値で約600万円)を投じてこれの増補工事として井明神社の湧水を増やすために高さ1.8m、幅1.5m[11]、長さ約180mの隧道を掘り、また、大道通りの用水路の両側を高さ75cm、延長900mの石垣とする工事を施した[3][12]。(https://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/contents/1568095165313/index.html)
1854年(嘉永7年)、片町地区の住人は乳牛水神社の下にあった水田を畑地に変えてもらうよう地主と交渉し、関係者の寄付金によって水利権を得た[14]。その後、曽屋6分、大道4分の割合で分水協定が結ばれた[11]。それ以来、曽屋における水の争いはなくなり、曽屋、大道、乳牛の用水路沿いを中心に発展していった[3]。
明治期には用水路は曽屋通り、乳牛通り、大道通りに3本並行して流れていた。
用水路の水は飲料水などの生活用水として利用されたが、排水もそのまま流入していたので下流の方では汚染が目立った。住民はろ過して利用したり夜間に汲むなどしたが、それでも衛生環境は良いものではなかった。
(明治10年上宿に導水するだけの竹管の水道を敷設した。明治11年にコレラ流行し上宿は被害少ない。上宿以外にも竹管による水道が敷設される。明治16,7年に神奈川県衛生課長白根が同地巡回し梶山を秦野警察署に招き水道敷設について諮問。県の助力を得て明治19年水道敷設の議を決する。→神奈川県誌、1913)
1879年(明治12年)8月、曽屋でコレラが流行し81名が罹患、25名が死亡した。内務省の派遣した技師の調査で用水路の汚染が原因と結論付けられた[3]。飲料水の水質改善は大きな課題となっていたが、日本最初の近代水道である横浜水道が完成するのは1887年(明治20年)であり、曽屋において抜本的な改善策がとられることはなかった。(https://dl.ndl.go.jp/pid/1875538/1/289)
計画から敷設まで
[編集](明治20年)5月10日、相陽衛生会が曽屋における水道敷設を議決した[3]。相陽衛生会は地元有志によって設立され、公衆衛生に関する討論や演説会を通して啓蒙活動を行っていた組織とみられているが、組織の実態に関する資料は残っていない[3][15]。
佐藤政吉(佐藤安五郎の長男)、梶山良助、石井佐吉(、川口直次郎)らが中心となり計画が進められた。
横浜への視察、免許
明治20年3月、有志37名の連署と戸長の奥印をもって「飲料水改良に関する設計依頼」を大住淘綾郡長に宛てて出し、郡長から神奈川県庁に提出された[3]。神奈川県庁はこれに賛同し、土木技師の岩田武夫、大橋鎮二を派遣した[3]。曽屋村の実地調査と財政について聴取した[要出典]。
結果、財政的にも特製の土管(陶管)での敷設を計画立案した。目論見書、絵図面が県から下附された(時期不明、案との前後関係不明)。(明治20年)8月に出された住民らによる「大住郡曽屋村飲料水改良按」によると、鉄管は高価であり、竹や木では腐敗破損の恐れがある。普通の土管では無理だが、特製の土管と新しい接合方法であれば、試験の結果曽屋の高低差でも耐えうるとしている[3]。
陶管を提案したのは梶山良助であった。梶山は九州で8年もの間陶器の焼き方から窯の作り方に至るまで研究をした経験があり[16]、水圧の生じる近代水道でも陶器が耐えうるという確信があったという[13]。梶山は水道敷設事業の役職を無報酬で受け、家財のほとんどを水道敷設のために投じたとされる。(神奈川県誌、1913)
(明治21年)3月、供用者37名の連署で、示された通りの計画で私費によって敷設をするので工事監督をしてほしいという内容で「水道布設并工事監督願」を大住ゆるぎ郡長に申請[3]。
、事務所は梶山良助の家に置かれた[3]。
工事担当者を梶山と川口直次郎の2名とし、水道工事にかかわる一切の責任を負うこととなった[3]。
同年11月に起工して1890年(明治23年)3月に竣工した。
築造法は横浜水道と同じ方法を採用し、器械等は県庁を通してイギリスへ注文したり[15]、貯水浄水施設の規模を参考にした(https://dl.ndl.go.jp/pid/2946390/1/5)。など、横浜水道を敷設したばかりの神奈川県下であったことも早期敷設に大いに貢献していたとみられる。
水源は配水池の西北に1,145mの距離にある宮ノ前郷社境内の清泉3個(水量1分間に2.8m3)だった[12]。
水源は以前から同地域の用水路の水源となっていた曽屋神社境内からとられた。水源から南西に約90m離れた位置に浄水場を置き、円形のコンクリート製沈殿池、3つの濾過池、貯水池を備え、当時の人口3,250人に1人1日20英ガロン(90リットル)を供給した[12]。
工事費は当初5,500円と見積もっていた(37人の委員で1500円、住民200人で1500円、残りを利用者から徴収する計画)ところ、防火設備の追加やその他の変更があり最終的には11,365円を要した。5,000円を区公債として国から調達したものの、水道条例(1890年)の発布される前の完成でもあり、国や県からの金銭的な補助は受けず、地元有力者の寄付や住民の負担によって、1890年(明治23年)3月15日に完成した[11][10]。
陶管
[編集]鉄管は当時、イギリスから輸入しなければならず高価であった[11][注釈 1][17]。1921年(大正10年)の資料では鉄管に比べて約半額であると宣伝されている[18]。郡山の案では修正として追加で36,450円を計上。
水道管(土管)には愛知県の常滑土管株式会社が製造した常滑焼の陶管を使用し、陶管を用いた近代水道は日本初であった。総延長は約6,870m[12]。陶管は内径3寸(約10cm)、長さ2尺(約60cm)、松脂と洋ろうを混ぜて接合した[12]。水源地と給水末端地の標高差24mに相当する水圧35psi(重量ポンド毎平方インチ)の倍以上にあたる80psiの水圧試験を神奈川県庁により実施したところ、当初の陶管では合格品は3分の1に留まり、[19]当時の技術水準からすると厳しいものであった。
枝管や十字管などの異形管も全て陶管とし、バルブと消火栓には接続鉄管を使用した[19][20]。
常滑土管
[編集]当時、愛知県の常滑土管(常滑焼)は品質が高いことで広く知られており、全国の土管の生産地の中でも筆頭であった[21][22][23]。陶器製の土管は上下水道管や鉄道敷設に伴う導水管などのほか、電気事業用途の需要があった[24]。
供給開始以降
[編集]供用開始時点で専用栓50栓、共用栓50栓、消火栓が21栓[9][19]。供給人口4400人。ただし消火栓については震災後の被害調査の記録では放水できる量は少なく実用的でなかったと評されている[20]。
加入金は1口200円、1栓増設につき50円だった。
ろ過池は水源の水質が良かったことから実質的には使用しなかった。
稼働から20年後に貯水池に上蓋を設置した[20]。
専売公社に専用栓[3]。継手から漏水が見られ、専用栓の追加はいかなる理由でも認めなかった。しかし、明治29年に大蔵省煙草専売支局が設置されることになり、飲料水として専用栓を引きたいとの申し出があった。専売支局の新設は町の発展や経済への影響が重大であるとみられたため、曽屋区会で協議され、明治30年に専用栓の加入金と敷設に関する議案で定められた。
増水[3]。給水能力は限界に達しており、増水の必要性があった。明治32年9月に80間の隧道を掘って増水した。また、明治36年2月に貯水池から四ツ角までの434間の直通管を敷設し、東部の集落へ給水した。
大正3年10月、180間の隧道を掘る増水工事。夏季には濾過・沈殿能力を超えたが、元々源泉の水質が高かったこともあり源泉から直接配水することもあった。給水能力が十分向上したことにより、醸造・豆腐・湯屋等の線用栓不許可の取消しを決議し、水を大量に消費する業種での商用利用が解禁されている[3]。
水道料金、他と比べて。
梶山良助は明治44年3月に内務大臣から水道敷設の功労者として金150円を贈られ表彰を受けた[13][25]。
他の市町村による視察と陶管水道の検討
[編集]曽屋水道は開通からしばらくは全国でも数少ない近代水道であるだけでなく、他に類を見ない陶管水道であり、自営の簡易水道であったことから、水道敷設を検討している他の自治体からの視察が多かった。しかし、曽屋水道以降で水圧のかかる上水道に陶管を用いて敷設した例は資料に残っていない。以下に他の自治体による視察や、各地方議会で陶管が検討された例を示す。
曲松水道
[編集]現在の秦野市西地区曲松(渋沢駅の南口地域)は秦野地域でも2番目に敷設された水道である。陶管水道が使われたようである。(https://dl.ndl.go.jp/pid/9523033/1/239)土管と竹樋の2説あるが、土管を用いて敷設する契約の記述がある。細部は不詳である。
明治33年5月起工、明治34年6月敷設(曲松水道記念碑)(百年史)
大阪市
[編集]大阪市では水道の新規敷設の計画に際して、一部の議員から陶管を採用することで建設費用を抑えられるだろうという声があり、調査のため曽屋水道を視察している。しかし、(明治24年)3月の大阪市会における報告では、「大阪のように人口の増減があり頻繁に家屋の建て替えがある都会では鉄管ほど水栓の追加が容易ではなく適さない」とかなり否定的な論調で報告され、陶管は採用しなかった[26][27][17]。
宇都宮町
[編集]栃木県宇都宮町(現在の宇都宮市)は横浜水道と曽屋水道を視察した上で(明治25年)2月、陶管による敷設計画を議会で可決した。しかし、町の資金不足と地域の水不足がそこまで深刻でなかった事から、敷設は時期尚早であるとの反対が根強く敷設の延期が決まり、その後の日清・日露戦争も影響してついに計画は実現しなかった[28][29][30][31]。
郡山町
[編集]同様に水道の敷設を検討していた福島県安積郡郡山町(現在の郡山市)は、(明治38年)6月に曽屋水道を視察した。(明治40年)2月に郡山町議会で可決された当初案では経費削減策として陶管で敷設する計画だったが、同年4月に鉄管案に改められた[32][33][34]。
他自治体
[編集]視察は他にも山形県西村山郡谷地町(現在の河北町、明治32年6月)[35]、福島県石城郡平町(現在のいわき市、明治39年8月)[36][37]、山形県西田川郡栄村(現在の鶴岡市、明治43年9月)[38]、群馬県利根郡沼田町(現在の沼田市、大正6年12月)[39]などが記録に残っている。また視察の有無は不明だが、埼玉県秩父町(現在の秩父市、1916年(大正5年)11月)[29]や、富山県東礪波郡出町(現在の砺波市、1918年(大正7年)8月)[40][41]では各議会で陶管による敷設計画を一旦可決したものの、いずれも事業認可までに鉄管に改められている。
富山県出町で採用?(https://dl.ndl.go.jp/pid/1243410/1/114、https://dl.ndl.go.jp/pid/1175442/1/149)
計画は土管であったが、消火用は耐圧が必要なので、配水管を鉄管に、送水管を常滑の特性陶管に変更。前設計は大正7年、資料は大正10年。(https://dl.ndl.go.jp/pid/3023794/1/264)
鉄管に敷設し直した(https://dl.ndl.go.jp/pid/1175442/1/149)、資料:昭和6年。
富山県最初の水道(https://dl.ndl.go.jp/pid/3276573/1/103)
疫病感染者数の減少
[編集]全国の水道が敷設された地域は疫病感染者数の変化は注目されており、文献で確認できる。横浜函館秦野。(https://dl.ndl.go.jp/pid/1561595/1/31)
関東大震災と鉄管による再敷設
[編集]関東大震災
[編集]陶管は敷設から30年以上稼働したが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により陶管の3分の1以上が破損し[12]、ろ過池にも大きな亀裂を生じた[19]。震災に伴い中心市街地で大規模な火災が発生したが、寸断した水道は消火活動に十分な機能を果たせず、秦野町内では232戸が全焼している[10]。陶管を応急修理して復旧するまでは、役所が四ツ角に大きな樽を設置して水源からは竹により引水し、住民はそれを生活用水とした[10][42][43]。水源の湧水量については、地震による目立った変化はなかった[20]。
交通などの混乱もある中、代わりとなる陶管の入手には常滑に特使を派遣して手配し、順次到着次第取り替えて同年11月下旬に全て復旧した[20]。
水道管の埋設はほとんどの地点で深さ4尺(約1.2m)であり、この深さで埋設した陶管の破壊はいずれの地域でも一様に3分の1であった。しかし、一部地形上の理由で深さ8尺(約2.4m)に埋設していた陶管は、地質的な違いはないにもかかわらずほとんど損傷していなかったという。この地中深さと破壊率の関係は地震の特性によるものであり、他の都市で使用された鉄管でも類似の傾向が見られ、土木工学の専門書でも題材として扱われた[44]。また、後の調査報告によると陶管同士の接合部は頑丈でほとんど損傷がなく、主に直管部分の断面が変化する部分で破損していたという[20][41]。
震災から間もない1924年(大正13年)2月に秦野町長や町会議員が郡山へ赴き、現地の水道を視察した際、曽屋水道でも鉄管を採用していればここまで損壊しなかっただろうと述べ、(郡山側の記録であることに留意は必要だが)当初から鉄管を採用した郡山を羨ましく思ったという[33][34]。
鉄管による敷設
[編集]梶山久太郎、山岸亀太郎、石田佐吉を水道敷設委員として選抜し、1924年(大正13年)3月に復興計画が作られた。業者の選定は1日も早い供給開始を目指して入札ではなく指名とし、鉄管は大阪市の栗本合資会社に、敷設は同じく須賀商会に発注した[43]。納入された鉄管の水圧試験は曽屋神社前で実施された[43]。同年7月から埋設工事が始まり、9月には幹線の敷設が完了し、郡長や議員、報道関係者らを集めて盛大に通水式が開かれた。旧来の陶管水道は1925年(大正14年)1月10日に廃止され[43]、同年11月、鋳鉄管による新しい水道が完成した[11][19]。工事費は156,853円58銭であった[19]。水道条例の適用を受けている(https://dl.ndl.go.jp/pid/3551437/1/28)。
鉄管による新しい水道のは人口1万人に対して1人1日最大167リットルを給水するものであった。町内への配水には15kWの加圧ポンプを設置し、総延長は9,032mだった[19]。
また、鉄管の計画自体は大正3年に年4銭の料金を8銭とし、将来の鉄管敷設の積み立てにすると報じている(秦野市史4巻近代史料1)。
市内水道事業の統合と現在の秦野市の水道
[編集]1944年(昭和19年)10月1日に曽屋区水道事業が秦野町に移管された[9][10][45]。それまでの自力経営[46]を終えた。
曽屋水道記念公園
[編集]旧曽屋配水場を整備し、xx年から公開されている。
地下配水池の他、ポンプ室が見られるほか、当時使用されていたポンプが展示されている。
曽屋配水場(現在の公園)内には1936年(昭和11年)に50周年の水道記念碑が建てられている[47]。
秦野市上下水道局
[編集]秦野市上下水道局(はだのしじょうげすいどうきょく)は秦野市の上水道と下水道を管轄する地方公共企業、水道事業者。
施設
[編集]上水道
[編集]下水道
[編集]水源
[編集]地下水7割、県水3割。
上水道の歴史
[編集]統合前の上水道
[編集]水道条例?による手続きをしないで地方庁限りで許可を受けるか、無届で敷設されたものがある。(水道条例:明治23年2月施行[48])
昭和30年に秦野市が発足するのと前後して、市内では集落ごとに独立した簡易水道が30弱存在した[46]。昭和35年以降の秦野市内への新産業の誘致により宅地化と人口の急増が起こり、昭和43年には市内全域で断水や減水が生じる事態となった。
1962年昭和37年3月の拡張工事の竣工時点で、その供給能力は2万人弱に対して1人1日300リットルにまで向上していた[19]。
上水道の統合
[編集]昭和44年から統合整備事業を進め、市内の水道事業は逐次統合されていった[46]。昭和56年度で統合が完了した[11]。 箇条書き(秦野の水)
- 秦野市水道 - 昭和44年統合
- 本町第一水道(曽屋水道)
- 東水道 - 昭和49年統合
- 東簡易水道
- 北簡易水道 - 昭和52年統合
- 横野簡易水道
- 上簡易水道 - 昭和53年統合
- 上区簡易水道
- 菩提遠山簡易水道
統合後の上水道
[編集]昭和51年7月に県水の受水を始める[11][49]。県水は小田原市から相模川へかけて揚水している。(https://dl.ndl.go.jp/pid/10261038/1/196)
昭和45年4月、水資源不足に対する地下水の調査研究として、秦野市水道局と委託を受けた温泉地学研究所で秦野盆地の地下水の涵養状況などを把握するための調査を実施した。この調査では100mの試錐でも地盤に到達せず、重力探査や地震探査によって150m程度と推定したほか、雨水の浸透量や地下水の流量が見積もられ、水収支がマイナスであることが明らかになった[46]。
人工涵養は現在でも続いている。
下水道の歴史
[編集]認可。
下水道処理施設の稼働開始。
その他
[編集]秦野水道百年史より↓
- 昭和46年から「秦野市水道統合整備事業」を開始。13水道。
- 昭和56年から、第2次拡張事業。
↑
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 上水道用の耐圧鉄管は、1893年(明治26年)2月、大阪市の水道敷設時に初めて国内製造した
出典
[編集]- ^ a b “秦野の水道の歴史・曽屋水道記念公園 | 秦野市役所”. www.city.hadano.kanagawa.jp. 2024年7月13日閲覧。
- ^ “曽屋水道 | 秦野市役所”. www.city.hadano.kanagawa.jp. 2024年7月13日閲覧。
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