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利用者:プブリリウス/下書き2

経歴[編集]

青年期[編集]

ウェスタの処女裁判[編集]

ルクッルスの下で[編集]

クロディウスは、第三次ミトリダテス戦争では義弟ルクッルスの下でレガトゥスを務めたと考えられている[1]紀元前69年10月、ティグラノセルタの戦いに勝利したルクッルスはさらなる侵攻を計画してはいたが、アルメニア王国の冬は厳しく、兵士の不満が高まっていた。ルクッルスは彼らを説得しながらニシビスを攻略したものの[2]、そこで兵たちの不満が爆発した。反乱の主体となったのはフラックスの下で紀元前86年小アシアに送り込まれた兵たちで、クロディウスはそれを主導したという。このとき、翌紀元前67年の執政官グラブリオが小アシアに派遣されており、それを知った兵たちはルクッルスはもう私人に過ぎないとして騒ぎが拡大した[3]

プルタルコスは、クロディウスが自分にふさわしい地位と名誉を得られていないことに不満を抱き、元々一度フラックスを裏切った兵たちを扇動したとし、その演説内容(「もっと兵のことを考えてくれる指揮官のためにその命を使おうではないか!」)まで書き記しているが[4]、そのようなことをすれば後に訴追され処罰を受けるはずで、プルタルコスの演出である可能性が高い[5]インペリウムを持った指揮官であっても、レガトゥスやトリブヌス・ミリトゥム、元老院議員らで構成される軍中コンシリウム(会議)での意見統一は欠かせないもので、パトリキであったクロディウスはコンシリウムにおいて、20年近く軍務に就いているフラックス兵たちを帰還させるべきだと主張し、ルクッルスの軍は指揮官が交代するまで待機していたのではないかと推測する説もある[6]。もっとも、兵たちの不満の原因はルクッルスの軍規の厳しさにあると考える学者もいる。キケロはクロディウスが訴追を逃れるために買収したことを示唆しており、それを逃れた彼は何かルクッルスの弱みを握っていたのではないかとも考えられる[7]

その後、彼はルクッルスの下でその邪悪な本性を現し、軍をかき乱して逃亡する。
ローマに戻るや、告発を恐れ、親族を頼り、
カティリーナから金を得て、破廉恥な方策で逃げおおせる。

キケロ『臓卜師の回答について』42

マルキウス・レクスの下で[編集]

ルクッルスのもとから逃亡したクロディウスは、プロコンスルとしてキリキアに派遣されたマルキウス・レクスの下で働いたと考えられている(艦隊運用を行うプラエフェクトゥス・クラッシスか)[1]。そこで彼は海賊の捕らえられたものの、当時精力的に海賊討伐を行っていたグナエウス・ポンペイウスを恐れた彼らは、クロディウスを解放した。クロディウスはセレウコス朝アンティオキアへとやってきて、彼らの同盟者となることを宣言したが、ここでも彼は反乱を起こして死にかけたとカッシウス・ディオは記している[8]。なんらかの内紛に巻き込まれたとも考えられ、その後クロディウスは帰国した[9]

長じるや軍に身を投じ、海賊に辱めを受け、
キリキア人や野蛮人共の欲望すら満たす。

キケロ『臓卜師の回答について』42

カティリーナ告発[編集]

帰国したクロディウスは、紀元前65年、カティリーナを贈賄罪(repetundae)で告発した[10]

、、、今は対抗候補のカティリーナの弁護を考えている。
検察の同意が得られ、こちらの望む審判人が得られそうだ。
無罪を勝ち取れれば、票集めの力になってくれるだろうが、、、

キケロ『アッティクス宛書簡』1.2

脚注[編集]

  1. ^ a b Broughton Vol.2, p.140.
  2. ^ プルタルコス対比列伝』ルクッルス、31-32
  3. ^ ディオ『ローマ史』36.14
  4. ^ プルタルコス『対比列伝』ルクッルス、34
  5. ^ Mulroy, pp.162-163.
  6. ^ Mulroy, pp.164-165.
  7. ^ Lintott, p.158.
  8. ^ ディオ『ローマ史』36.17.2-3
  9. ^ Lintott, p.157.
  10. ^ アスコニウス『キケロ古註』85

[注釈 1]

注釈[編集]

  1. ^ 1

参考文献[編集]

  • ティトゥス・リウィウス 著、岩谷智 訳『ローマ建国以来の歴史 2』京都大学学術出版会、2016年。 
  • T. R. S. Broughton (1951, 1986). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association 
  • T. R. S. Broughton (1952). The Magistrates of the Roman Republic Vol.2. American Philological Association 
  • Carl de Boor (1873). Fasti Censorii. Apud Weidmannos. OCLC 28619073 
  • ガイウス・スエトニウス・トランクィッルス 著、国原吉之助 訳『ローマ皇帝伝 上下』岩波文庫、1986年。 
  • ティトゥス・リウィウスローマ建国史』。 
  • 林智良『共和政末期ローマの法学者と社会』法律文化社、1997年。 
  • A. W. Lintott (1967). P. Clodius Pulcher--'Felix Catilina?'. Cambridge University Press 
  • W. M. F. Rundell (1979). Cicero and Clodius: The Question of Credibility. Franz Steiner Verlag 
  • David Mulroy (1988). The Early Career of P. Clodius Pulcher: A Re-Examination of the Charges of Mutiny and Sacrilege. Johns Hopkins University Press 


Leges Clodiae[編集]

クロディウス法ラテン語: Leges Clodiae)は、共和政ローマ末期にプブリウス・クロディウス・プルケルによって定められた一連の法。パトリキの名門クラウディウス氏族出身であったプブリウス・クラウディウス・プルケルは、紀元前59年カエサルグナエウス・ポンペイウスの支援を受けプレブスに転出しクロディウス氏族へ養子入りした[1][2][3]。彼は紀元前58年に護民官に当選し、私怨のあったキケロ追放法案など、数々の法を成立させた。

リスト[編集]

  • Lex Clodia de provinciis consularibus
  • Lex Clodia de permutatione provinciarum
  • Lex Clodia de exilio Ciceronis
    • キケロ追放法
  • Lex Clodia de iniuriis publicis
    • アナグニアのメヌッラのための公的傷害罪の法。メヌッラはこれに感謝してクロディウスの銅像を建てたというが、キケロはこの法によってアナグニアの民衆は悲嘆に暮れたとしている[4]
  • Lex Clodia de iure et tempore legum rogandarum
  • Lex Clodia de obnuntiatio
    • 不吉な前兆の発表は、決められた時と場所で主任政務官に直接行わなければならないとする改革案。護民官によるオブヌンティアティオ(不吉であるとして投票やケンソルの作業を遅延させる工作)を防ぐ
  • Lex Clodia de rege Deiotaro et Brogitaro
  • Lex Clodia de rege Ptolemaeo et de insula Cypro publicando
  • Lex Clodia de scribis quaestoribus
  • Lex Clodia frumentaria
  • Rogatio Clodia de libertinorum suffragiis

Lex Clodia de capite civis romani[編集]

正式な手順を踏まずローマ市民を処刑したものに対する法。キケロを狙い撃ちにしたものとされる[6]

市民がディクタトル(独裁官)や審問所による判決以外で死刑を宣告された場合、ウァレリウス氏族が3度に渡って通してきたウァレリウス法(Lex Valeria de provocatione)によって、プロウォカティオ(上訴)してケントゥリア民会での再審査を受ける権利が認められていた。さらに紀元前133年にはティベリウス・グラックスの提案(Rogatio Sempronia de provocatione)があり、弟のガイウス・グラックス紀元前123年にLex Sempronia de capite civis romaniを通している。

Lex Clodia de censoria notione[編集]

ケンソリア・ノタ(ケンソルの譴責)に関する法。一度譴責を受けた人間に対して再度譴責を行うことを禁じた[7]。譴責を行う場合は2名のケンソルの双方によってその必要が認められた場合のみとされた[8]。従来これはクロディウスが将来譴責を受けないようにするためと解されていたが、現代の研究者はこれを否定している[9]

ケンソルは同僚制ではあったが、譴責は双方の同意を必要とせず、ケンソルは誰にはばかることなく独自に譴責を行うことが出来、弁明も撤回も許されなかった。そのため、紀元前204年にはケンソルのマルクス・リウィウス・サリナトルガイウス・クラウディウス・ネロが、お互いの公有馬を没収し、お互いにアエラリウス(屈辱的な地位)に落としあうという事態が起っている[10]紀元前70年のレクティオ(ケンソルが行う元老院議員の検討)によって64名もの議員が除名されており、これにはルキウス・コルネリウス・スッラコルネリウス法(de XX quaestoribus)によって、クァエストルの増員と議席の自動的付与が定められたため、常に定数オーバーする可能性が高まったことが要因とする考察もある。

クロディウスの改革は、レクティオの段階で譴責の対象となる議員の弁明と、民衆が見守る査問会によって双方のケンソルが議員の失点を認める必要があるようにしたもので、これは常に除名される可能性のあった末端の議員にとっては有利と言える内容であった。

Lex Clodia de collegia[編集]

元老院決議によって紀元前64年に禁止されていたコッレギウム(組合、ギルド)を復活させる法。新たなギルドも設立された[11][12]

クロディウスは再結成された組合を権力基盤の一つとして重視していたと考えられている。そのうちの一つがコッレギア・コンピタリア(四つ辻のラレース組合)で、クロディウスが護民官となった紀元前58年1月1日、はやくもこのラレースを祀る祭りが再開されており、部下であるセクストゥス・クロディウスにこれを主催させている[13]

脚注[編集]

  1. ^ Broughton Vol.2, p.195.
  2. ^ リウィウス『ペリオカエ』103.4
  3. ^ キケロ『アッティクス宛書簡集』8.3.3
  4. ^ キケロ『彼の家について』81
  5. ^ ディオ, 38.13.1.
  6. ^ 角田, p.77.
  7. ^ キケロ『ピーソー弾劾』9
  8. ^ ディオ, 38.13.2.
  9. ^ Tatum(1990), pp.39-40.
  10. ^ リウィウス『ローマ建国史』29.37
  11. ^ キケロ『セスティウス弁護』55
  12. ^ キケロ『ピーソー弾劾』9
  13. ^ 砂田(1990), p.90.

参考文献[編集]