利用者:メリース/試作/デソラシオン島
デソラシオン島の位置 | |
地理 | |
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場所 | チリ |
諸島 | ティエラ・デル・フエゴ |
面積 | 1,352 km2 (522 sq mi) |
長さ | 113.6 km (70.59 mi) |
幅 | 19.2 km (11.93 mi) |
海岸線 | 866.1 km (538.17 mi) |
最高標高 | 1,097 m (3599 ft) |
行政 | |
州 | マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州(XII州) |
県 | マガジャネス県 |
コムーナ | プンタ・アレーナス |
人口統計 | |
人口 | 0 |
デソラシオン島(スペイン語: Isla Desolación)は南アメリカ最南部、ティエラ・デル・フエゴにあるチリ領の無人島。マゼラン海峡の西端に位置し、島の北西端はピラール岬(スペイン語: Cabo Pilar)と呼ばれる。島の西方30 kmにはエバンヘリスタス諸島と呼ばれる四つの岩がある[1][2]。マガジャネス・イ・デ・ラ・アンタルティカ・チレーナ州(XII州)のマガジャネス県プンタ・アレーナス市に属する[3]。
歴史
[編集]山がちで厳しい自然環境や資源の乏しさから、カウェスカル人がごくたまに訪れるだけであった。カウェスカル人は白人入植者の活動によって19世紀半ばにほぼ絶滅した。
1670年、イギリス海軍の司令官ジョン・ナーボロウがこの地を訪れ「南の荒廃の地」(スペイン語で言うデソラシオン)と呼んだ。このことについて、19世紀のチリの上院議員Francisco Astaburuagaは著書『Diccionario geográfico de la República de Chile』(チリ共和国地理辞典、1899年)において「デソラシオンはサンタ・イネス島の西部のことだ」と指摘した[4]。20世紀初頭までは、この付近の探索が十分でなかったため、デソラシオンがサンタ・イネス島と別の島であることは確認されていなかった。
1827年2月、イギリス海軍の司令官プリングル・ストークスはビーグル号を率いてデソラシオン島の調査を実施し、島の北端かつマゼラン海峡の西口の南側であるピラール岬の位置を確定させた。この調査の間、ストークスはPuerto Misericordiaにおいて何組かのフエゴ島民と接触した[5]。
その後、1829年12月、ロバート・フィッツロイ司令官はビーグル号の2度目の航海を率い、デソラシオン島の南岸における偵察と水路調査を実施した。彼はDislocación湾(スペイン語版: Bahía Dislocación)とBarrister湾(スペイン語版: Bahía Barrister)、そしてグラベス島やレカラダ島、Week島(スペイン語版: Islas Week)の周辺にある水路や湾に上陸した。彼はOtway湾(スペイン語版: Bahía Otway)とマゼラン海峡を結ぶ二つの水路を視認したが、時間がなかったため探索はしなかった。また、彼はグラベス島とレカラダ島でカウェスカル人と接触した[6]。
地理
[編集]ティエラ・デル・フエゴは太平洋と大西洋を結ぶマゼラン海峡の南側と東側に伸びている。そこには大小無数の島があり、運河や入り江による複雑なネットワークを形成している。海峡の分布に基づき、学術的に以下の三つの地域に分けられる。
- NOの島 - ティエラ・デル・フエゴ北西部(noroeste)
- 大島 - フエゴ島(isla Grande)
- S及びSEの島 - ティエラ・デル・フエゴ南部と南東部(sur, sureste)
デソラシオン島はその中で、Magdalena海峡(スペイン語版: Canal Magdalena (Chile))とCockburn海峡(スペイン語版: Canal Cockburn)より西となる「NOの島」に属する。
ティエラ・デル・フエゴの地形は急峻な山岳および島嶼地帯、そしてなだらかなパンパ地帯[注 1]の二つに分けられる。フエゴ島の南部3分の1とマゼラン海峡以南のすべての島が前者で、それ以外が後者である。デソラシオン島は前者に属する。島の最高峰は標高1,097 mまたは1,128 mのHarte Dyke山で、非常に急な地形である。
島の長さは71マイル、幅は最大20マイルで、おおむね西北西 - 東南東の方向に延びる。北はマゼラン海峡、東はサンタ・イネス島およびリセ・トレボル諸島を隔てるAbra海峡(スペイン語版: Canal Abra)、南と西は太平洋に面する。
地形は急峻で、不毛な丘の間には多数の池がある。偏西風から守られた谷間には多くの木が生えている。入り江では小河川から真水が得られ、薪も豊富である。
沿岸部は島の軸に対して垂直に、切り立った入り江や洞穴が多数あり、これらはかつてこの地を覆っていた大規模な氷河や氷原の痕跡である。島の北部にはPuerto Misericordia、Tuesday湾、Trujillo湾、Felix湾、Wodsworth湾、Puerto Churruca、Puerto Uplightなどが、南部にはMataura湾(スペイン語版: Caleta Mataura)、Puerto Loberos、Dislocación湾、Latitud湾(スペイン語版: Bahía Latitud)、Otway湾などがある[7]。
北西端
[編集]デソラシオン島の北西端であるピラール岬の座標は、この地を訪ねた数人が測定している。以下の表で、現代に測定された数値と比較する。
測定者 | 出身国 | 出発年 | 緯度 | 経度[注 2] |
---|---|---|---|---|
ジョン・ナーボロウ | イギリス | 1670年 | 南緯53度 | 5分西経78度 | 1分
ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル | フランス | 1766年 | 南緯52度50分 | 西経76度36分 |
アントニオ・デ・コルドバ | スペイン | 1785年 | 南緯52度45分 | 西経74度58分 |
(現代) | - | - | 南緯52度44分 | 西経74度40分 |
北西のもう一つの岬はかつてEspiritu Santo(聖霊)と呼ばれていたが、イタリアの航海者アントニオ・ピガフェッタによると、フェルディナンド・マゼランがデセアド岬(Cabo Deseado、待望の岬)と命名したという。デセアド岬とピラール岬は2マイル離れている。
気候
[編集]この地域では、雨や曇りなど、ほぼ常に悪天候が続く。気候は海洋性で、1年を通して同じくらいの気温である。風は主に西から、ほとんど途切れることなく吹く。
生物相
[編集]植物は、野生のベリーや海藻の一種が見られる。
動物は、野生のガチョウやカモが生息している。海岸ではイガイ科、カサガイ、ウニなどが見られる他、アシカ、カワウソ、イルカ、クジラなどが沿岸を訪れる。
地質
[編集]地質学的にも、アメリカ大陸の南の続きとなっており、土壌の性質は第三紀に属する。
フィッツロイによる1829年の調査の際、プエルト・デセアド(アルゼンチンのサンタ・クルス州)で見たような赤い斑岩が見つかった。また、2エーカーほどの白い砂地が草でまばらに覆われているのも見られた[9]。
フィクションにおけるデソラシオン島
[編集]アメリカ合衆国のダグラス・プレストンとリンカーン・チャイルドによる小説『The Ice Limit』(英語版: The Ice Limit)では、チリのホーン岬に近いデソラシオン島への遠征について説明されている。小説のペーパーバック版に描かれた地図には、東方のウォラストン島が間違ってデソラシオン島と記されているが、これについて著者は意図的であると述べた。ジェームズ・ミッチェナーの小説『Hawaii』(英語版: Hawaii (novel))では、帆船によるマゼラン海峡の通過の試みが描かれており、デソラシオン島の西の出口が航海の最も難しい場面であると述べられている。ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』では、語り手のIshmaelが、マサチューセッツ州ニューベッドフォードの礼拝堂にある捕鯨家John Talbotの名が刻まれた大理石の銘板を思い起こす。Talbotはパタゴニア沖、デソラシオン島の近くで捕鯨家としての人生を終えた人物である。
イギリスのパトリック・オブライアンの小説『Blue at the Mizzen』(英語版: Blue at the Mizzen)では、イギリスの戦列艦が平時の作戦として、チリとマゼラン海峡に派遣される。
アメリカのアニメーション番組『ジャッキー・チェン・アドベンチャー』の第2シーズン第24話では、主人公のジャッキー・チェンが"Eye of Aurora"を用いて悪役Vanessa Baroneをデソラシオン島に転送し「そこはチリの沖合にある小島で、地球で最も人里離れた場所の一つだ」と発言する。
注釈・出典
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ J. David Williams (1873年). “Patagonia”. The Peoples' Pictorial Atlas. 2021年5月29日閲覧。
- ^ J. H. Colton (1857年). “Patagonia”. 2012年1月10日閲覧。
- ^ “Región de Magallanes” (スペイン語). マガリャネス県. 2021年5月29日閲覧。
- ^ Solana A 1899, p. 741.
- ^ King 1839, p. 74-78.
- ^ King 1839, p. 361-371.
- ^ Instituto Hidrográfico 1958, p. 62-64.
- ^ Herbert K. Bealsほか 2007, p. 140.
- ^ King 1839, p. 366.
関連項目
[編集]- パタゴニア
- Historia de la patagonia - パタゴニアの歴史(スペイン語版)
- Canales patagónicos - パタゴニアの海峡(スペイン語版)
- Islas de Chile - チリの島(スペイン語版)
- Punta Dungeness、Cabo Vírgenes - マゼラン海峡東端の岬で、南アメリカ大陸側(スペイン語版)
- Cabo del Espíritu Santo - 同じく、フエゴ島側(スペイン語版)
参考文献
[編集]- Solana A., Francisco (1899) (スペイン語). Diccionario geográfico de la República de Chile. トロント大学
- P. P., King (1839) (英語). Narrative of the surveying voyages of His Majesty's Ships Adventure and Beagle between the years 1826 and 1836, describing their examination of the southern shores of South America, and the Beagle's circumnavigation of the globe. ロンドン: Henry Colburn
- Instituto Hidrográfico, de la Armada (1958) (スペイン語). Derrotero de la Costa de Chile Volumen V. Instituto Hidrográfico de la Armada
- Herbert K., Beals; R. J. Campbell, Ann Savours, Anita McConnell, Roy Bridges (2007) (英語). Four Travel Journals / The Americas, Antarctica and Africa / 1775-1874. ロンドン: Hakluyt Society. ISBN 9781315582894