利用者:ユキポン/広島市・長崎市への原子爆弾投下記事ユキポン草案
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広島市・長崎市への原子爆弾投下(ひろしまし・ながさきしへのげんしばくだんとうか)
この項目では、第二次世界大戦末期の1945年にアメリカ軍が日本の広島市および長崎市に行った原子爆弾の投下に関連する情報全般を記述する。なお、既に他の記事にて詳細が記載されている事項については、要約のみにとどめる。
概要
[編集]--ここから英語版 09:25, 7 March 2007(UTC)から翻訳したものを改変 主な著者:Iseeaboar,Get-back-world-respect,68.35.159.18,Silverback,Philip Baird Shearer--
1945年8月6日、原子爆弾「リトルボーイ」が広島市に、続く8月9日には「ファットマン」に投下された。これにより各都市は壊滅的な打撃を受け、多数の犠牲者を出した。2024年現在、人類史上において核兵器が実戦で使用されたのはこれきりである。
被爆直後だけでなく被爆から数ヵ月後、数年後に死亡した犠牲者も多く、また犠牲者の数が政治的に誇張されたり矮小化されたりしているため、確かな数字を算出するのは難しいが、広島では爆撃とその影響で140,000人が、長崎ではおよそ74,000人が亡くなったといわれている。どちらの都市でも、市民の圧倒的多数が死亡したことになる。
原爆投下の効果と正当性については現在でも議論され続けている。アメリカ合衆国では、原爆投下が戦争を終了させるのを早め、日本の侵略で失われる恐れがあった多くの人命を救ったという見方が支配的である。日本では、原爆投下は不必要であり、故意に多くの市民を死傷させたことは人道に反するという見方が支配的である。
投下までの経緯
[編集]--ここから英語版 09:25, 7 March 2007(UTC)から翻訳したものを改変 主な著者:Iseeaboar,Get-back-world-respect,68.35.159.18,Silverback,Philip Baird Shearer--
詳細はマンハッタン計画を参照のこと。
アメリカ合衆国はイギリスとカナダの協力を得て、マンハッタン計画の下初めての原子爆弾を設計・製造した。このプロジェクトはナチスドイツが大規模な爆弾を製造するかもしれないと恐れたヨーロッパから亡命してきた科学者(アルベルト・アインシュタイン含む)とアメリカ人科学者が進言したことで始まった。(のちにナチスドイツの計画はより小規模で遅れていたことが判明する)ピーク時にはアメリカ全土に分布する30を超える研究所で130,000人の人員を雇い、20億ドルを費やすという史上稀に見るプロジェクトとなった。初めて開発された核装置は「ガジェット」と呼ばれ、1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで行われた「トリニティ」テストで初めて爆発実験が行われた。
アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはフランクリン・ルーズベルトが死去するまでマンハッタン計画の存在を知らなかった。7月上旬、ポツダムに向かう途中、トルーマンは爆弾を使用して再実験を行う決断をした。彼の主張は、原爆投下が戦争による破壊行為を即座に停止させる方法であり、日本に降伏させる十分な理由になるということだった。
標的の選択
[編集]1945年5月10日から11日にかけてロスアラモスでは、標的として京都、広島、横浜、小倉の兵器庫が選択された。委員会は軍事目標だけを対象とすることをやめた。そしてその兵器を最初に使うことで、国際的に核兵器の重要性を知らしめるには十分だと考えた。当初委員会は、京都は日本の文化の中心であり、人口も多く武器の存在を印象付けるのによいと考えられた。また広島は大規模都市であり、重要な陸軍倉庫があり、山に囲まれた地形のため「焦点効果」による大規模な損害を与えられることが予想されたため選考された。
ヘンリー・スティムソンはマンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス准将の意見を取り入れ、文化的に重要だという理由で京都をリストからはずした。7月25日、カール・スパーツ大将に対し、広島・小倉・新潟・長崎を対象として8月3日以降の天候のよい日に爆撃するよう命令が下された。また候補地以外(と除外された京都)では絶対に爆弾を落としてはならないと命令した。
原子爆弾投下
[編集]--ここから原子爆弾 2007年3月3日 (土) 05:20 (JST)からの一部コピー 主な著者:Kzhr,Ideal,Yytm2002,Bit,219.187.40.26--
広島市への原子爆弾投下
[編集]より詳細な被害状況に関しては広島市への原子爆弾投下を参照のこと。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。原子爆弾リトルボーイは、トルーマンの原子爆弾投下への決意(トルーマンの日記に7月25日夜投下決意の記載あり)により発した大統領命令を受けたB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こした。爆風の風速は音速を超えたという。この時の状況から、広島近隣では原子爆弾をピカドンと呼んでいる。
爆風と衝撃波による被害も甚大で、爆心地から2kmの範囲で(木造家屋を含む)建物のほとんど全てが倒壊した。爆発による直接的な放射線被曝のほかに爆発後の放射性降下物(フォールアウト)による被曝被害も発生した。広島の場合大量の放射性降下物を含む「黒い雨」が降ったことが特に有名。投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人も含めて急性障害が多発した。当時の広島市内には34万2千の人がいた。爆心地から1.2kmの範囲では8月6日中に50%の人が死亡した。1945年12月末までに14万人が死亡したと推定されている。その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られた。
長崎市への原爆投下
[編集]--ここから原子爆弾 2007年3月3日 (土) 05:20 (JST)からの一部コピー 主な著者:Kzhr,Ideal,Yytm2002,Bit,219.187.40.26--
より詳細な被害状況に関しては長崎市への原子爆弾投下を参照のこと。
ボックスカーによって長崎市に原子爆弾ファットマンが投下されたのは広島への原爆投下から3日後の1945年8月9日午前11時2分である。第一目標が八幡製鉄所に近い小倉市、第二目標が長崎市、そのほか人口密集地の福岡市、軍港のある佐世保市のいずれかであった。しかし、福岡と佐世保は1945年6月に爆撃済みであり、九州北部には濃い雲が広がっていたため、目視で投下できる長崎に変更された。投下地点は長崎市北部に位置する松山町171番地(現松山町5番地)テニスコートの上空であった。当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名、結局7万名以上が死亡した。
さらなる爆撃計画
[編集]--ここから英語版 09:25, 7 March 2007(UTC)からの翻訳 主な著者:Iseeaboar,Get-back-world-respect,68.35.159.18,Silverback,Philip Baird Shearer--
アメリカ合衆国は8月第三週に使用するために別の原子爆弾を用意していた。また9月にさらに3つ、10月に3つの原子爆弾を計画していた。8月10日、グローヴス准将は陸軍元帥ジョージ・C・マーシャルにメモを送った。その中には、「次の爆弾を8月17日か18日の天候のよい日に使用できるよう準備すべきだ」とあった。同じ日、マーシャルは「大統領からの指令がなければ使用できない」と返信した。このうち、日本への侵攻を計画したダウンフォール作戦が始まるまで爆弾を生産・保持できたのかについては議論が分かれている。
原爆使用の賛否
[編集]原子爆弾が実践で使用され、多くの非戦闘員が犠牲となったことには現在もなお賛否両論が続いている。以下はその両論の概略である。
肯定的意見
[編集]- 日本がポツダム宣言を無視したため、戦争を早期に終結させるためにはやむを得ない犠牲だった
- また複数回に渡って利用することで、原爆が量産体制であることを示し、日本に戦争継続を断念させた
- 実際に、原爆投下後まもなく日本はポツダム宣言を受託し、玉音放送でも「新型爆弾」がその要因の1つと述べられている
否定的意見
[編集]- トルーマンはポツダム宣言発表以前の7月25日の日記で、原爆使用を決意する旨を記している
- ヤルタ会談の密約によりソヴィエト連邦の対日参戦は決まっており、原爆を使用する必要はなかった(実際に日本はソヴィエトに講和の仲介を要請している最中で、8月9日にソ連対日参戦が始まるとすぐに御前会議を開いている)
- ソヴィエトに対する牽制や、人体実験の意味合いが含まれていた
ソヴィエト連邦への影響
[編集]ソヴィエトにおいては、ヨシフ・スターリンは既に1930年代からイーゴリ・クルチャトフ、ヤーコフ・ゼルドビッチ、ユーリ・ハリトンなどに命じて核物理学の研究を進めていた。そして1943年からは実際に原子爆弾の開発計画が始まったが、一向に進まなかった。その間にもアメリカに潜入したスパイであるクラウス・フックスからはアメリカの原爆開発の情報が伝えられ、ついに1945年8月6日には広島で実際に使用された。これを受け、スターリンは8月7日に原爆開発計画の司令官に悪名高いラヴレンチー・ベリヤを任命し、研究者に圧力をかけた。この結果、ソヴィエトは1949年8月29日にセミパラチンスク核実験場にて核実験に成功し、以後の軍拡競争が始まることとなった。
原爆投下後の状況
[編集]被爆者への対策
[編集]詳細は被爆者を参照のこと。
原子爆弾投下直後に多くの死傷者が出たが、その後も放射線の影響によって数ヵ月、数年にわたって原爆症と呼ばれる症状を発し、多くの人命が失われた。 1957年には原子爆弾被爆者の医療等に関する法律が施行され、被爆者健康手帳を交付され被爆者と認定された人は医療が無料で受けられることとなり、1963年には原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律が施行され、特別手当の支給等が行われるようになった。 1994年にこれらをまとめた原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律が施行された。(関連リンク[1])
日本国内に住む被爆者数は2006年3月時点で約27万人である。[1]2007年現在においても、原爆症認定を求める訴訟が行われている。また、被爆後に海外へ移住した日本人や、当時日本に在住していた外国人、いわゆる在外被爆者に対する支援を求める訴訟も行われている。
被爆者の子孫は被爆二世、被爆三世と呼ばれ、遺伝的影響について健康診断を通じ、調査が進められている。