利用者:ロリ/sandbox

おおたなか しゅういち

大田中 秀一
生誕 日本の旗 日本
職業 自動車ライター/自動車イラストレーター
テンプレートを表示


大田中 秀一(おおたなか しゅういち)は、自動車ライター・自動車イラストレーター[1]

来歴[編集]

乗りもの、特にクルマ好きで、見ること、乗ること、しゃべることすべてが好き。5年間のレース参戦経験を活かし、レーシングスクールインストラクターも時々務める。大型二種免許も所有していることもあり、運転技術に関しての研究も行なう。モビリティに関わることすべてを興味のままに取材、自動車専門誌並びにweb、経済ニュースサイトなどに寄稿している。世界のマイナーモーターショーウォッチャー、アセアン・ジャパニーズ・モータージャーナリスト・アソシエーション会長、インドネシアにも拠点がある無意識アセアンウォッチャー[1]


乗りもの、特にクルマ好きで、見ること、乗ること、しゃべることすべてが好き。5年間のレース参戦経験を活かし、レーシングスクールインストラクターも時々務める。大型二種免許も所有していることもあり、運転技術に関しての研究も行なう。モビリティに関わることすべてを興味のままに取材、自動車専門誌並びにweb、経済ニュースサイトなどに寄稿している。世界のマイナーモーターショーウォッチャー、アセアン・ジャパニーズ・モータージャーナリスト・アソシエーション会長、インドネシアにも拠点がある無意識アセアンウォッチャー。[2]


ジャカルタで過ごした少年時代、バジャイ(現地の名物三輪タクシー)を無免許で走らせクルマに目覚める。インドネシア語と英語を操るトリリンガルで、某電池系大手企業の国際営業部、父が経営するインドネシア企業を経て、現在複数のクルマメディアに寄稿中。語学力と押しの強さを武器に、世界のモーターショー巡りをライフワークとし、バスにまで及ぶ知識は仙人の域。[3]




いいだ ゆうこ

飯田 裕子
生誕 日本の旗 日本
職業 自動車ライター/自動車イラストレーター
テンプレートを表示


飯田 裕子(いいだ ゆうこ)は、自動車ライター・自動車イラストレーター[4]

来歴[編集]

短大卒業後、自動車メーカーに勤務しながら、レーサーである弟の飯田章とともに参加した自動車競技がきっかけで自動車のフリージャーナリストになる引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足しています。 また、「クルマの性能の進化を使い手であるユーザーにもっと知ってもらいたい」という考えのもと、安全/環境の啓蒙活動の一環として始めたドライビングスクールのインストラクターとしてのキャリアも15年以上。BMW、アウディ、アストンマーティン、メルセデスベンツなど自動車メーカーのほか、LPGA、一般企業などでも講師を務める。

免許を取得した神奈川では“一人一台"、東京では“一家に一台"のクルマ生活を経験し、2年半の北米生活をはじめ海外のCar & Life Styleにも目を向けている。「クルマ×人×生活」に主眼を置き、現在は、自動車専門誌(Web)、新聞、ライフスタイル系メディアへの執筆、テレビ、動画サイト、ラジオなどへの出演のほか、講演、シンポジウムのパネリスト、トークショーなど幅広く、女性からの支持も高い引用エラー: <ref> タグに対応する </ref> タグが不足しています

来歴[編集]

1980年代、大学卒業後ファッション・モード専門誌「WWD Japan」編集部の編集者として始まり。その後、90年~2000年代、中堅出版社ダイヤモンド社の自動車専門誌・副編集長に就く。以降、扶桑社の男性ライフスタイル誌「Straight’」など複数の男性誌編集長を歴任。その後、独立しフリーランスのエディターとなる[5]。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)があり、2015年3月に電子書籍としても発売される[6]

脚注[編集]

  1. ^ a b CarMeライター 大田中 秀一CarMe
  2. ^ https://www.kurumaerabi.com/car_mag/list/5943/
  3. ^ https://carview.yahoo.co.jp/article/detail/c40e1a4b6dc2d818c63eda4c7d6c64a6b58ddc09/?page=2
  4. ^ CarMeライター 飯田 裕子CarMe
  5. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「car me40」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  6. ^ https://www.bizcompass.jp/author/148













安龍福[編集]

粛宗 巻三十一  二十三年丁丑三月

対馬島に西界を送る事の妥当性可否を廟堂にとってプムチォするようにする

東莱府使李世載 謹啓

倭館が言うには「前島主が、竹島(鬱稜島)の件で、再度差し送ったが、その(前島主の)死後、新しい島主が入り江戸へ行った。関白(将軍)は、竹島(鬱稜島)は朝鮮に近いので、相争わず日本人の往来を禁じることに力を尽くした。」 これを聞き、書契を送ってはどうかというと、「去る秋に貴国の人が上程したことがあったが、朝廷の命令で出したのか。」と又問うた。(東莱府使)は「もし述べなければならないことがあれば、通訳官を江戸へ送る。何を思い憚って、狂った愚かな漁民を送ることがあろうか。」と言った。倭は「島の中でまたこのようなことがあっても、日本に送らず、また別に書契を作り返答する。」と言った。書契が必要かどうか朝廷の命令を依頼したところ、備辺司が回答するには、「竹島は即ち鬱稜島と同じ名称で、これは我国の地だ。『(東国)輿地勝覧』に載っており、日本もまた明らかに知っている。前後に差し送り書契を取り計らうことををやめるよう頼んだが、その間の問題の情況は知らない。今の往来を禁じることは、時の島主(対馬藩主)の功績で、責任を取る考えがあることは明らかだ。朝廷は大筋において前のことを更に責める必要はないとした。風に漂う愚民にいったっては作為することがあっても朝廷の知るところではなく、書契を送ることはない」これらを倭館に依頼することを認めた。

肅宗 卷三十一  二十三年丁丑三月

○東萊府使李世載狀啓言 館倭言 前島主以竹島事 再送大差 及其死後 時島主入去江戶 言于關白以竹島近朝鮮 不可相爭 仍禁倭人之往來 周旋之力多矣 以此啓聞 成送書契如何 又問 去秋貴國人有呈單事 出於朝令耶 臣曰 若有可辨 送一譯於江戶 顧何所憚 而乃送狂蠢浦民耶 倭曰 島中亦料如此 不送差倭 此亦別作書契答之 云 書契當否 令廟堂稟處 備邊司回啓曰 竹島卽鬱陵島一名 是我國地 載於輿地勝覽 日本亦所明知 而前後送差 請已書契措語 未知其間情弊 今乃以禁勿往來 歸功於時島主 顯有引咎之意 朝家大體 不必更責前事 至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知 俱非成送書契之事 請以此言及館倭允之

************************************

朝鮮国 禮曹参議 李 善溥 奉書

日本国對馬州 刑部大輔拾遺 平公閣下

春日暄和、緬惟動静珎瑟、嚮慰無已。頃因 訳使回自貴州。細伝左右、面托之言。備悉委折矣。鬱陵島之為我地、輿図所載、文跡照然。無論彼遠此近、疆界自別、貴州既知。鬱陵島与竹島、為一島而二名、則其名雖異。其為我地、則一也。貴国下令、永不許入往漁採。辞意丁寧、可保久遠、無他、良幸良幸。我国、亦、当分付官吏、以時検察、絶両地人往来、殽雑之弊矣。昨年、漂氓人、濱海之事、率以舟楫為業、颿風焱忽易及、飄盪以至冒越重溟、轉入貴国。豈可以此有所致疑於違定約、而由他路乎。若其呈書、誠有妄作之罪。故、已施幽極之典、以為為懲戢之地。叧勑沿海、申明禁令矣。益務誠信、以全大體、更勿生事、於邊彊庸非彼此之所大願者耶。

左右既有、面言於譯使、而然、且無一介行李奉書契、以来者、似是、左右深念旧約不欲規外、送差之意。故、先此修牘、展布多少、送于莱館。使之轉致、統希諒炤。不宣。

戊寅年三月  日

礼曹参議李 善溥


朝鮮国 礼曹参議 李善溥 奉書

日本国対馬刑部大輔 拾遺平公閣下

春の天気がのどかなので慰安されること限りありません。この頃通信使が貴藩から帰り、貴藩の言い分が細く伝わりました。鬱陵島が我地であるのは、東国輿地勝覧の地図に所載されており、文からも明らかです。無論そちら(日本)から遠く、ここ(朝鮮)から近いのですから、論ずるまでもなく境界は自ずと判別されます。竹島という鬱稜島は一島二名のため、すなわちその名が全く異なっている。よって我地であり、すなわち一つである。貴国が命令を下して永久に往来と漁労を不許可にしたことに感謝致します。永久に問題なく良好に保つことができます。我が国もまた当分官吏を付け、時に検察によって両方の国の人が往来することを絶ち、往来する弊害をなくすようにします。昨年、漂流民が渡海した事は、船を漕ぐ事を業にする者が突然大風に会い、越境侵犯を重ね帰国に入りました。このようなことから他の航路のはずが約束が違うと疑うかもしれないが、もしそのような国書を呈示したならば、誠に妄作の罪がある。幽極之典を施し、処断します。沿海に勅令を出し、明らかに禁令を布告しました。益々誠意をもって、全てにわたって更にこの様なことがないよう、辺境であれこれ起きないよう大いに願っています。


戊寅年(1698年:元禄11年)三月  日

 礼曹参議 李善溥


地名[編集]

いろいろご意見いただきましたが、歴史的経緯を検討するにせよ、どの民族の言葉を優先するのかにせよ、地名は数人のウィキペディアンの決めることではない気がするんですよ。地名は記事内容ではないので、私は日本語での各分野や一般での使用例数を元にどの名称を優先するかが決まってくると思っています。もちろん他の名称を否定するわけではありませんから、その名称は記事中で説明すればいいのです。使用例は各分野によって変わってくるのでどの分野が優先すべきかは分かれるところですが、こと一般的な地名に関してはどの分野を優先するといった特殊な事情はないと思います。

発音の表記に関しても


議論を戦わせても、結局参加者は誰だかわからない素人集団なのかもしれませんから、お互い自分の主張に固執すれば結論はなかなか得られません。結論が得られたとしてもそれが正しいとも限りません。また、記事内容なら解決するまで記載は保留ということもできますが、記事名となるとそうも行きません。

そう考えると一つ一つ丹念に議論せざるを得ないということになります。その際議論がしばしば紛糾する原因は確固たる結論がなかなか得られないというところにあるのではないでしょうか。私が思うに、特に地名の議論については出典数しかないと思うんですよ。それぞれ


一種我慢大会のようになりかねません。特にウィキペディアは多数決主義ではないので一人でも反対すれば合意が得られません。


わかりやすく提案された3つを並べてみました。
  • 「日本以外の地名で、音読の違いによる日本語表記(カタカナ)の地名が複数ある場合は、現地の発音に近いものを優先します。ただし現地の発音から離れていても出典や一般の使用例が圧倒的に多いものはその表記を採用します。また現地の発音に最も近くても使用例が著しく少ないものは採用しません。」- ロリ
  • 「日本以外の地名については,日本語として慣用的に使用されている表記の有無や信頼できる情報源からの使用例を検討し,日本語表記として最も認知度が高いものを採用してください。現地の発音に近い表記であっても,日本語表記として認知度が低いものは採用されません。」- かげろん
  • 「外国語(人名、地名などの固有名詞など)をカタカナ転記するにあたっては、多様な表記方法のあいだで論争になることがあるので、根拠(歴史的な使用例、一般文献での使用例、学術界での使用例、分野ごとの使用例、発音など)を具体的に明らかにしつつ、さまざまな異論も考慮して合意形成しましょう。そのうえで、多様な表記スタイルについても記事の中で説明するといいでしょう」- 㭍月例祭
皆さんのご意見を最大限考慮したつもりでしたが、今度は、かげろんさんのご意見で、日本語表記として最も認知度が高いもの。Afazさんのご意見は、原音主義は間違い。㭍月例祭さんは、歴史的な使用例、一般文献での使用例、学術界での使用例、分野ごとの使用例、発音、異論を考慮する。とのことのようです。㭍月例祭さんの「歴史的な使用例、一般文献での使用例、学術界での使用例、分野ごとの使用例、」というのは私が提案している「出典や一般の使用例」にあたると思うのですが、詰まるところ先の意見のように「使用例と発音」のどちらを優先するのかということになるのではないでしょうか。発音といっても結局は出典となる文献などの使用例でのカタカナ表記なので、やはり使用例によらざるを得ないと思います。私はどの表記でもかまわないのですが、使用例の数ではなく使用される具体的内容を明らかにすることによってこどの名称を使うべきかが決まるでしょうか。優秀な文献が、ある地名にある発音表記をしているからといってその表記が「実際の発音に近い」あるいは「近くなくてもそれが正しい」とすることができるでしょうか。そうであるならあらゆる文献の内容を精査して決めなければなりませんが、現実的には難しい。それ故、議論が紛糾すると延々と終わりのない議論が続くことになると思うのですが、私が「使用例」の数を推したのもそういう理由からです。ただ、ここでのコミュニティーでは使用例より発音重視的なところが強くあったので使用例数では必ずしも決まらないといった趣旨の挿入文を提案いたしました。少なくともそれを入れることによって「使用例と発音」のどちらを優先するのかという大枠の問題がある程度解決するからです。その割合については、地理的/歴史的・一般的/学術的・政治的要素などもあるので私の提案文では外しています。ここに来て「日本語表記として最も認知度が高いもの」というご意見も頂いてますので再度調整が必要かと思いますが。 --ロリ会話) 2016年6月2日 (木) 20:11 (UTC) 

吉田清治の証言[編集]

吉田清治は自著で、韓国の済州島において、慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白し、日本、韓国、アメリカなどで、何度もそのことを証言して来た。自著では当時の命令書の内容まで詳細に記載していた。

その後1993年5月に、慰安婦制度を批判している吉見義明が吉田を訪ね積極的に反論するよう勧めたが、吉田は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」としたうえで「回想には日時や場所を変えた場合もある」と発言したため、吉田の回想は証言としては使えないと吉見は確認した[1]。こうして、吉田本人も創作を交えたので事実ではないことを認め、その後も真実は明かしていないため、吉見義明の他にも上杉聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)[2]も「吉田証言」は歴史証言としては採用できないとしている。

また2006年に米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書(2006年4月10日付)でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記された[3]。日本側の調査と報告を受けて、2007年の改訂版の報告書(2007年4月3日付)では「吉田証言」が削除された[3]。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としていた[3]


  1. ^ 吉見義明・川田文子『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』大月書店,1997年,p.26-27.
  2. ^ 1997年1月28日 「日本の戦争責任資料センター」 上杉聰 「『慰安婦』は商行為かという問いに答えつつ 」
  3. ^ a b c 産経新聞2007年4月13日「慰安婦決議案 報告書に「吉田清治証言」 米下院はこの虚構を根拠に審議」記事


シドニー韓人会館[編集]

原文

STATUE OF PEACE
In memory of the history of suffering endured by the young girls
and women known as "Comfort Women" who were forced
into sexual slavery by the military of the government
of imperial Japan.


We hope for the restoration of honour for victims through
an official apology and legal reparations by the Japanese goverment
and that such violence and crimes against humanity by war never
be repeated in the future.



6 August 2016


Sydney Korean-Australians and their Austrailia's friends
for human rights and everlasting peace.


The Korean Council for the Women Drafted
for Military Sexual Slavery by Japan.



Seongnam Citizens Republic of Korea

翻訳

平和の像
日本帝国政府軍によって
性奴隷状態を強いられた
「慰安婦」として知られる
若い少女や女性の耐えさせられた歴史の記憶として。


私たちは日本政府による公式な謝罪と法的修復を通して
その犠牲者の名誉の回復を望みます。
そして戦争による人間性に反するこのような暴力と犯罪が
決して将来繰り返されないことを。



2016年8月6日


人権と永久に続く平和のための
シドニー韓国系オーストラリア人とオーストラリアの友人達


日本による軍の性奴隷を草稿した
韓国女性評議会



大韓民国城南市市民


竹島外一島[編集]

原文

    日本海内竹島外一島地籍編纂方伺

御省地理寮官員地籍編纂莅檢之為本縣巡回ノ砌日本海中ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号之通照會有之候處本島ハ永禄中發見之由ニテ故鳥取藩之時元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間同藩領内伯耆國米子町之商大谷九右衛門村川市兵衛ナル者旧幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海島中ノ動植物ヲ積帰リ内地ニ賣却致シ候ハ已ニ確証有之今ニ古書旧状等持傳候ニ付別紙原由ノ大畧圖面共相副不取敢致上申候今回全島實檢之上委曲ヲ具ヘ記載可致ノ處固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之且北海百余里ヲ懸隔シ線路モ不分明尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ右大谷某村川某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載シ地籍ニ編入スル等之儀ハ如何取計可然哉何分ノ御指令相伺候也

           縣令佐藤信寛代理

  明治九年十月十六日 島根縣参事境二郎

     内務卿大久保利通殿

現代文

    日本海内の竹島他一島の地籍編纂についてのお伺い

御省(内務省地理寮の官吏が地籍編纂の調査のために本県(島根県)を巡回の折、日本海の中にある竹島の調査の件について、別紙乙第二十八号の通り照会がありました。本島は永禄年間に発見したので、旧鳥取藩の時、元和四年より元禄八年までおよそ七十八年間、同藩領内伯耆国 米子町の商人大谷九右衛門 村川市兵衛なる者が旧幕府の許可を経て毎年渡海し、島の中の動植物を積み帰り内地に売却しました。すでに確証があって今までずっと古書・旧書状等を持ち伝えているので、別紙原因の概略図面と共に添え、とりあえず上申致します。今回全島実検の上、委曲を詳細に記載するかどうかですが、もともと本県の管轄に確定したわけでもありません。また北の海へ百里(約400km)余りも離れ、航路も明らかではありません。普段帆船等がしばしば往復しなければならない訳でもなく、右の大谷と村川の伝記なので、追って詳細を上申したいと思います。そして、そのおおよそを推察すると、管内の隠岐国の北西方向にあたり、山陰一帯の西部に付属すべきかと思いますが、本県を日本地図に記載し地籍に編入する等の件をどのように取り計らえば良いのか何か御指示を仰ぎたく思います。

           県令 佐藤信寛 代理

  明治九年十月十六日 島根県 参事 境二郎

     内務卿 大久保利通 殿


久々にこの記事を見たら記事名が「ストリップ劇場」から「ストリップティーズ」に変わっていてびっくり。ストリップティーズはショーの形態で、ストリップ劇場は店舗の形態。ぜんぜん違うのですが、あえてストリップティーズに変えたのはどうしてなのか。

上のほうを読むと、劇場だけを捉えると他の劇場と同じではないか、ならショートして説明すればいいということみたいですけど、ストリップ劇場は当然中身が伴っての店舗なので他の種類の劇場とはぜんぜん違います。記事内容を「ショート」して説明するのか「店舗」として説明するのかの違いで、例えば歌舞伎歌舞伎座の違いみたいなものです。どちらでもいいのかもしれませんが、私としては「ソープランド」や「ファッションヘルス」と同様、店舗の形態として記事名を残したほうがいいと思います。ストリップ劇場は今でこそ衰退してますが、以前は風俗の花形的存在でこの記事名がないのかなり違和感を感じます。分割するなら

写真の出典[編集]

「個人サイトによるこの様な画像などについては、それが改変されている可能性がある為禁止されています。」・・・これはどこに書かれていますか? ウィキ本文を検証する出典としての写真ではなく、写真(実物)そのものが最も重要だということです。これは一般の書籍と違ってそこらの書店や図書館にはありませんから出典として付けたところで簡単に検証はできません。当該サイトの本文はしっかり研究されてますが、個人研究ですからその内容はどうでもいいのです。コモンズの写真同様、真贋を検証したいのであれば出自の記載があれば問題ないと考えています。WP:ELNO-2は、個人サイトは全てダメという意味ではないと思います。

フェアファックス[編集]

{{quotation|

US CONGRESS UNANIMOUSLY RESOLVED HR 121 ON JULY 30, 2007
THAT THE GOVERNMENT OF JAPAN SHOULD FORMALLY ACKNOWLEDGE,
APOLOGIZE, AND ACCEPT HISTORYCAL RESPONSIBILITY IN A CLEAR AND
UNEQUIVOCAL MANNER FOR ITS IMPERIAL ARMED FORCES' COERCION OF
YOUNG WOMEN INTO SEXUAL SLAVERY, KNOWN TO THE WORLD AS
"COMFORT WOMEN", DURING ITS COLONIAL AND WARTIME OCCUPATION OF
ASIA AND THE PACIFIC ISLANDS FROM THE 1930'S THROUGH THE DURATION
OF WORLD WAR Ⅱ.

-REP. HONDA, MICHAEL(CA15)(INTRODUCED JAN. 31, 2007)

{{quotation|

合衆国議会は2007年7月30日に下院121号決議で、
1930年代から第二次世界大戦の期間を通して、
その植民地とアジアと太平洋の島々の戦時占領の間に、
慰安婦」として世界に知られている、
その若い女性を性奴隷状態に置く帝国軍の強制について、
日本政府が正式に認め、謝罪し、そして明白に曖昧でない態度で、
歴史的責任を受け入れるべきだと、満場一致で決議した。

-下院議員マイク・ホンダ(CA15)(2007年1月31日提出)

「太政官指令」が出されるまでの地図の島名[編集]

架空の島 [1] 鬱陵島 現在の竹島
1787年(天明7年) フランス軍艦学校の教授ジョセフ・レポート・ダージュレー英語版(Lepaute Dagelet) Dagelet
1789年 イギリスの探検家ジェームズ・コルネット英語版(James Colnett) Argonaut [2]
1811年(文化8年) アロー・スミス(Arrow Smith) の図 Argonaute Dagelet [3]
1815年(文化12年) トムソン(Thomson) の地図 Argonaute [4] Dagelet [4] 記載なし
1840年(天保11年) シーボルト「Japan」所収 日本図 Takasima / Argonaute Matsusima / Dagelet [3] 記載なし
1855年 ウィルヘルム・ハイネ(Wilhelm Heine) の地図 Argonaute Dagelet
Matsusima [3]
Hornet [3]
1855年 ニューヨークで出版された地図 Taka sima
Argonaute
Matsu sima
Dagelet [5]
記載なし
1856年(安政) アメリカ艦隊ペリー提督の図 Argonaute
(存在しない)[6]
Matsusima
Dagelet [4]
Hornet [4]
1867年(慶応) 大日本国沿海略図 勝海舟 [7] 竹嶋 [8] 松島 [3] リエンコヲルトロック[3]
1868年 ジェームス・ワイルド(James Wild) Argonaute Matsusima
Dagelet [3]
Hornet [3]
1868年 明治政府誕生
1870年(明治3年) 官許 大日本四神全図 橋本玉蘭 竹シマ 松シマ [9] リユンコヲルトローック [3]
1870年(明治3年) 『朝鮮事件』の「朝鮮国交際始末内探書」
1871年(明治4年) 官許 明治改正大日本輿地全図 目賀田守蔭 松島 [10] 記載なし
1873年(明治6年) L'Empire du Japon Take I. Matsou I. [3] 記載なし
1874年(明治7年) 官許 大日本及支那朝鮮図 北畠茂兵衛 竹島 松島 [3] 記載なし
1875年(明治8年) 朝鮮全図 陸軍参謀局 竹島 [8] 松島 [3]
1875年(明治8年) 亜細亜東部輿地図 陸軍参謀局 竹嶌 [8] 松島 [3] 記載なし
1876年(明治9年) 朝鮮全図 陸軍参謀局 竹嶌 [8] 松島 [3]
1876年(明治9年) 朝鮮東海岸図 海軍水路寮 アルゴナフタ島 [8] 柗島 [3] オリウツ礁
メ子ライ礁 [11]
1877年(明治10年) 日本全図 文部省出版 宮本三平著 竹島 [8] 松島 [3]
1877年(明治10年) 太政官指令
  1. ^ 鬱陵島の西北西 朝鮮半島との間に描かれた島。
  2. ^ 鬱陵島の位置を間違え、そこへ自分の船名を島名に。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 緯度経度ともほぼ正確。
  4. ^ a b c d 緯線経線はないが本州との位置関係よりほぼ比定できる。
  5. ^ 緯度は不正確だが経度はほぼ正確。
  6. ^ 「Argonaute 存在しない」と書かれ、島の形は描かれていない。
  7. ^ 現在の日本地図と変わらない非常に正確な地図
  8. ^ a b c d e f 島の形が点線で描かれている
  9. ^ 竹シマとリユンコヲルトローックの位置関係、島の大きさ形状から鬱陵島と比定できる。
  10. ^ 本州との位置関係、島の大きさ形状から鬱陵島と比定できる。
  11. ^ 緯度経度とも正確。二島が記載されその下に「一千八百六十年セルケエフ氏見取」と書かれた詳細な見取り図を記載。
主な国の対応[編集]

地域別ではヨーロッパの多くの国が受託宣言しているが、いわゆる大国の多くが受諾宣言していない。現在の国連事務総長の母国である韓国も受託宣言していない。(アメリカ、フランスは以前に受託宣言していたが、後に宣言を撤回している。アメリカはニカラグア事件敗訴後に宣言撤回。判決にも従っていない。)

主な国の選択条項受託宣言の状況
安保理常任理事国 主要8ヵ国 BRICs
宣言している イギリスの旗 イギリス イギリスの旗 イギリス
日本の旗 日本
ドイツの旗 ドイツ
カナダの旗 カナダ
インドの旗 インド
宣言していない アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フランスの旗 フランス
ロシアの旗 ロシア
中華人民共和国の旗 中国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
フランスの旗 フランス
ロシアの旗 ロシア
イタリアの旗 イタリア
ブラジルの旗 ブラジル
ロシアの旗 ロシア
中華人民共和国の旗 中国

出典[編集]

ウィキペディアがどこまで求めているかということですが。

  1. 出典を付けなければ記述してはいけない。出典がない記事を見つければすぐに削除する。
  2. 出典を付けなければ記述してはいけない。リンク切れの出典を見つければ[要出典]を付け、記述者が提示できなければ一定期間後削除する。
  3. 出典がなくても記述していいが、閲覧者が個人的に間違いであると思う内容で、出典が付いていてもリンク切れであれば一定期間後削除してよい。
  4. 出典がなくても記述していいが、閲覧者が個人的に間違いであると思う内容で出典がないものはすぐに削除してよい。
  5. 出典がなくても記述していいが、閲覧者が個人的に間違いであると思う内容は[要出典]を付け、記述者が提示できなければ一定期間後削除してよい。
  6. 出典がなくても記述していいが、閲覧者が個人的に間違いであると思う内容で出典がないものは議論の上結論が得られれば削除してよい。
  7. 出典がなくても記述していいが、閲覧者が個人的に間違いであると思う内容は[要出典]を付けそのまま出典を待つ。
  8. 出典がなくても記述していいが、閲覧者が個人的に間違いであると思う内容は[要出典]を付ける前に記述者に確かめる。
  9. 出典がなくても記述していいが、閲覧者が個人的に間違いであると思っても、自分が間違っている可能性は否定できないので、その際のことを考え[要出典]は付けない。

この中でウィキペディアは、どこまで求めているのでしょうか? 今ここでは、3.の一定期間についての話ですが、その前に4.のケースでしばしば個人的な考えの違いや信条の違いでトラブルが起こっています。自分の考えを信じているが、間違っている可能性は必ずしも否定できないと考える人ほど、6の方へシフトするでしょう。 個人的な信条が強い人ほどトラブルを起こします。そこで出典を求めるわけですが、主義・主張・信条の強い人にとってはこの出典さえ邪魔に感じます。なおさらリンク切れについては邪魔以外の何者でもありません。個人的に間違ってると思った内容で、出典リンクが切れていている、あるいは出典が付いていないものであっても、記述者がただ出典を付けるのが面倒なだけで、実は内容に問題がないのではないかと考える姿勢が大切だと考えます。リンク切れ放置期間の短縮を考える前に、まず6.を考えるべきではないでしょうか。

リバート合戦の防止と対話の促進[編集]

編集された部分をすぐに(1週間以内くらい)取り消したり差し戻したり、新たな編集で違う内容に書き換えたりする場合、それと同時に要約欄へ「ノートで対話」と書いたリンクを記入して、取り消したり差し戻したりする場合はノートでその編集の意図を尋ねること、新たな編集で違う内容に書き換える場合はノートにその理由を明記することを義務付けてはどうでしょうか。(明らかな荒らしや編集ミス、明らかなルール違反、編集内容を否定しない発展的な書き換えは除きます)

もしあなたが加筆した内容や編集を取り消されたら[編集]

特にあなたが編集に貢献できると信じて加筆した内容や編集を他の編集者に取り消されたり差し戻されたらきっと頭にくるでしょう。あなたが編集した直後であればなおさらです。多くの場合要約欄にその理由が簡単に書かれることがありますが、それは取り消しや差し戻しの理由にはなりません。しかし、ルール違反だからといってあなたがそれをすぐに元に戻すのは賢明ではありません。なぜならそれが編集合戦の原因になるからです。あなたの編集が理不尽にも取り消された場合、すぐに元に戻したい気持ちを抑えWikipedia:論争の解決を参考に相手にノートで議論するよう呼びかけましょう。

安易な取り消しはルール違反ですが、あなたが編集した直後に要約欄に理由が書かれて取り消された場合、頭にくる気持ちを抑えてあなたの編集にひょっとしたら問題がなかったのかも再考するべきです。それは、あなたが編集に貢献できると信じていた内容であっても、他の詳しい編集者からから見ればそれが記事破壊行為であるとみなされる場合があるからです。

論争へ至る類型とその対処法[編集]

論争に発展するものには以下のようなタイプがあります。それぞれのタイプに合わせ対応してください。もちろん対話においては礼儀を忘れないで下さい。

荒らしとその取り消し[編集]

本人が悪戯や悪意の認識をもって行った行為はすぐに取り消して下さい。そうすることによって取り消しと復活が繰り返されることになった場合、議論の余地がなければすぐに投稿ブロックの措置をとるとよいでしょう。

編集ミスやルール認識不足による編集とその取り消し[編集]

単純な編集ミス(誤字・脱字・重複・タグのミスなど)が含まれている編集は、取り消すのではなく編集要約欄にその旨を書いてすぐに訂正してください。ルールの認識不足による編集は取り消す前にノートでその理由を分かりやすく説明してあげましょう。認識不足だといってもすぐに取り消されれば気分のいいものではありません。ノートで説明することによって納得が得られるでしょう。

双方の解釈の相違[編集]

双方の大きな解釈の相違や大きな見識の格差で起きますが、加筆者が明らかに自分の執筆内容の間違い(上記の編集ミスや認識不足とは違います)に気付いていない場合は、単純な荒らし行為として取り扱わずに、取り消した後ノートでその間違いを説明し納得してもらいましょう。もし加筆者が間違いではないとした場合でも、その取り消しは元に戻さず出典つきの加筆を求めましょう。
  • 善意の加筆と、間違いと判断しての取り消し
双方の解釈の違いにより起こります。間違いだと思ってもすぐに取り消したりしないで下さい。取り消す前に本当に間違いなのか熟考し自分でもよく調べてみる。そしてノートで本人の真意を確認してみましょう。明らかな間違いだと思っても取り消すのではなく自分が正しいと思う内容を出典を付けて変更しましょう。そして、ノートにその理由を書いてあげるとよいでしょう。
  • 間違いと判断しての取り消しまたは訂正行為
以前から書かれていた内容が間違っていると思った場合でも、それまで誰も訂正しなかったわけですから、そこにはそれなりの理由があるのかもしれません。すぐに取り消したり訂正しようとしないで、ノートでその内容に疑義を呈してみる。あるいは、ABCDE[要出典]のように出典範囲を付ける。自分で出典のある内容に変更する。などの方法を採ってください。
ウィキペディアは考えの違った様々な人が編集します。多くの人が一部を加筆修正しているうちに、全体としての構成や表現が統一されずにギクシャクした文脈や文体になることがしばしばあります。そう思ったら大胆に更新してみましょう。他の編集者は更新されたものが何かおかしい、気に入らないという理由ですぐに元に戻したりしないで、履歴を確認し1週間はそのままにしておきましょう。1週間はその編集者への敬意です。自分では何かおかしいと思っても、そう編集した人は以前より良くなっていると思っているのですから。何度も眺めているうちに意外とそれでもよいと思うかもしれません。どうしても納得できず我慢できない場合はノートに戻すべき理由を書いて、広く他の閲覧者の意見を募りましょう。

ノートの利用[編集]

論争の解決にはノートが欠かせません。ノートには「その記事のノート」「論争相手のノート」「自分のノート」があります。どのノートを使用してもかまいませんが、できるだけ「その記事のノート」を使用するとよいでしょう。頭にきたからといって論争相手のノートに書き込むのあまり推奨できません。マナーを守って書いたつもりでもつい語調が荒くなりがちです。書かれた相手は殴りこみに来たかのように思うかもしれません。善意の編集者にとっては正に青天の霹靂です。また、相手のノートでは当事者以外の人がその論争に気付きません。多くの第三者にも見てもらえれば、穏当に何か有効な解決法が見い出せるかもしれません。ノートに記入するときは発言に責任を持つためにも署名を忘れないで下さい。

いちいちノートで議論するのは面倒かもしれません。間違いだと思えばさっさと消してしまう。そうしたい気持ちは誰しもあるものです。しかしウィキペディアは誰もが編集に参加できる百科事典です。勝手な編集は百科辞典の信頼性を低下させます。編集者の間で合意することに賛同できなければ、あなたはウィキペディアの編集には向いていないのかもしれません。

ピラミッド[編集]

Penn Stationさんは、私がこの図だけで「論争の解決」全体をカバーしようとしているとのことですが、そのようなことは全くできませんし、そのような話もしていません。よいソフトを作るのにウイルスを作るためのテクニックを学ぶのはそれを防御する意味重要だと思います。しかし、広いウィキペディアの中で論争を解決しようとするページに、あえて合意形成を意図しない論争を助長するような表を載せる必要があるでしょうか? もし載せるとするなら、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないとかWikipedia:個人攻撃はしないなどに載せ全体をカバーする方が適当ではないかと思います。

背番号9さんは、最初に「表の上位2つの項目内容も、効果的な反論の仕方を紹介しているのみで、合意形成を意図した内容になっていません。」とおっしゃってますが、「低いレベルの反対の仕方が減れば、議論の場が無用に混乱することも無くなり、建設的な話に進みやすくなる。結果、論争が解決される(または起こらない)という効果が派出されることを期待して」、と後から付け加えられるのは何か矛盾してませんか? 表の信頼性に付いてですが、学術的に信頼性がないのなら同じだということです。 私は「論争解決の手段」の表内容について対案があるのなら誰でも歓迎いたしますし、また皆さんがこのようなピラミッドや表自身特に必要ないということでしたらそれでもかまいません。

ピラミッドについてよく調べられているのには感心いたしました。確固たる自信の上にピラミッドを貼られたとお見受けいたします。背番号9さんの今回の提案で、本当にここに必要かどうかを含めて議論が深まればいいと思います。最初にこれを貼ろうとされた時に誰も意見がなかった(誰も気付かなかった)ことに今回の問題があったかと思いますが、それは私の変更案の時も同じです。私の表はピラミッドを利用した案なので、なかったらなかったで何も問題ないと思っています。背番号9さんが私の作った表に不満があるのは重々承知しておりますが、これで問題ないと判断して作ったであろう物に対し「チグハグ・不出来・中途半端」と何度も繰り返えされるのは、あまり気分のいいものではありません。もう少しマナーも考えて頂きたく存じます。


それと、背番号9さんは私が作り直した「論争解決の手段」の表を「チグハグ・不出来・中途半端」とおっしゃってますが、これで問題ないと判断して作ったであろう物に対しこのような表現を繰り返えされるのはどうかと思います。論駁されるのは結構ですがもう少し言葉を選んでいただけるようお願い致します。--ロリ会話) 2014年3月17日 (月) 19:42 (UTC)

論争が何故起きるのか。記事に問題があっても、出典を求めたりウィキペディアのルールに則っていないことなど、引用や理由や証拠を示せばほとんどの場合4,5回も議論すれば解決するでしょう。本当の議論は出典の解釈の違いであるとかルールの適用の判断が微妙な場合です。この時、参加者の個人的な信条や願望、好み、プライドなどが絡み相手を非難したり攻撃したりします。しかし議論で個人的なことは主張できませんから、それが当然であるかのような発言してみたり、客観的に捉えているつもりでも主観的な主張であったりすることがあります。このような議論に結論はありませんから、引くに引けない泥沼状態になり議論は長引き疲弊してしまいます。ここで必要なのは非難や攻撃ではなく合意なのです。

開戦の詔勅[編集]

天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス 朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ

抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所 而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ 今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル 洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ 中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ 幸ニ国民政府更新スルアリ 帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス 米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス 剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ 朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス 斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ 事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ 朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス


天の助けを保有し万世一系の皇位を継承している大日本帝国天皇は、明らかに忠誠勇武なあなたたち国民に示す。

我はここに米国及び英国に対して戦いを宣言する。我が国の陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、我が国の官僚や役人は励んで精を出し職務を執行し、我が国民は各々その本分を尽し、全国民が一つになり国家の総力を挙げて戦いに赴き目的を達成することが間違っていないことを期待しなさい。

そもそも、東アジアの安定を確保することにより世界の平和に寄与することは、大そう明らかに祖父(明治天皇)から立派に受け継いぎ、父(大正天皇)が作述した将来を見越した計画であって、我が恭しくそのままにしておかなかったことである。そして列国との友好を厚くし全世界が共に栄える喜びを共有することは、また帝国が常に国交を重要視しているところである。今や不幸にして米英両国と不和を招くに至った。まことに止む終えないものがあり、どうして我が望むところであろうか。中華民国政府は先に帝国の真意を理解せず、みだりに事を荒立て東アジアの平和を攪乱し、ついに帝国の武力に訴えるに至らしめ、そして四年有余が経った。幸いに国民政府が新しくなることになった。帝国はここと隣国の友好関係を結びお互い提携するに至ったが、重慶に残存する政権は米英の助けを願って兄弟なおいまだ内輪で争うことを悔い改めない。米英両国は残存政権を支援して東アジアの禍乱を助長し平和の美名に隠れて東洋制覇の分不相応の大きな望みを強くしている。事もあろうか同盟国を誘い、帝国の周辺において武力を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついに経済断交をあえて行い、帝国の生存に重大なる脅威を加えた。我は政府を通じ事態を平和の内に回復させようとし我慢し続けてきたが、彼らは全く交譲の精神がなく無駄に時局の解決を長引かせ、この間かえって益々経済上軍事上の脅威が増大し、それにより我を屈従させようとした。このようにして推移したが、東アジアの安定に関する帝国の積年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存立はまた正に大きな危険にさらされた。こと既にここに至る帝国は、今や自存自衛のため蹶然と立ち上がり一切の障害を破砕するほかない。

歴代天皇の神霊上にある。 我はあなたたち国民の忠誠勇武を信頼し、歴代天皇の遺業を押し広め、速やかに禍根を取り除き、東アジアの永遠の平和を確立し、これにより帝国の光栄を保全することを期待する。