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安倍晋三[編集]

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本政治家

安倍 晋三 あべ しんぞう

内閣広報室より公表された肖像

(2020年 撮影)

生年月日 1954年9月21日
出生地 日本 東京都新宿区
没年月日 2022年7月8日(67歳没)
死没地 日本 奈良県橿原市

奈良県立医科大学附属病院

出身校 成蹊大学法学部卒業
前職
所属政党 自由民主党安倍派
称号 従一位大勲位菊花章頸飾大勲位菊花大綬章法学士(成蹊大学・1977年)
配偶者 安倍昭恵
親族
サイン
公式サイト 衆議院議員 安倍晋三 公式サイト

第90・96-98代 内閣総理大臣
内閣 第1次安倍内閣第1次安倍改造内閣
第2次安倍内閣第2次安倍改造内閣第3次安倍内閣第3次安倍第1次改造内閣第3次安倍第2次改造内閣第3次安倍第3次改造内閣第4次安倍内閣第4次安倍第1次改造内閣第4次安倍第2次改造内閣
在任期間 2006年9月26日 - 2007年9月26日
2012年12月26日 - 2020年9月16日
天皇 上皇(明仁)
上皇(明仁)今上天皇(徳仁)

第72代 内閣官房長官
内閣 第3次小泉改造内閣
在任期間 2005年10月31日 - 2006年9月26日

内閣官房副長官(政務担当)
内閣 第2次森内閣第2次森改造内閣省庁再編前再編後

第1次小泉内閣 第1次小泉第1次改造内閣

在任期間 2000年7月4日 - 2003年9月22日

衆議院議員
選挙区 旧山口1区→)

山口4区

当選回数 10回
在任期間 1993年7月18日 - 2022年7月8日(在任中死去)

その他の職歴
第25代 自由民主党総裁

2012年9月26日 - 2020年9月14日

第21代 自由民主党総裁

2006年9月20日 - 2007年9月23日

第41代 自由民主党幹事長

(総裁:小泉純一郎) (2003年9月21日 - 2004年9月27日

自由民主党幹事長代理

(総裁:小泉純一郎) (2004年9月27日 - 2005年10月31日

テンプレートを表示
安倍晋三
YouTube
チャンネル
  • あべ晋三チャンネル
活動期間 2021年10月19日 -
ジャンル 政治
登録者数 132万人
総再生回数 約3000万回
YouTube Creator Awards[表示]
チャンネル登録者数・総再生回数は

2022年7月20日時点。

テンプレートを表示

安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年昭和29年〉9月21日 - 2022年令和4年〉7月8日)は、日本政治家位階従一位勲等大勲位

内閣総理大臣(第90969798代)、内閣官房長官(第72代)、内閣官房副長官(政務担当)衆議院議員(10期)、自由民主党総裁(第21・25代)、自由民主党幹事長(第41代)、自由民主党幹事長代理、清和政策研究会会長(第10代)などを歴任した。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

安倍一家左から、母・洋子、当時2歳の晋三、父・安倍晋太郎、兄・寛信(1956年) 東京都新宿区出身。毎日新聞記者であった安倍晋太郎と妻洋子の次男として生まれる。弟の信夫は養子に出されたため末子として育つ。本籍地は山口県大津郡油谷町(現長門市)。父方の祖父は衆議院議員安倍寛、母方の祖父は後の首相岸信介で、大叔父には元首相の佐藤栄作、叔父には日本興業銀行の頭取を務めた西村正雄がいる。一家は渋谷区南平台町の岸の自宅で、岸と同居した。

1958年5月、父の安倍晋太郎が第28回衆議院議員総選挙に立候補し初当選した。幼い頃は野球選手や、テレビを見て刑事になることに憧れていた。

学生時代[編集]

成蹊小学校3年生の1963年11月、父の晋太郎が落選。このため両親は東京を離れ、選挙区の山口県にいることが多くなった。安倍家は寛信と晋三に家庭教師をつけることとした。翌1964年に東京大学駒場キャンパスで「子ども2人を週3回教えて9千円、食事つき」とのアルバイトの募集を見つけたのが、当時東大駒場寮に住んでいた平沢勝栄だった。平沢は「駒場東大前駅からひと駅で、しかも食事つき。駒場寮の食事はマズかったから、これはいいぞ」と思い、面接を受け、採用された。小学5年生まで2年間、晋三を教えた。

成蹊中学校・高等学校卒業。高校では地理研究部に所属した。成蹊大学法学部政治学科に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ。アーチェリー部に所属し、準レギュラーだった。大学へは中古のアルファロメオで通った。

1977年3月、成蹊大学卒業。同年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人ばかりで勉強に障害があると判断して通学を止め、イタリア系米国人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。1978年1月から春季・夏季・秋季と1年間、南カリフォルニア大学に留学しており政治学の専攻ではなく講座に通学していた。ただし在籍はしたものの学士の資格は得ていない。首相として訪米中に同大学を訪問している。

会社員時代[編集]

1979年4月に帰国し、神戸製鋼所に入社。本社輸出部に配属される。1980年5月から1981年1月まで加古川製鉄所の工程部工程課に配属された。営業担当が受けた注文の工程管理を担った。そのほか、ニューヨーク事務所、東京本社などで勤務した。

政界入り[編集]

秘書時代[編集]

1982年11月27日、第1次中曽根内閣が成立し、父晋太郎が外務大臣に就任。晋太郎は安倍に自身の秘書官になることを命じた。しかし安倍がその指令を拒否したため、晋太郎は神戸製鋼所首脳部に連日電話を入れ、退職させるよう迫った。安倍はほどなくして同社を退職し、大臣秘書官に就任した。

1986年7月22日、晋太郎が外務大臣を退任。それとともに秘書官を退職。同年10月、森永製菓社長の松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と婚約。

1987年5月25日、参議院議員の江島淳が死去。江島の死去に伴う山口県選挙区の補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長二木秀夫が出馬を表明したことから父に断念するよう説得され、立候補を見送った。同年6月9日、新高輪プリンスホテルで松崎昭恵と結婚式を挙げた。媒酌人福田赳夫夫妻が務めた。