利用者:山口 茂昭
やまんちの書作 其の1 / 広島比治山陸軍墓地物語
『広島比治山陸軍墓地略誌』B5判 260頁 平成10年 広島比治山陸軍墓地奉賛会刊行。
重度の糖尿病で座して死を待つ覚悟でいた時、貴人の出現で広島比治山陸軍墓地に関わることになり、一年後に健康を取り戻すことができた。主治医や日赤の担当医から「今まで入院もせずによくここまで命が保てたものだ。血糖値は620という考えられない数値で、しかも、その他の数値も異常に高い。本来ならとっくに糖尿病による数々の合併症で、とうに命を取られていたと思うが、こうしてボクの前に座って診断を受けていること自体が不思議で、医者が言うのも変だが、幽霊を診ているのではないかと錯覚してしまう。難治でコントロール不可能にまで悪化しているので、治癒の見込みは薄いが、今すぐ入院すればこれ以上の進行は防げるだろう。このままだと、壊疽で脚を切断するか、もしくは失明、あるいは突然昏睡状態に陥り、そのまま還らぬ人となるかのいずれかだ。即刻、緊急入院して治療に専念するように。原爆病院にベッドが空いているので、奥さんに入院手続きに来てもらって、君はすぐ入院しなさい」と申し渡された私でした。それを頑強に断って帰宅したのです。 翌日から腹を決めて、半生記を書き出したのですが、恩義ある方が聞きつけられて「家に篭っていてはロクな考えも浮かばない。動くことができるなら比治山陸軍墓地に来て文書や名簿づくりを手伝ってくれないか」と言われ、翌日から自転車で片道45分の墓地に日参したのでした。そうして月日の経過と共に、徐々に健康を取り戻すことができたのですが、緊急入院を断った翌日から、運動療法・食事療法を止めたのですから常識では考えられないでしょう。しかし、健康を取り戻すことができた要因は、自転車での往復と墓地の管理小屋で一人でのんびりと文書づくりができたこと、森林に囲まれているので森林浴になったこと、墓地に眠る戦没者のご加護があったこと、遠赤健康シートの卸元なので、家に居る時は遠赤外線のシャワーを浴びていることなどが挙げられます。 さて、墓地と関わって健康を取り戻した一年後に、墓地の奉賛会より墓地の変遷を冊子に纏めてほしいと一任され、翌日から小屋の隅に長年の間、埃を被ったままの文書や資料、記録写真などを取捨選択し、原稿の執筆に取り掛かったのです。そして試行錯誤の末、半年後に『広島比治山陸軍墓地略誌』が出来上がったのですが、製本に至るまで全て私の手作りです。一冊一冊出来上がる毎に、奉賛会事務局を通じて宮内庁をはじめ、政府関係当局(総理府、厚生省、防衛庁他)、大使館、国立国会図書館、大學、自治体、神社、マスコミ、ニュースキャスター、時事評論家、著名 作家等々へ納本・寄贈されていきました。 忘れもしませんが、平成10年2月20日の産経新聞朝刊に、何と、私の手作りの略誌が大きな記事となっているではありませんか。直後、奉賛会事務局や奉賛会の会員の方たちが「今まで陸軍墓地は日陰ものの存在だったが、山口君のお陰でようやく墓地の存在を世間に知ってもらうことができた。有り難う」と、夫々、手を取って喜んでくれたのです。この時ばかりは、嬉しいやら気恥ずかしいやら・・・。 その数日後には、今度は朝日新聞が来て比治山陸軍墓地の概略を取材。これも大きな記事となりましたし、NHKテレビも取材に訪れ、2,3日後の夕方にテレビで放映してくれたのです。こうして広島比治山陸軍墓地の存在にスポットライトが当たり、今まで墓地に冷たかった広島市当局の対応も少しは良くなったのです。 驚いたのは、奉賛会事務局に「貴会刊行の略誌は貴重な文献なので、文化財扱いにし末永く保存することに決定しました」との通知が入ったのです。尤も、130年の歴史ある旧軍墓地でありながら、いままで変遷史を一冊に纏めたものがなかったのですから、貴重な資料と評価されるのは当然かも知れませんが。 その後、同年の10月にフランスの駆逐艦が呉に寄港した折、艦長や乗組員、大使ら総勢30名が比治山に来られフランス人兵士の墓地を参拝されたのですが、この時、奉賛会より略誌が10部ほど寄贈され大変に喜ばれました。フランスにも持ち帰るとかで、私の拙い手作りの略誌が喜ばれるとは思ってもみませんでした。そうかと思えば、京都大學に留学中のアメリカ人青年が、休暇で東京に行った折、靖国神社と千鳥が淵墓苑の資料室で略誌を見て、研究論文に役立つので2 部ほど送って欲しいとの手紙が奉賛会に届いたのです。早速、送付したところ、一部は自分用に、もう一部はアメリカに帰って図書館に寄贈するとのお礼の手紙が来たのです。 こんな展開になると誰が予想したことでしょう。一年前には考えもしなかった出来事です。それからというものは、すっかりライフスタイルが変わったのですが、もし、あの日、主治医や担当医の言うままに日赤に入院していたら、薬漬けでとても助からず、今の私はなかったでしょうし、よしんば良くなったとしても入退院を繰り返していたかも知れません。変な表現になりますが、糖尿病になったお陰で陸軍墓地に関わることができ、また、それにより大きく人生が変わったのでした。