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利用者:岡部碩道/下書き

銅板法華説相図

長谷寺銅板法華説相図(はせでら どうばん ほっけせっそうず)は、奈良県桜井市長谷寺に伝わる銅板であり、その表面には『法華経見宝塔品に説かれる多宝塔出現の光景が図相化されている。銅板図の下段中央には銘文が配置され、造立の由来などが陰刻されている。その文中に、「敬造千仏多宝仏塔」と見えることから、本銅板を千仏多宝仏塔とも呼ぶ。また千仏多宝塔銅板などとも称し、さらに「銅板」を銅版と表記するなどさまざまな呼称がある。現在、奈良国立博物館寄託管理されている。国宝に指定されており、指定名称は銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)[1][2][3][4][5]

概要[編集]

古くから長谷寺に伝わる縦83.3cm、横75.0cm、厚さ約2cmの比較的大型の銅板である。その表面には鋳出・押出などの金工技法によって、『法華経見宝塔品に説かれる多宝塔の出現十方諸仏の参集などの光景、いわゆる『法華経』迹門のクライマックス場面が浮き彫りにされている。

その銅板図の下には造立の由来などの銘文が、古代日本の刻銘では極めて特殊な浚い彫りという技法を用いて刻されている(#銘文の彫刻技法を参照)。また、その書風は、日本では7世紀後半に限定的に盛行した中国・初唐欧陽詢風で、『金剛場陀羅尼経』(686年)の書風に酷似している(#書体・書風を参照)。

このように、本銅板は美術作品と文字史料とをあわせもつ特徴があり、美術史研究者のみならず、書道史金石学・金属工芸技術を専門とする研究者など、多分野の研究者が関心を集める作品である。

造仏造塔の功徳は莫大であるとする仏法の教義に基づき、本銅板は天皇のために造立したと銘文に見える。そして、その天皇を「飛鳥清御原大宮治天下天皇」と表現しているが、飛鳥浄御原宮の宮号を冠した天皇の呼称は、天武天皇持統天皇の両方に用いられ、また、年紀の「歳次降婁」は単に戌年の意であるため、制作年の特定が難しく、大きな争点となった。ゆえに本銅板の研究の歴史は、主としてその制作年代の解明を目的とするものであった(#銅板の制作年代を参照)。

長谷寺では長い間、本銅板を秘匿しており、江戸時代の学者・狩谷棭斎などもその存在を知らなかったが、1876年(明治9年)の同寺・三重塔の火災に際して世の知るところとなった。その火災のときに、銅板の右下部分が銘文の一部とともに欠損したという伝承がなされているが、これは誤伝である。1828年(文政11年)に現在と同じ文字の欠損がすでに記録されている[6]。なお、その1828年での安置場所は三重塔ではなく、同寺・宝蔵であり、長く宝蔵に秘匿されていた(#長谷寺の火災と銅板の安置場所を参照)[1][2][4][7][8][9][10]

彫刻内容と金工技法
彫刻 位置 金工技法
多宝塔 上段と中段の中央 鋳出
三尊像 上段の左右
七尊像 中段の左右
仁王像 下段の左(右は木製)
十方諸仏(千体仏) 上段の一面 押出
銘文 下段の中央 浚い彫り
小仏坐像 上段の周縁部の上辺 鋳出
小仏立像 上段・中段の周縁部の左辺と右辺
奏楽天人 下段の周縁部 線彫り
上・中・下段に分かれる銅板図の上段には、多数の押出仏を貼付して十方諸仏(千体仏)をあらわし、その左右には三尊像が鋳出されている。中段の中央から上段の中心までは三層の多宝塔が鋳出されており、その下層には二仏並座の様子が、中層には多宝如来が、上層には多宝如来の舎利を納めた容器が、最上部には3本の相輪が表現されている。その中段の多宝塔の左右には七尊像が鋳出されている。
下段の左側の仁王像は鋳出によるが、右側の仁王像は欠損しており、現在は木材によって補われている。その左右の仁王像の中央に浚い彫りの銘文がある(#銘文の彫刻技法を参照)。
銅板の周縁部は4辺とも升目状に区画され、上段と中段の3辺には48の升目がある。その升目の中に一体ずつ小仏が鋳出され、上辺の小仏は坐像(22体)、左辺・右辺の小仏は立像(13体ずつ)が配置されている。下段の3辺の升目の中には一体ずつ奏楽天人が線彫りされている[4][7][11]

銘文[編集]

銅板法華説相図銘

文字面の大きさは縦14.2cm、横42.4cmで、その中に27行、各行12字が配置されている。が、19行目のみ7字のため、全319字である。ただし、銘文の右側に斜めに欠損しているため、50文字が判読できないが、本銘文の述作にあたって用いられた典籍として、次の2つの史料が分かっており、これによって15文字を補うことができている[1][12][13][14]

  • 玄奘三蔵訳『甚希有経』(じんけうきょう、649年)
  • 道宣撰『広弘明集』巻16所収の「瑞石像銘」と「光宅寺刹下銘」

1行目の「應」の1字は『広弘明集』の「瑞石像銘」より補え、6行目の「波其量下如」、7行目の「如芥子許」、8行目の「量如大針」、9行目の「像」の計14字は『甚希有経』によって補える[1][15][16]

原文[編集]

原文は以下のとおり。“□”は判読できない文字、“( )”内は判読できないが典籍により補った文字を示す[15][17][18]

  1. 惟夫霊(應)□□□□□□□□
  2. 立稱巳[19]乖□□□□□□□□
  3. 真身然大聖□□□□□□□
  4. 不啚形表刹福□□□□□□
  5. 日夕畢功。慈氏□□□□□□
  6. 佛説若人起窣堵(波其量下如)
  7. 阿摩洛菓、以佛駄都(如芥子許、)
  8. 安置其中、樹以表刹(量如大針、)
  9. 上安相輪如小棗葉或造佛(像)
  10. 下如穬麦、此福無量。粤以、奉為
  11. 天皇陛下、敬造千佛多寳佛塔
  12. 上厝舎利、仲擬全身、下儀並坐
  13. 諸佛方位、菩薩圍繞聲聞獨覺
  14. 翼聖、金剛師子振威。伏惟、聖帝
  15. 超金輪同逸多。真俗雙流、化度
  16. 无央。庶[20]冀永保聖蹟、欲令不朽。
  17. 天地等固、法界无窮、莫若崇據
  18. 霊峯、星漢洞照、恒秘瑞巗、金石
  19. 相堅。敬銘其辞曰
  20. 遙哉上覺、至矣大仙、理歸絶妙、
  21. 事通感縁、釋天真像、降茲豊山、
  22. 鷲峯寳塔、涌此心泉。負錫来遊、
  23. 調琴練行。披林晏坐、寧枕熟定。
  24. 乗斯勝善、同歸實相、壹投賢劫、
  25. 倶値千聖。歳次降婁漆菟上旬
  26. 道明率引捌拾許人、奉為飛鳥
  27. 清御原大宮治天下天皇敬造。

大意[編集]

文頭の欠損部分は、概念的な序論にあたると考えられ、造仏造塔の発願の次第とその完成について述べたものと推測される。序論のあとの『甚希有経』の引用部分は、「どんな小さな造仏造塔でも、その功徳は莫大である。(趣意)」とあり、次に、その功徳ある千仏多宝仏塔(本銅板のこと)を天皇陛下のために造ると述べている。続いて、塔の上層に仏舎利を安置し、中層には多宝如来を、下層には二仏並座が表現されているなど、銅板図の彫刻内容を解説している。そして、天皇が弥勒菩薩に等しいとして、その聖跡を不朽ならしめんと述べ、霊鷲山の宝塔が長谷寺のある豊山に出現したとしている。最後に、戌年7月上旬に、僧・道明が80人ほどを率いて、天皇のために造ったと述べている。

本銘文を通覧すると、『甚希有経』と『広弘明集』所収の「瑞石像銘」や「光宅寺刹下銘」を引用していることから、銘文全体に、仏教思想・神仙思想・道教思想が流れている[15][21][22][23]

注解[編集]

  • 天皇陛下は、もちろん在位中の天皇を称しているが、銅板の制作年代の説により、天武天皇(686年説)・持統天皇698年説)・元正天皇大山誠一の722年説)など意見が分かれる。そして、その天皇のために造立したと記している[13][21]
  • 千仏多宝仏塔(せんぶつたほうぶっとう)とは、発願者が本銅板に名付けた名称である。『法華経見宝塔品に説かれる多宝如来宝塔の出現十方諸仏(千体仏)の召集による。
  • 並坐(びょうざ)とは、ここでは、釈迦と多宝如来の二仏並座を指す。
  • 囲繞(いぎょう)とは、ぐるりと取り囲むこと[24]。ここでは、諸仏の侍者として参集した菩薩が多宝塔を取り囲んだと述べている[22]
  • 逸多(いった)とは、弥勒菩薩のこと。弥勒菩薩の字は本来、阿逸多であるが、逸多でも弥勒菩薩を指す。
  • 鷲峯(じゅぶ)とは、霊鷲山のこと[15]
  • 歳次降婁漆菟上旬(さいじこうるしちとじょうじゅん)とは、戌年7月上旬のこと。伴信友が解読した。降婁は戌の意で、漆(柒(柒)■?)は七、菟(兎)は月を意味する[1][17][25]
  • 道明(どうみょう)とは、川原寺。生没年不詳。
  • 飛鳥清御原大宮治天下天皇(あすかのきよみはらのおほみやに あめのしたしろしめす てんのう)は、天武天皇か持統天皇か説が分かれる[1][17]

書体・書風[編集]

書者は不明であるが、魚住和晃[26]は、「渡来人が書したと想定される作」[27]と述べている。書体は縦長のやや痩せた楷書体で、書風は中国・初唐時代に通じるいわゆる隋唐書風である。縦画が極めく強く、横画には隷書の名残りの波法を示した典型的な欧陽詢欧陽通父子の書法(欧法)で、日本の上代金石文中、屈指の名筆といわれる[13][17][2][1][12]

丙戌年(686年)の年紀を有する『金剛場陀羅尼経』と書風の共通性が高いことから、内藤湖南は、「『金剛場陀羅尼経』と同人同年の作」[17]と断じている。飯島春敬、魚住和晃も同一書者の手になるものとしているが、安藤更生は、「本銅板銘と『金剛場陀羅尼経』の波法を比較すると、前者は筆を下へ抜くのに反して、後者は上方へ抜く癖があり、同一人の書とは認められない。」[17]と述べている。

その安藤が、「『金剛場陀羅尼経』との書風の酷似は、書道様式上、本銅板の686年制作を否定する諸説の成立を困難にするであろう。」[17]と述べているように、本銅板の書風から考察する書道史では、『金剛場陀羅尼経』の存在からその制作年代を686年とする説がほとんどであった。しかし、現代の書道史では、698年説を示すようになってきており、森岡隆は、「同様の欧法を示す『金剛場陀羅尼経』の年紀が丙戌年であることから、本銅板も同年、または数年ないし一巡の12年後のものと見なされる。」[1]と述べ、鈴木晴彦は、「698年説が有力視される。」と述べている[16][17][3][27]

銘文の彫刻技法[編集]

漢字の文字彫刻は、その起原である中国において浚い彫り技法と線彫り技法が生み出されたが、中国では浚い彫り技法が主に行われた。朝鮮では初め、線彫り技法が用いられたが、中国の影響により浚い彫り技法が発展した。しかし、日本では線彫り技法が独自の発展を遂げている。

浚い彫り技法の特徴は、筆で書かれた下書きの文字を忠実に再現することにある。線彫り技法は、下書きの字形を多少犠牲にしてでも、筆勢を重視することを大きな特徴とする。日本では筆勢に重きを置いたため、線彫り技法が発展した。

その線彫り技法が主流である古代日本の刻銘の中で、浚い彫り技法によるものが一点存在する。それが本銅板銘である。本銅板銘が浚い彫り技法を選択した理由は、筆勢の表現を損なってでも欧陽詢風の書風を正確に再現しようとしたためである。これについて片岡直樹は、「銘の刻み手は中国系工人、朝鮮系工人のいずれかとみられるが、銅板の制作背景に朝鮮文化の強い影響が認められることをあわせ考えると、後者の可能性が高いといえるのではなかろうか。」(片岡直樹・2012 p.15)と述べ、その論拠として、欧陽詢風の書風が高句麗で流行していたことや、銅板の制作者である道明が百済系渡来氏族の出身とみられることなどを挙げている[9][23]

浚い彫り
筆で下書きをし、その下書きの文字線の縁の内側を鏨で彫る。文字線の両側を彫ると中央に彫り残し部分があるので、それを鏨で浚い取る技法である[9]
線彫り
筆で下書きをし、その下書きの線を一回だけで鏨によって文字を形成する技法である[9]

長谷寺の火災と銅板の安置場所[編集]

伴信友(『国文学名家肖像集』より)

伴信友が1844年(天保14年)11月に著した『長谷寺多宝塔銘文・長谷寺縁起剥偽』の冒頭に、本銅板銘の全文が書かれており、その1行目から9行目には現在と同じ文字の欠損が確認できる[28]。これは、1828年(文政11年)に伊賀人・河村春雄が銅板から採った拓本[29]臨書したものである。

河村は古物古跡の探索を好み、諸国を歴遊して1828年6月に長谷寺に至り、逗留しているときに本銅板を目にした。銅板は昔から本堂には安置せず、宝蔵に秘匿して、長老の他には寺僧でさえその存在を知らないという状況であった。が、河村は懇願して秘かに見ることができ、拓したという。1836年(天保7年)、河村は伴信友のもとを訪れ、伴に長谷寺で見た銅板のことを話した。伴の著書『長谷寺多宝塔銘文・長谷寺縁起剥偽』はその口伝書である。伴はその中で、943年(天慶6年)と1052年(永承7年)の長谷寺での火災の様子を次のように記している[10][30]

943年の火災
日本紀略』に、「天慶六年正月九日壬午、夜半風雨、大和国豊山寺堂舎皆悉焼亡、験仏同焼失(後略)」とある(豊山寺は長谷寺の別名)。銅板はその火を免れたが、その火災のときに一時亡失し、しばらくしてから見つかった。しかし、その火災で焼失したことをすでに公家に報告していたため、さらに焼失していなかったと報告するのはかなり嫌疑なことなので、秘匿することにした。本銅板を本堂に安置せずに、宝蔵に秘匿している理由はこのような事情による[31]
1052年の火災
百錬抄』に、「永承七年八月廿五日、長谷寺焼亡、観音像為灰燼」とあり、また『扶桑略記』にもこの焼亡のことについて、「但中尊首上小仏遺於灰中」とあるが、このとき銅板は宝蔵にあって火を免れたので、今の世に至っても崇められている[31]

以上の伴の記録から、本銅板は少なくとも1052年から1828年までの長期に亘り、宝蔵に秘匿されていたと考えられる。また、山田孝雄は『続古京遺文』[32]に次のように記している。

本銅版は(中略)近世塔焼失し其灰燼中より現出せしものと伝ふ。されど、文政十一年六月伊賀人河村春雄長谷寺に至りてこの銅版を搨したること伴信友の文に見ゆれば近世灰燼中より出でたりといふは誤なるべし[33]

松本俊吉は文中の「近世塔焼失」を1876年(明治9年)の火災と解釈している[34]。本銅板は長期に秘匿されていたので、1876年の火災のときに灰燼の中から発見されたという誤伝が生じたと考えられる。その1876年の火災の記録があり、永井義憲は次のように記している。

1876年の火災
(三重塔は)明治9年に俘浪者焚火が原因で焼失した。以前からこの中には「千仏多宝塔銅板」が安置せられていたのであるがこの炎上に際して偶然、在山していた画僧として著名な丸山貫長師が、単身炎の中にとびこんで、この重量のある銅板を抱えて塔外に救出したという[35]

ゆえに本銅板の安置場所は、1828年から1876年の47年間のうちに、宝蔵から三重塔へと移されたことになる[33]

銅板の制作年代[編集]

本銅板には江戸時代以来の研究史があり、その中で最も大きな論点となってきたのが制作年代である。これについて片岡直樹は、「問題の解明には当然のことながら彫刻様式と銘文解釈の両面からのアプローチが必要となる。」[4]と述べている。彫刻様式は、白鳳様式(645年 - 710年)[8]と奈良時代初期の様式(710年以降)[15]の両説あり、銘文中の鍵は、「奉為天皇陛下」、「歳次降婁漆菟上旬」、「奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇」の3つである。「歳次降婁漆菟上旬」は戌年7月上旬であるが、いつの戌年であるか不明のため種々の説が出ている。686年説(丙戌年・天武天皇15年/朱鳥元年[36])、698年説戊戌年・文武天皇2年[37])、710年説(庚戌年)、722年説壬戌[38])、770年説(庚戌年・宝亀元年[39])などがある。研究史の当初から686年説が有力とされてきており、この説では銅板銘の天皇を天武天皇(在位・673年 - 686年、戌年は674年と686年)とみる[17][40][41]。これは寺伝書風によるところが大きいが、その後の足立康や福山敏男などの研究により、現在では698年説が有力視されている。この説では銅板銘の天皇を持統天皇(在位・690年 - 697年、戌年は退位直後の698年)とみる[13]

寺伝
古くから長谷寺の創建を天武朝とし、本銅板はその創建のために制作されたとする考え方があるが、それは、「天武朝に道明が長谷寺の西の岡に三重塔を建立し(本長谷寺)、養老神亀年間(717年 - 729年)頃になって徳道が東の岡に観音堂を建立し(後長谷寺)、両者が合わさって現在の長谷寺が成立した。」との寺伝による。この寺伝は12世紀初頭以降に形成されたもので、銅板銘と後世につくられた長谷寺の縁起類とを組み合わせることにより生じた伝承である[42][43]

現在、銅板銘は長谷寺(三重塔)の建立銘ではなく、銅板そのものの造像銘であることがですでに確認されており、長谷寺の創建と銅板とは切り離して考えることが通説となっている[42]

770年説
本銅板銘の解読を最初に試みた江戸時代後期の国学者[44]伴信友は、『日本三代実録』の貞観18年(876年)5月28日条にある「道明は宝亀年中(770年 - 780年)に長谷寺を建立した。(趣意)」[45]との文により、「宝亀年中を宝亀元年(770年)庚戌とすれば、銅板銘の道明・降婁と『日本三代実録』の文とが符合する。(趣意)」[46]とした。伴信友の時代は本銅板銘を長谷寺(三重塔)の建立銘とする寺伝が通説であった[47][48][42]

福山敏男は一時、770年説を支持した[17]が、1935年に『日本三代実録』の文面と銅板銘の酷似を見出し、以下の見解を示した。

  • 道明、宝亀年中、率其同類、奉為国家、所建立也(日本三代実録)
  • 道明率引捌拾許人、奉為飛鳥清御原大宮治天下天皇敬造(銅板銘)

「長谷寺に関する『日本三代実録』の記事は長朗の牒状文であるが、これは当時、長谷寺の草創に関する正確な記録がなかったため、長朗が銅板銘に基づき、長谷寺の創建に関する記事として作文したものである。また、長谷寺の存在を示す最古の史料が『続日本紀』の神護景雲2年(768年)10月20日条にあるので、『日本三代実録』の「宝亀年中」に創建したというのは矛盾する[49]。「宝亀」は「神亀」の誤記であろう。(趣意)」[50]と福山は述べている。片岡直樹もその福山説を支持し、「『日本三代実録』の記事はすべてが史実を記したものではなく、長朗によって造作された内容を含むものと言えよう。」[51]と述べている[42][52]

698年説
足立康は1944年に刊行した『日本彫刻史の研究』において、「天武天皇がその宮号を『飛鳥清御原大宮治天下天皇』と改めたのは朱鳥元年(686年)7月20日のことである[53]から、7月上旬、つまり7月10日以前に完成した銅板に遡ってこの宮号が記されるはずもない。」[41]と述べている。また、「在位中の天皇をその宮号で呼ぶのも妥当ではなく、当然『今上天皇』またはそれに準ずる名で呼ばねばならない。」[41]として、686年説を退けている。そして、制作年代は次の3条件を具備する必要があり、すなわち、
  1. 戌年であること。
  2. 当時「飛鳥清御原大宮治天下天皇」と呼ばれる方がいたこと。
  3. 前記の天皇は当時「天皇陛下」と呼ばれても差し支えない方であること。
とし、「この3条件を満足するのは文武天皇2年(698年)よりほかにない。この年の干支は戊戌にあたり、当時は飛鳥清御原大宮治天下天皇とも呼んだ持統太上天皇がいた。そのように呼んだ例が大安寺資材帳などの中に見える。次に持統天皇は当時、太上天皇であるから、天皇陛下と呼んでも差し支えなく、これを太上天皇陛下の略称と見てもよい。さらに、『天皇陛下』を一方で『清御原大宮治天下天皇』と呼ぶのは、時の天皇である文武天皇と混同しないようにするためである。」[54]と述べている。
1952年、福山敏男は銅板銘中の「伏惟聖帝超金輪同逸多」は、695年に定められた武則天の尊号「慈氏越古金輪聖神皇帝」の模倣であると指摘し、本銅板の制作は695年以後であることから686年説を退けた。また武則天(女帝)の尊号を模倣したということは、銘文中の天皇も女帝の持統天皇がふさわしく、持統天皇退位直後の戌年である698年の可能性が極めて高いとした[55]
片岡直樹は、足立や福山の説を支持し、■などの補強を加え、「銅板は、持統天皇の病気平癒のために697年に発願がなされ、698年に完成した。」[56]と結論づけた。697年の持統朝のときに発願したため「天皇陛下」と称し、文武朝(在位・697年 - 707年)のときに完成したため、持統天皇を「飛鳥清御原大宮治天下天皇」と称したと解釈できる。697年当時、持統天皇が病気であったことも認められている[42]

見宝塔品[編集]

霊鷲山

法華経』見宝塔品第11の見宝塔とは、宝塔が地より涌出して大衆が見るということ[57]。■。

宝塔の出現

釈迦霊鷲山で法師品第10を説き終ったとき、釈迦の眼前に七宝(瑠璃珊瑚緑玉・赤真珠・玻璃)で飾られた高さ500由旬の大きな塔が大地から出現し、塔の中から『法華経』を説く釈迦を賛嘆する大きな声が響き渡った。声の主は多宝如来であり、この宝塔は多宝如来の遺骨塔である。■。

多宝如来の誓願

十方諸仏の参集

二仏並座

そして法華経中の肝心である虚空会の説法に移るのである[58]
多宝如来は対境(諸法実相)であり、釈迦は仏智(仏の智慧)であり、その釈迦と多宝如来とが並座した姿は、その実相と仏智が完全に一致した真理の極致であることを表現したものであり、「境智冥合」(きょうちみょうごう)を具体的に示したものである。法華経以前の諸経では、実相と仏智とが別々の立場を取っていた「境智各別」であった。十方諸仏が参集している宝塔の中で、この二仏並座という尊厳な儀式が行われたことは、法華経の位置を絶対のものとしたのである[58]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h 森岡隆 p.278
  2. ^ a b c 二玄社編書道辞典 p.213
  3. ^ a b 名児耶明 p.20
  4. ^ a b c d 片岡直樹・2012 pp.1-2
  5. ^ 片岡直樹・2008 p.16
  6. ^ 欠損の事情・時期は不明である(片岡直樹・2008 p.16)。
  7. ^ a b 片岡直樹・2008 pp.1-2
  8. ^ a b 片岡直樹・2008 pp.4-5
  9. ^ a b c d 片岡直樹・2012 pp.12-13
  10. ^ a b 片岡直樹・2010 pp.27-28
  11. ^ 片岡直樹・2008 p.16
  12. ^ a b 伊藤滋 p.24
  13. ^ a b c d 鈴木晴彦 p.20
  14. ^ 片岡直樹・2012 p.5
  15. ^ a b c d e 大山誠一 pp.5-6
  16. ^ a b 飯島春敬 p.622
  17. ^ a b c d e f g h i j 安藤更生 p.147-148
  18. ^ 片岡直樹・2012 pp.3-4
  19. ^
  20. ^ 廌(廌)■
  21. ^ a b 大山誠一 p.7
  22. ^ a b 片岡直樹・2012 pp.10-11
  23. ^ a b 片岡直樹・2012 pp.14-15
  24. ^ 小林信明 p.247
  25. ^ 伴信友 p.657
  26. ^ 魚住和晃(うおずみ かずあき、1946年 - )は、神戸大学大学院名誉教授(魚住和晃 奥付)。
  27. ^ a b 魚住和晃 p.52
  28. ^ 伴信友 p.656
  29. ^ 銅質が古びて拓本では鮮明にならず、刻字を見ながら辛くも模したという(伴信友 p.657)。
  30. ^ 伴信友 pp.656-657
  31. ^ a b 伴信友 p.658
  32. ^ 『古京遺文』(宝文館、1912年)所収。『古京遺文』は狩谷棭斎の著作であるが、これに山田孝雄香取秀真編『続古京遺文』『古金石逸文』などを併せて『古京遺文』とし、1912年に発刊した(片岡直樹・2010 p.35)。
  33. ^ a b 片岡直樹・2010 p.28
  34. ^ 松本俊吉『奈良歴史案内』(講談社、1974年)(片岡直樹・2010 p.29-30)
  35. ^ 永井義憲「本長谷寺と道明上人」(『豊山教学大会紀要』23、1995年)(片岡直樹・2010 p.35)
  36. ^ 山田孝雄内藤湖南小野玄妙の説
  37. ^ 金森遵・足立康・福山敏男片岡直樹の説
  38. ^ 喜田貞吉大山誠一の説
  39. ^ 伴信友の説
  40. ^ 片岡直樹・2008 p.3,15
  41. ^ a b c 足立康 p.82
  42. ^ a b c d e 片岡直樹・2008 pp.5-6
  43. ^ 片岡直樹・2010 p.5
  44. ^ 片岡直樹・2012 p.14
  45. ^ 原文は、「律師法橋上人位長朗申牒、大和国長谷寺、是長朗先祖、川原寺修行法師位道明、宝亀年中、率其同類、奉為国家、所建立也」(伴信友 p.657)とある。
  46. ^ 伴信友 p.657
  47. ^ 伴信友の著書「長谷寺多宝塔銘文・長谷寺縁起剥偽」の冒頭にある銅板銘の全文の直後に、「これは、長谷寺の開基・道明法師が、その寺の建立のときに造った本尊・千仏多宝塔の台に彫った銘文の臨書である。(趣意)」(伴信友 p.656)と述べている。
  48. ^ 伴信友 pp.656-657
  49. ^
  50. ^ 片岡直樹・2010 p.34
  51. ^ 片岡直樹・2008 p.6
  52. ^ 片岡直樹・2010 pp.25-26
  53. ^ 日本書紀』朱鳥元年7月20日条による(片岡直樹・2008 p.17)。
  54. ^ 足立康 p.83
  55. ^ 片岡直樹・2012 pp.7-8
  56. ^ 片岡直樹・2008 p.3
  57. ^ 坂本幸男 p.343
  58. ^ a b 山峰淳 p.194-197

出典・参考文献[編集]

  • 伴信友「長谷寺多宝塔銘文・長谷寺縁起剥偽」(『伴信友全集 第2』 国書刊行会、新版1909年(初版1907年))
  • 坂本幸男・岩本裕訳注『法華経(中)』(岩波文庫、新版2010年(初版1964年))ISBN 4-00-333042-0
  • 山峰淳『仏教読本』(日蓮正宗仏書刊行会、新版1995年(初版1954年))
書道関連
  • 安藤更生「長谷寺法華説相銅板銘」(「日本1 大和・奈良」『書道全集 第9巻』 平凡社、新版1971年(初版1965年))
  • 飯島春敬「長谷寺銅板法華説相図銘」(飯島春敬編『書道辞典』 東京堂出版、初版1975年)
  • 伊藤滋「名品鑑賞 大和・奈良(長谷寺銅板法華説相図銘)」(「図説 日本書道史」『墨スペシャル 第12号 1992年7月』 芸術新聞社
  • 森岡隆「長谷寺法華説相図銘」(書学書道史学会編『日本・中国・朝鮮 書道史年表事典』、萱原書房、新版2007年(初版2005年))ISBN 978-4-86012-011-5
  • 名児耶明「古墳・飛鳥(長谷寺銅板法華説相図銘)」(名児耶明監修 『決定版 日本書道史』、芸術新聞社、初版2009年)ISBN 978-4-87586-166-9
  • 「長谷寺法華説相図銅板銘」(二玄社編集部編『書道辞典 増補版』、二玄社、初版2010年)ISBN 978-4-544-12008-0
  • 魚住和晃・角田恵理子『「日本」書の歴史』(講談社、新版2010年(初版2009年))ISBN 978-4-06-213828-4
  • 鈴木晴彦「飛鳥時代(長谷寺銅板法華説相図銘)」(『別冊太陽 日本のこころ191 日本の書 古代から江戸時代まで』平凡社、初版2012年)
彫刻史
  • 足立康「白鳳彫刻に関する基礎的な問題」(『日本彫刻史の研究』竜吟社、初版1944年)
論文
  • 大山誠一「『野中寺弥勒象』の年代について(2.『長谷寺銅板法華説相図』との関連)」(弘前大学國史研究95、1993年)
  • 片岡直樹「長谷寺銅板の“道明”について」(新潟産業大学人文学部紀要 第20号抜刷、2008年10月)
  • 片岡直樹「長谷寺銅板の原所在地について 迹驚淵の伝承をめぐって」(新潟産業大学人文学部紀要 第21号抜刷、2010年3月)
  • 片岡直樹「長谷寺銅板法華説相図の銘文について 校訂・解釈・彫刻技法」(新潟産業大学経済学部紀要 第40号別刷、2012年7月)
辞典

関連項目[編集]