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利用者:常陸のクマさん/sandbox

考証[編集]

倭の五王への比定[編集]

中国の史書との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の「倭王」に比定する説がある。この説を初めて唱えたのは前田直典である。[1]この説では「讃」を名前の一部「ほむ」(誉める)の漢訳とする。応神天皇37年(306年、120年繰り下げると426年)に阿知使主らを「呉」に派遣した記事と、425年に讃が曹達らを派遣してきたという宋書の記事の関連が窺われる。

諡号か実名か[編集]

諡号である「誉田別」(ほむだわけ)は生前に使われた実名だったとする説がある。応神天皇から26代継体天皇にかけての名は概して素朴なもので装飾性が少なく、21代雄略天皇の「幼武」(わかたける)のように明らかに生前の実名と証明されたものもある[2]。しかし確実性を増してからの書紀の記述によれば、和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。

紀年[編集]

年代に関して、『日本書紀』では応神天皇3年条(272年→392年)に百済の辰斯王が薨去したことが記述されており、『三国史記』の「百済本紀」でも辰斯王が死去したと記述されている年は西暦392年である。また、『日本書紀』での応神天皇8年条(277年→397年)に「百済記(百済三書の一つ)によると阿花王(あくえおう、あかおう)が王子直支を遣わした」と記述されており、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子腆支(直支のこと)を倭へ遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は西暦397年である。また『日本書紀』では応神天皇16年条(285年→405年)に百済の阿花王が死去したと記述されている年も、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)西暦405年と一致している[3][4]。 (詳しくは百済史年表を参照)さらに、『日本書紀』で直支王が薨去したことが記述されている年(応神天皇25年条(414年))に関しても中国の史書『梁書』・『宋書』との記述と一致しており、神功皇后摂政55年(375年)から応神天皇25年(414年)までは実年が特定可能である[5]

一方、『古事記』では応神天皇の死去を甲午年(394年)とし、享年を130歳と記している。また仲哀天皇の死去年(応神天皇の誕生年と推定される)を壬戌年(362年)と記している。阿知吉師(阿直岐)の渡来も『日本書紀』が記す阿花王の時代ではなく照古王(近肖古王)の時代としている。

実在性を巡る論争[編集]

応神天皇については、かつて日本史学界で実在か、非実在かを巡って激しい論戦が戦わされた。以下にそれを略述する。

実在説[編集]

実在した場合、4世紀後半から5世紀初頭に実在した可能性が高いと見られている。 以下、文献史学の歴史学者たちの意見を要約して記す。近年の天皇陵古墳の発掘調査・立ち入り調査で判明した事実は別項に記す。

  • 井上光貞は、応神天皇の存在を支持し、『記紀』に記された事跡が具体的で、朝鮮の史書との一致も見られると主張し、「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」として応神天皇を位置付けている。
  • 吉村武彦は、応神天皇が新羅や百済を含む広範な領土を支配していた可能性を強調し、応神天皇の実在性を支持している。[6]
  • 河内春人は、応神(ホムタワケ・ホムツワケ)のモデルは朝鮮と交渉開始した人物であり、伝承の中で倭王の始祖の地位に押し上げられていた、とした。

河内の研究を要約すると下記のとおりである。

  • アフリカの無文字文明集団における首長継承伝承の研究[7]を参考に、神武から応神までが父子直系継承であり、応神の子の仁徳から傍系継承が語られるのは、5世紀の頃の記録が曖昧になろうとも、そこに大きな区切りがあることまでは忘れられなかったことを表している。
  • 記紀がホムタワケ、「上宮記」がホムツワケとしているのは異なる王族皇族)集団が別個に系譜を作成しそれぞれが応神天皇を始祖的な位置づけをしたものが伝承したからだ。
  • 朝鮮半島から贈られた七支刀の贈与相手の「倭王」も応神天皇であっただろうと推測している。 [8]

非実在説[編集]

一方、文献史学者たちの間でも応神天皇非実在説を取るものもかつてはいた。岡田英弘直木孝次郎らである。 彼らは応神天皇は神であって実在の人物ではないとした。岡田は「応神天皇の五世孫」として即位した越前国近江国ともされる)出身の26代継体天皇の祖先神であるとして、その実在性を否定している[9]

岡田は、『古事記』は偽書として否定し、『日本書紀』応神天皇紀を分析した。結果として、応神天皇紀は応神天皇と無関係の説話をただ羅列しただけだとした。岡田の『日本書紀』の分析を要約すると下記のようになる。

  • 全ての説話で応神は主役ではなく、脇役でしか無い。これは元々あった説話に架空人物の応神をはめ込んだためであろう。
  • 初代天皇は仁徳である。『宋書』倭国伝にいう「祖禰」は「祖の禰」と読むべきで、これが仁徳天皇のことである。
  • 大仙陵古墳の存在から仁徳天皇の実在は疑えず、最大の古墳は初代天皇にふさわしい。
  • 従って、仁徳以前の天皇は全て架空の人物である。
  • 『日本書紀』仁徳天皇紀は応神紀と異なり、説話の羅列ではなく具体的事績が多い、

その前の応神は、仲哀、神功と共に、仁徳以降の天皇と繋ぎ合わせる為に創作された人物であるとしている[10]。また、直木孝次郎も岡田説と同様の説を唱えていた。[11]

ただし、『宋書』倭国伝にいう「祖禰」は「祖の禰」と読むべきだという岡田説は湯浅幸孫により「祖禰は単に祖先という意味で、無理に人名として読む必要はない」という批判も存在していた。そうすると、岡田・直木説の論拠のうち、学問的に動かないのは『日本書紀』の分析を除くと大仙陵古墳=仁徳天皇陵であるということが主軸となっていた。また、この頃の考古学では、誉田御廟山古墳の被葬者は応神天皇ではないとされていた。

近年の考古学の発掘調査・立入調査の結果として判明した事実[編集]

近年の考古学の進展は目覚ましいものがあり、年輪年代学の進歩により古墳から出土した木の年代が科学的に分かるようになった。 これにより、過去の古墳の年代測定は覆された。 考古学者の白石太一郎は、「(岡田・直木説[応神非実在説]が出た)70年代はまだ科学が未熟だったので、年輪年代学がまだ古代遺跡の異物の年代測定で使えず、古墳の年代も誤ってしまっていた」としている。[12]

木と隣接して出土することが多い埴輪須恵器の年代もほぼ確定できるようになった。また応神天皇陵だと宮内庁がしていた誉田御廟山古墳については、1980年以降、河川改修工事に伴い古墳の濠(ほり)と外の堤の発掘調査が行われた。この発掘調査により多くの成果が明らかになった。また2008年の宮内庁の墳丘立ち入り調査でも墳丘前方部に巨大な土壇があり、埋葬者が別にいることが発見された。[13]以下、考古学者の白石太一郎の説により発掘の分析結果を記す。[14]

  • 誉田御廟山古墳の発掘調査で出土した木と埴輪がほぼ応神天皇の時代と一致する。
  • 円筒埴輪は五世紀の第一四半期である。
  • 木は401年くらいである。ただし前後60年の誤差がある。

上記のことから応神天皇陵=誉田御廟山古墳であることはほぼ確実と見られている。逆に仁徳天皇陵=大仙古墳という岡田・直木説の大前提は、大仙古墳から出土した遺物と仁徳天皇の年代が合わず、考古学者の岸本直文は「年代的には允恭天皇陵であった可能性があり、巨大だったので過去には古代史で一番業績が大きな天皇である仁徳天皇陵だとされてしまったのではないか」としている。[15]

  1. ^ 倭王讃については、仁徳天皇や17代履中天皇を比定する説もある。
  2. ^ 赤城 2006, p. 118.
  3. ^ 阿花王(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)(朝日新聞社コトバンクより)。
  4. ^ 坂本太郎平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館、2010年)阿花王項。
  5. ^ 田中俊明 2021.
  6. ^ 「ヤマト王権」 岩波新書 2010 93頁
  7. ^ 河内の研究によれば、「アフリカの無文字社会において、部族首長の継承は、事績や系譜的位置が詳しく語られている首長は傍系継承。名前と継承順位だけしか記憶が残っていない首長は直系継承であることが多い」という
  8. ^ 河内春人『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』(中央公論新社、2018年)
  9. ^ 岡田 1977, p. 189-190.
  10. ^ 岡田 2009, p. 62-65.
  11. ^ 直木孝次郎『大和王権と河内王権』吉川弘文館〈直木孝次郎古代を語る 5〉、2009年、185-200頁。ISBN 9784642078863NCID BA88939264全国書誌番号:21542433 
  12. ^ 白石太一郎編『天皇陵古墳を考える』(学生社)、2012。同書第二章「誉田御廟山古墳(現応神陵)の被葬者」より。執筆者は白石太一郎。
  13. ^ 「応神天皇陵、前方部に方形土壇 血縁者ら重要人物を埋葬か」(日本経済新聞)
  14. ^ 白石太一郎編『天皇陵古墳を考える』(学生社)、2012及び『古墳の被葬者を推理する』 (中公叢書)、2018より。なお、白石説要約については[http://hidemichitanaka.net/?page_id=300 白石に賛同する美術学者の田中英道の説も参考にした。田中は巨大土壇の埋葬者は『古事記』と一致すると述べ、考古学的成果が文献学とも合致するとしている。
  15. ^ MBSニュース"仁徳天皇の墓"とされる『大山古墳』...しかし出土品や没年などから「仁徳天皇の墓ではない」と専門家の間で論争が 一体誰の墓なのか?22/02/21 15:00。もっとも白石太一郎のように従来どおり仁徳天皇陵=大仙古墳とみる学者もニュースには登場しており、現時点では決着を見ていない。