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利用者:新田佳奈/sandbox

大村 治五平(おおむら じごへい、宝暦元年(1751年)~文化10年(1813年))は、江戸時代中期から後期の武士武芸者南部盛岡藩士。文化4年(1807年)に勃発した「択捉島事件(文化露寇)」を経験した人物の一人で、事件を詳細に記した手記「私残記」の著者。

生誕から事件発生まで[編集]

宝暦元年(1751年)、盛岡に生まれる。大村家は代々南部氏に火業師(砲術師)として仕える家柄であった。治五平の父・友左衛門は砲術の天才と呼ばれるほどの砲術家であったという。治五平は若くして数々の武術を修め、中でも剣術免許の腕前であり、砲術居合術に至っては皆伝を受けるほどであった。加えて書画もよくしたという。31歳で難治の病を患ったため隠居し、以降は療養生活に入った。

文化3年(1806年)55歳のおり、盛岡藩が江戸幕府より命じられた蝦夷地警備のために動員され、蝦夷地へ赴くこととなった。同年5月18日、治五平を含む盛岡藩の北方警備隊は下北半島田名部を出航し、26日に千島列島択捉島シャナに到着した。ここで択捉島を管轄する箱館奉行所シャナ会所の幕臣・菊池惣内戸田叉太夫関谷茂八郎らの指揮下に編入され、津軽藩の警備隊とともに約1年を送ることになった。滞在中は警備活動のほか、漂流民を救助したり、大砲の訓練(この際戸田より無理難題を押し付けられ、大いに閉口した旨が「私残記」に書かれている)などをして過ごしているが、択捉に着任間もない9月11日には、ロシア兵が樺太クシュンコタンを襲撃して略奪を行うという大きな事件も起きている。

択捉島事件[編集]

文化4年(1807年)4月24日、タンネモイママイの沖合に二艘のロシア船が現れたとの報告が、留萌よりシャナの会所へもたらされた。治五平はロシア船がシャナにも現れると予想し、竹束の盾や土塁を築くなどして会所を防御するよう関谷へ進言したが、聞き入れられなかった。27日にはナイホ沖合で、択捉島に物資を輸送してきた補給船・観幸丸がロシア船に砲撃され、追い回されるという事件が起きた(日没を迎えたためロシア船が追跡を断念し、観幸丸は辛くも難を逃れた)。28日にその報告を受けた幕臣たちは及び腰となり、盛岡・津軽両藩兵に会所裏山の笹原を切り開いて避難所を作るよう命じ、治五平を呆れさせた。

29日朝9時頃、二艘のロシア船がシャナ沖に出現した。やがて武装したロシア兵24、5名が小舟に乗り込み、鉄砲を撃ちながら浜へ近づいてきた。警備隊は騒然としたが、関谷や地理調査員として派遣されていた間宮林蔵が「あれは西洋でいう礼砲なので、親善の使節だろう」と言ったため、静観していた。しかし小舟を迎えに出した下男がロシア兵に狙撃され、大腿部に重傷を負ったことから目的が親善でないことが判明、一転して大混乱となった。上陸したロシア兵は鉄砲を撃ちかけながら小屋へ放火するなどの乱暴を働き、警備隊は屯所を捨てて裏山へ逃げ込んだ。治五平は反撃を試みて、盛岡藩陣屋の上から鉄砲を数発射撃したが弾丸が尽き、さらには流弾を足の甲へ受けて負傷したために撤退した。夕刻になりロシア兵が本船へ引き上げ始めたため、警備隊も山を降りて会所へ戻り、今後の対策を協議したが名案は出なかった。

翌30日、夜明けとともにロシア兵がナヨカ方面より再上陸し、揚陸した三門の大砲で砲撃を開始した。砲術師である治五平は発射音からそれが実弾を伴わない空砲なのではないかと睨んだが、隊員たちの動揺は激しく、シャナの奥地にあるサグベツまで逃走した。朝8時過ぎ、無人の屯所を制圧したロシア兵たちは勝鬨をあげ、戸障子などを打ち壊し、食料や武具甲冑のほか、家具や日用品の類いまでをも略奪して船へ運び始めた。治五平は山中の洞窟に身を隠していたが、幕府役人の安否確認や屯所の様子を探るため偵察へ赴くことにした。しかし足の傷が痛んで川が渡れず、やむなく橋を渡っていこうとしたところ、図らずも一人のロシア兵と遭遇した。治五平は抜刀し、「日本!」と叫んで斬りかかったが、5、6人のロシア兵が続いて現れ、治五平が負傷した足を坂の台木につまずかせて転んだところを上に折り重なって押し付け、捕虜としてしまった。観念した治五平が「首を斬れ!」と言って首を差し伸べると、ロシア兵は手真似で「我々は捕虜は殺さぬ」と言って取り合わなかった。昼頃になって治五平はロシア本船へ連行されたが、そこには蝦夷地の各地で捕虜にされた日本人が10人ほどもいて治五平を驚かせた(武士は治五平一人であった)。夕方頃にはロシア兵の略奪も終わり、会所や盛岡・津軽両藩の陣屋、板蔵などにも火がかけられ、ことごとく焼き尽くされた。夜8時頃になり、新たな捕虜として津軽藩の足軽が連行されてきたが、顔に片目の色が変わるほどの大火傷を負っている上、病気に罹患していたため、5月3日早朝に小舟でシャナへ送り返された。

治五平らを乗せたロシア船は5月3日正午頃シャナを出帆して、その後約1ヶ月間に渡ってウルップ島国後島樺太島の間を行来し、接岸して漁村を焼き払ったり、日本船を拿捕し略奪した上で放火するなどの狼藉を繰り返した。やがて6月5日の午後2時頃、治五平は日本人捕虜10人のうち7人とともに小舟へ移され、多少の食料などを与えられた上で解放された。治五平らは利尻島方面へ船を漕ぎ、夜8時頃宗谷抜海までたどり着き、その海上で夜を明かした。翌6日早朝宗谷へ向けて再び漕ぎ始め、午後2時頃に無事宗谷へ到着した。

一方、シャナでロシア兵の襲撃から山奥へ逃げ込んだ警備隊員たちは動揺のあまり、治五平が捕虜となったことにも気づいていなかった。やがてロシア船が去ったことを見届けた5月4日頃からシャナへ戻り始めたが、町は一面に焼き払われて食料もないため、物資を求めてアリモイまで移動した。だがそこもロシアの襲撃を受けていたので、仕方なく留別へ向かうことになった。この途中で当時会所の責任者であった(筆頭は菊池惣内であるが、当時箱館へ赴いており留守であった)幕臣の戸田叉太夫が責任を感じたためか自害している。留別に到着した警備隊は協議して口裏を合わせ、箱館奉行所へ提出する報告書を作成した。その内容はこの時点では死んだと思われていた治五平へすべての罪を被せ、「29日の襲撃開始後、5月2日昼までシャナを防衛したが、治五平が逃走したため形勢不利となり、やむなく撤退した。日本人はロシア人と白兵戦を演じ、ロシア兵数人を討ち取った。撤退に際し、会所や陣屋には自ら火をかけて焼き払った」などという事実とかけ離れたものであった。やがて留別の物資も不足してきたため、警備隊は少数の盛岡・津軽両藩兵を残して択捉島を離れ、箱館へ向かった。

事件後から死去まで[編集]

治五平ら解放された捕虜たちは宗谷で事情聴取を受けた後、箱館へ移されることになり、6月11日に宗谷を出発した。治五平は足の傷が痛んで歩けず、大半の工程を馬に乗って進んでいる。天塩や石狩などを経て、箱館には28日に到着した。同行した幕府の役人や医師たちは治五平に同情的で、薬を与えたり何かと世話を焼くなど、治五平を感激させている。

箱館では揚屋に拘留されたが、出頭命令や事情聴取も特にないまま数ヶ月間を過ごした。この間足の鉄砲傷が悪化して足全体が腫れ上がったため、7月1日から10月にかけて瀉血や薬による治療を受けたが、完全に回復はしなかった。また、揚屋の番人から、先に箱館に戻っていた択捉島警備隊の同僚たちが、治五平が死んだものと思って全ての責任を彼一人に被せ、自分たちに都合の良い報告を上申していたことを聞かされ、激しく憤慨している。

やがて治五平らの身柄は松前経由で江戸霊岸島の蝦夷会所へ移送されることが決まり、10月21日に箱館を出発し、23日に松前へ到着。その後は城下の空屋敷へ入れられ、11月24日までここで過ごした。その後は11月24日に船で松前を出帆し12月11日に江戸霊岸島へ到着、同時に盛岡藩上屋敷へ身柄を預けられた。

「私残記」[編集]

参考文献[編集]

  • 「私残記 大村治五平に拠るエトロフ島事件」(森荘已池・著)