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利用者:末広橋/sandbox

貝吹村国鉄バス炎上事故
場所 日本の旗 日本愛媛県東宇和郡貝吹村大字中通川字大川原10号1番地)
日付 1951年(昭和26年)11月3日
午前8時25分ごろ (JST)
概要 満員の国鉄バスで車内から突然発火し、多くの死傷者を出した
原因 車内に置かれた蓄電池に映画フィルムの缶が触れてショートし、缶内のフィルムに引火した
死亡者 33名(車掌1名、乗客32名)
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地図

貝吹村国鉄バス炎上事故(かいふきむらこくてつばすえんじょうじこ)は、1951年(昭和26年)11月3日に、愛媛県東宇和郡貝吹村大字中通川字大川原10号1番地(現在の西予市野村町大西)農協付近県道で発生したバスの火災事故。

運転士、車掌のほか62名の乗客を乗せた満員の国鉄バスの車内で、蓄電池と缶に入った映画フィルムから火が起こり、瞬時に燃え広がったことで多くの死傷者を生じた。

事故に定まった名称は無いが、貝吹村国鉄バス丸焼事件[1]国鉄バス炎上事件[2]火だるまバス事件[3]のように呼称される。

経緯[編集]

満員のバス[編集]

野村発大洲行の国鉄バス21265号車[4](愛媛021204号[5])は、1951年11月3日の8時に始発の野村駅を発車した。車両はいすゞ自動車製の国鉄二型(TS-80型)ロマンスシート車[6]で、事故発生の時点では定員は43名のところ、62名もの乗客が乗車していた[7]。この日は、付近の貝吹村栗ノ木と横林村大成、高川村で秋祭りがあり、祭客の家族連れの乗客が多かった。そのため始発の野村駅の時点で積み残しを出しながらすし詰め状態で発車し、事故現場手前の大西停留所までで更に4,5名を載せて走っていたものである[5]

積まれた補助バッテリーと映画フィルム[編集]

バスの運転席直後には事故の時点で、12ボルトの補助バッテリーと缶に入った映画フィルムが置かれていた。それぞれが積まれた経緯は以下のとおりである。

補助バッテリーは、バスに搭載するための自動車用12ボルトのもので、性能が減退して始動することが困難になったため、同僚運転士から依頼されて大洲自動車営業所に運んで充電することとなっていた。運転士は発車前、覆いもなく端子が露出した状態の当該補助バッテリーが運転席背後の床上に置かれていることを確認したが、特に措置を講じることもなく野村町駅を発車した[8]

映画フィルムは、

出典[編集]

  1. ^ 時事通信社 編『時事年鑑』 昭和28年版、時事通信社、1952年10月、474頁https://dl.ndl.go.jp/pid/3018598/1/250 
  2. ^ 愛媛県警察史編さん委員会 編『愛媛県警察史』 第2巻、愛媛県警察本部、1978年3月、752頁https://dl.ndl.go.jp/pid/9770318/1/752 
  3. ^ 「火だるまバス事件三名を起訴 谷技師は最大の過失 残るは國鐵の遺族補償」『愛媛新聞』第3620号、1951年11月17日、3面。
  4. ^ 「東宇和で國鐵バス丸燒け 死者20重輕傷12名 祭禮客満載、一瞬の慘事」『夕刊愛媛新聞』第708号、1951年11月4日、1面。
  5. ^ a b 「哀れ幼兒を膝に聖なる母親に合掌 バス燒失事件香煙搖ぐその日の現場」『夕刊愛媛新聞』第709号、1951年11月5日、2版、1面。
  6. ^ 「バス火だるま事件 責任を果さぬ運轉手 ブレーキかけず飛降りる?」『夕刊愛媛新聞』第710号、1951年11月6日、1面。
  7. ^ 「満員の國鐵バス燃ゆ 東宇和で燒死卅二重軽傷十八名」『愛媛新聞』第3607号、1951年11月4日、2版、1面。
  8. ^ 小町谷操三 編『新商事判例集』 第4巻、岩波書店、1972年12月、209-210頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1349361/1/115