利用者:河内蜻蛉/sandbox11

我らビルマ人協会
တို့ဗမာအစည်းအရုံး
略称 DAA
創立者 Ba Thaung
スローガン "Burma is our country; Burmese literature is our literature; Burmese language is our language. Love our country, raise the standards of our literature, respect our language."[1]
党歌 "We Burmans"
(တို့ဗမာ, Do Bama)Template:Parabr
創立 30 May 1930
後継政党 Freedom Bloc
本部所在地 Rangoon
Armed wing Letyon Tat
政治的思想
党旗
Hammer and Sickle flag of Burma.svg
Burmaの政治
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Burmaの選挙
イギリス領ビルマの旗 英領ビルマの政治団体
我らビルマ人協会
တို့ဗမာအစည်းအရုံး
タキン党のロゴ
成立年月日 1930年5月30日
前身政党 ドバマー協会
全ビルマ青年連盟
後継政党 自由ブロック
ビルマ人民革命党
本部所在地 ラングーン
政治的思想・立場 ビルマ・ナショナリズム
社会主義
共産主義
党旗
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タキン党(ビルマ語: သခင်、発音: sa.hkang, IPA: [θəkʰɪ̀ɰ̃]、「主人」の意味)はビルマのナショナリストによる政治団体。1930年代に結成され、若く現状に不満を抱く知識人たちによって構成されていた。正式名称は我らビルマ人協会(ビルマ語: တို့ဗမာအစည်းအရုံး、ラテン文字転写: Dóbăma Ăsì-Ăyòun、略称: DAA、カナ転写: ドバマー・アスィーアヨウン)。イギリス人たちが植民地時代に呼ばれていた「主人」という言葉から党名をとったタキン党は、1930年5月にバ・タウン(Ba Thaung)によって設立され、伝統主義的な仏教ナショナリストの要素と新しい政治思想を融合させた。ビルマの政治関心を高めた点で特筆すべき団体であり、その支持基盤の大半は学生からなっていた。

党歌、「ミャンマー・ガバ・マ・チェ」(ビルマよ、世界の終わりまで)はビルマ最初の愛国歌となり、最終的には国歌となった。作曲はサヤー・ティン(Saya Tin、のちのタキン・ティン)で、日本によるビルマ占領の際は国家のシンボルとなり、1948年には独立達成に際して国家として採用された。

歴史[編集]

DAAが創設されたのは1930年ラングーンであり、ビルマ系インド人の港湾労働者とその家族がビルマ人によって殺害された後のことであった。これらのビルマ人たちはインド人が本来自分が得るはずの職を奪っていると信じ込んでいた[2][3][4]。ドバマー協会はナショナリスト的な性質を持つものであり、ビルマ至上主義を支持した。その会員たちは「ウー」や「マウン」といった一般的な敬称ではなく、ビルマ語で「主人」を意味する「タキン」(Thakhin、「主人」の意味)を敬称として使った。これは「タキン」という言葉が伝統的にイギリス人を呼ぶ際に使われていたからであった[5]。ドバマー協会のスローガンは「ビルマは我々の国、ビルマ文学は我々の文学、ビルマ語は我々の言語。我々の国を愛し、我々の文学の水準を上げ、我々の言語に敬意を払え」であった[1]。タキン党は民族的少数者をビルマ文化に同化させることに熱心であり、大半の活動はラングーン大学から行われていた[1]。ビルマの既存の政党とは違って、DAAは外国の資金や修道僧からの援助に依存しておらず、その創設によってビルマの政治は大きく変化した[5]。創設者たちはイギリス当局に妥協することを拒否し、自分たちの準軍事組織、Letyon Tatを作った。

1935年、密接な関係があった全ビルマ青年連盟がDAAに合流し、最初の会議がシュウェボで行われた。続いて2回目の会議は1936年にミンジャン(Myingyan)で行われ[5]1936年の選挙(1936 Burmese general elections)に「我が王・我が種族」を意味する「コウミーン・コウチーン党」(Komin Kochin Aphwe)という名前で参加することが決められた。28人の候補者を擁立し、そのうち3人が当選した[6]タヤワディ南選挙区のタキン・ミャ(Thakhin Mya)、ヘンザダ東選挙区のタキン・フラ・ティン(Thakhin Hla Tin)、パコック南選挙区のタキン・アン・チー(Thakhin Ant Gyi)の3人である[7]

3議席を獲得したにも関わらず、タキン党は一時的に活動を休止し、のちにアウンサンウー・ヌといった1936年の学生ストライキ(1936 student strike)の参加者の主導によって1937年に復活した[5]。このことは党内に分断をもたらし、旧来の指導部は新たな指導部の左翼的傾向に反発した[5]

1930年代末までに、タキン党は主要なナショナリスト団体として浮上することで地位を向上させた。この目標に到達するために、タキン党はストライキや軍事行動といった暴力的手段に関与した。1937年、タキン党の指導者が明確に現れた。その名もアウンサンと呼ばれていた、若き法律家である。1939年にはタキン党がドバマー・アスィーアヨウンを乗っ取り、当時の国家元首であったバー・モウ政権の崩壊を引き起こした。1940年にタキン党とバー・モウの貧民党(Poor Man's Party)が合流して自由ブロック(Freedom Bloc)を形成した。しかし一方でDAAは密かにビルマ人民革命党(People's Revolutionary Party)を結成していた[8]

1946年に新たなDAAがバ・セイン(Ba Sein)とトゥン・オウッ(Tun Oke)によって設立された。新DAAは広く支持を得ることには失敗したが、バ・セインとトゥン・オウッはどちらも1946年に英領ビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミス(Reginald Dorman-Smith)の行政参事会に参加した。党は1950年代まで存在し続けたが、選挙においてはほとんど成功しなかった[8]

軍事[編集]

タキン党はビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army)の結成に功績を残した。1940年に日本の陸軍将校、鈴木敬司大佐はアウンサンネ・ウィンなどの30人のタキン党員に、台湾海南島にあった日本の学校で軍事教練を受けさせた。この30人のタキン党員たちは「三十人の志士」として知られ、のちに8000人近くにのぼるビルマ独立義勇軍の創設メンバーとなった。1941年末から1942年初頭にかけて日本がビルマに侵攻した際、ビルマ独立義勇軍はイギリス軍を追放するために日本軍と行動をともにした。1943年8月1日、日本はビルマに独立を付与した。ビルマ独立義勇軍はビルマ国民軍に名前が変えられた。しかし日本軍はビルマ人が求めていたような独立を付与したいのではなく、単にイギリス軍を追放したかっただけなのだと気づいたビルマ国民軍は、1945年3月にイギリス第14軍(Fourteenth Army)がラングーンに侵攻するのと合わせて日本軍に立ち向かった。

[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c Tarling, Nicholas (1999). The Cambridge History of Southeast Asia. Cambridge UP. ISBN 0-521-66369-5 
  2. ^ Mikael Gravers (1999). Nationalism as Political Paranoia in Burma: an essay on the historical practice of power. Routledge. 
  3. ^ Paul H. Kratoska, ed (2001). South East Asia: Colonial History. Routledge. ISBN 0-415-21539-0 
  4. ^ A first hand account appears in Trials in Burma (1937) by Maurice Collis
  5. ^ a b c d e Haruhiro Fukui (1985) Political parties of Asia and the Pacific, Greenwood Press, p128
  6. ^ Fukui, p138
  7. ^ Khin Yi (1988) The Dobama Movement in Burma (1930–1938), SEAP, p39
  8. ^ a b Fukui, p129

History[編集]

A Dobama protest

The DAA was established in 1930 in Rangoon after Burmese Indian dock workers and their families were murdered by Bamars who believed that the Indians had taken jobs that rightfully belonged to them. The Dobama organisation was nationalist in nature, and supported Bamar supremacy. Its members used the Burmese word Thakhin ("master") as their honorific title rather than the standard U or Maung, as Thakhin was the word traditionally used to address the British. The slogan of the organisation was "Burma (Myanmar) is our country; Burmese literature is our literature; Burmese language is our language. Love our country, raise the standards of our literature, respect our language.' Dobama Asiayone was keen assimilating ethnic minorities into Burman culture, and most of its activities stemmed from Rangoon University. Unlike former parties in Burma, the DAA was not reliant on support from foreign interests or Buddhist monks, and its establishment was a significant change in Burmese political history. Its founders rejected compromise with the British authorities, and formed its own paramilitary group, the Letyon Tat.

In 1935 the closely affiliated All-Burma Youth League merged into the DAA and its first conference was held in Shwebo. Following the second conference in Myingyan in 1936, the Thakhins decided to contest the 1936 elections under the name Komin Kochin Aphwe (One's own King, One's own Kind Party). It put forward 28 candidates three of which were elected; Thakhin Mya in Tharrawaddy South, Thakhin Hla Tin in Henzada East and Thakhin Ant Gyi in Pakokku South.

Despite winning three seats, the Thakhin group temporarily became inactive until being resurrected in 1937 under the leadership of participants in the 1936 student strike, including Aung San and U Nu. This led to a split, with the older leaders being opposed to the left-wing leanings of the new leadership.

By the late 1930s, the Thakhins had risen through the ranks to emerge as a prominent nationalist group. To achieve its objectives, the group committed itself to the use violent means, such as strikes and force. In 1937, a Thakhin leader had surfaced: a young lawyer by the name of Aung San. In 1939, the Thakhins took over the Dobama Asiayone and brought about the collapse of the government of Ba Maw, then the premier of the country. In 1940 the Thakhins and Ba Maw's Poor Man's Party merged to form the Freedom Bloc, although the DAA founded the People's Revolutionary Party in secret.

In 1946 a new DAA was established by founding members Ba Sein and Tun Oke. Although it failed to achieve widespread support, Ba Sein and Tun Oke were both included in the Governor Reginald Dorman-Smith's Executive Council in 1946. The party continued to exist into the 1950s, but was not successful in elections.

Achievements[編集]

The Thakhins were credited for the formation of the Burma Independence Army. In 1940, a Japanese army officer, Colonel Suzuki Keiji, took thirty Thakhins including Aung San and Ne Win for military training at Japanese schools in Formosa (Taiwan) and Hainan. These thirty Thakhins, known as the Thirty Comrades, were the founding members of the Burma Independence Army, which would later number around 8000 men. When the Japanese invaded Burma in late 1941 and early 1942, the BIA marched with the Japanese to expel the British. On 1 August 1943, the Japanese granted Burma a kind of independence. The BIA was renamed the Burma National Army (BNA). Recognising that the Japanese had merely replaced the British rather than providing the independence they sought, in March 1945, the Burma National Army turned on the Japanese as the British Fourteenth Army advanced on Rangoon.

See also[編集]

References[編集]

External links[編集]


加筆版

イギリス領ビルマの旗 英領ビルマの政治団体
我らビルマ人協会
တို့ဗမာအစည်းအရုံး
タキン党のロゴ
成立年月日 1930年5月30日
前身政党 ドバマー協会
全ビルマ青年連盟
後継政党 自由ブロック
ビルマ人民革命党
本部所在地 ラングーン
政治的思想・立場 ビルマ・ナショナリズム
社会主義
共産主義
党旗
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タキン党(ビルマ語: သခင်、発音: sa.hkang, IPA: [θəkʰɪ̀ɰ̃]、「主人」の意味)はビルマのナショナリストによる政治団体。1930年代に結成され、若く現状に不満を抱く知識人たちによって構成されていた。正式名称は我らビルマ人協会(ビルマ語: တို့ဗမာအစည်းအရုံး、ラテン文字転写: Dóbăma Ăsì-Ăyòun、略称: DAA、カナ転写: ドバマー・アスィーアヨウン)。イギリス人たちが植民地時代に呼ばれていた「主人」という言葉から党名をとったタキン党は、1930年5月にバ・タウン(Ba Thaung)によって設立され、伝統主義的な仏教ナショナリストの要素と新しい政治思想を融合させた。ビルマの政治関心を高めた点で特筆すべき団体であり、その支持基盤の大半は学生からなっていた。

党歌、「ミャンマー・ガバ・マ・チェ」(ビルマよ、世界の終わりまで)はビルマ最初の愛国歌となり、最終的には国歌となった。作曲はサヤー・ティン(Saya Tin、のちのタキン・ティン)で、日本によるビルマ占領の際は国家のシンボルとなり、1948年には独立達成に際して国家として採用された。

歴史[編集]

DAAが創設されたのは1930年ラングーンであり、ビルマ系インド人の港湾労働者とその家族がビルマ人によって殺害された後のことであった。これらのビルマ人たちはインド人が本来自分が得るはずの職を奪っていると信じ込んでいた[1][2][3]。ドバマー協会はナショナリスト的な性質を持つものであり、ビルマ至上主義を支持した。その会員たちは「ウー」や「マウン」といった一般的な敬称ではなく、ビルマ語で「主人」を意味する「タキン」(Thakhin、「主人」の意味)を敬称として使った。これは「タキン」という言葉が伝統的にイギリス人を呼ぶ際に使われていたからであった[4]。ドバマー協会のスローガンは「ビルマは我々の国、ビルマ文学は我々の文学、ビルマ語は我々の言語。我々の国を愛し、我々の文学の水準を上げ、我々の言語に敬意を払え」であった[5]。タキン党は民族的少数者をビルマ文化に同化させることに熱心であり、大半の活動はラングーン大学から行われていた[5]。ビルマの既存の政党とは違って、DAAは外国の資金や修道僧からの援助に依存しておらず、その創設によってビルマの政治は大きく変化した[4]。創設者たちはイギリス当局に妥協することを拒否し、自分たちの準軍事組織、Letyon Tatを作った。

1935年、密接な関係があった全ビルマ青年連盟がDAAに合流し、最初の会議がシュウェボで行われた。続いて2回目の会議は1936年にミンジャン(Myingyan)で行われ[4]1936年の選挙(1936 Burmese general elections)に「我が王・我が種族」を意味する「コウミーン・コウチーン党」(Komin Kochin Aphwe)という名前で参加することが決められた。28人の候補者を擁立し、そのうち3人が当選した[6]タヤワディ南選挙区のタキン・ミャ(Thakhin Mya)、ヘンザダ東選挙区のタキン・フラ・ティン(Thakhin Hla Tin)、パコック南選挙区のタキン・アン・チー(Thakhin Ant Gyi)の3人である[7]

3議席を獲得したにも関わらず、タキン党は一時的に活動を休止し、のちにアウンサンウー・ヌといった1936年の学生ストライキ(1936 student strike)の参加者の主導によって1937年に復活した[4]。このことは党内に分断をもたらし、旧来の指導部は新たな指導部の左翼的傾向に反発した[4]

1930年代末までに、タキン党は主要なナショナリスト団体として浮上することで地位を向上させた。この目標に到達するために、タキン党はストライキや軍事行動といった暴力的手段に関与した。1937年、タキン党の指導者が明確に現れた。その名もアウンサンと呼ばれていた、若き法律家である。1939年にはタキン党がドバマー・アスィーアヨウンを乗っ取り、当時の国家元首であったバー・モウ政権の崩壊を引き起こした。1940年にタキン党とバー・モウの貧民党(Poor Man's Party)が合流して自由ブロック(Freedom Bloc)を形成した。しかし一方でDAAは密かにビルマ人民革命党(People's Revolutionary Party)を結成していた[8]

1946年に新たなDAAがバ・セイン(Ba Sein)とトゥン・オウッ(Tun Oke)によって設立された。新DAAは広く支持を得ることには失敗したが、バ・セインとトゥン・オウッはどちらも1946年に英領ビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミス(Reginald Dorman-Smith)の行政参事会に参加した。党は1950年代まで存在し続けたが、選挙においてはほとんど成功しなかった[8]

軍事[編集]

タキン党はビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army)の結成に功績を残した。1940年に日本の陸軍将校、鈴木敬司大佐はアウンサンネ・ウィンなどの30人のタキン党員に、台湾海南島にあった日本の学校で軍事教練を受けさせた。この30人のタキン党員たちは「三十人の志士」として知られ、のちに8000人近くにのぼるビルマ独立義勇軍の創設メンバーとなった。1941年末から1942年初頭にかけて日本がビルマに侵攻した際、ビルマ独立義勇軍はイギリス軍を追放するために日本軍と行動をともにした。1943年8月1日、日本はビルマに独立を付与した。ビルマ独立義勇軍はビルマ国民軍に名前が変えられた。しかし日本軍はビルマ人が求めていたような独立を付与したいのではなく、単にイギリス軍を追放したかっただけなのだと気づいたビルマ国民軍は、1945年3月にイギリス第14軍(Fourteenth Army)がラングーンに侵攻するのと合わせて日本軍に立ち向かった。

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ Mikael Gravers (1999). Nationalism as Political Paranoia in Burma: an essay on the historical practice of power. Routledge. 
  2. ^ Paul H. Kratoska, ed (2001). South East Asia: Colonial History. Routledge. ISBN 0-415-21539-0 
  3. ^ 目撃談はモーリス・コリス(Maurice Collis)の『ビルマの裁判(Trials in Burma)』(1937)に描かれている。
  4. ^ a b c d e Haruhiro Fukui (1985) Political parties of Asia and the Pacific, Greenwood Press, p128
  5. ^ a b Tarling, Nicholas (1999). The Cambridge History of Southeast Asia. Cambridge UP. ISBN 0-521-66369-5 
  6. ^ Fukui, p138
  7. ^ Khin Yi (1988) The Dobama Movement in Burma (1930–1938), SEAP, p39
  8. ^ a b Fukui, p129

参考文献[編集]

英語文献[編集]

  • Fukui, Haruhiro (1985), Political parties of Asia and the Pacific, Greenwood Press 
  • Gravers, Mikael (1999), Nationalism as Political Paranoia in Burma: an essay on the historical practice of power, Routledge 
  • Khin Yi (1988), The Dobama Movement in Burma (1930–1938), SEAP 
  • Kratoska, Paul H. (2001), South East Asia: Colonial History (1st ed.), Routledge, ISBN 0-415-21539-0 
  • Tarling, Nicholas (1999), The Cambridge History of Southeast Asia, Cambridge UP, ISBN 0-521-66369-5 

日本語文献[編集]