利用者:河内蜻蛉/sandbox12

イギリス領ビルマの旗 英領ビルマの政治団体
我らビルマ人協会
တို့ဗမာအစည်းအရုံး
タキン党のロゴ
成立年月日 1930年5月30日
前身政党 ドバマー協会
全ビルマ青年連盟
後継政党 自由ブロック
ビルマ人民革命党
本部所在地 ラングーン
下院議席数
3 / 132   (2%)
(1936年)
政治的思想・立場 ビルマ・ナショナリズム
社会主義
共産主義
党旗
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タキン党(ビルマ語: သခင်、発音: sa.hkang, IPA: [θəkʰɪ̀ɰ̃]、「主人」の意味)はビルマのナショナリストによる政治団体。1930年代に結成され、若く現状に不満を抱く知識人たちによって構成されていた。正式名称は我らビルマ人協会(ビルマ語: တို့ဗမာအစည်းအရုံး、ラテン文字転写: Dóbăma Ăsì-Ăyòun、略称: DAA、カナ転写: ドバマー・アスィーアヨウン)。イギリス人たちが植民地時代に呼ばれていた「主人」という言葉から党名をとったタキン党は、1930年5月にバ・タウン(Ba Thaung)によって設立され、伝統主義的な仏教ナショナリストの要素と新しい政治思想を融合させた。ビルマの政治関心を高めた点で特筆すべき団体であり、その支持基盤の大半は学生からなっていた。

党歌「ミャンマー・ガバ・マ・チェ」(ビルマよ、世界の終わりまで)はビルマ最初の愛国歌となり、最終的には国歌となった。作曲はサヤー・ティン(Saya Tin、のちのタキン・ティン)で、日本によるビルマ占領の際は国家のシンボルとなり、1948年には独立達成に際して国家として採用された。

歴史[編集]

創設の背景[編集]

英領ビルマの政治形態[編集]

英緬戦争中に攻撃される1824年のラングーンの様子

ビルマ人ナショナリズム団体としてタキン党が形成された前提には、イギリスによる植民地支配の過去とイギリス人への感情がある。イギリスはフランスとの植民地争奪戦の中で中国への交易陸路としてのビルマを狙い、1820〜80年代にかけての三度にわたる英緬戦争の結果、1885年11月にはビルマ王国全域を支配するに至った。こうした戦争の中でビルマ王国側もコンバウン朝10代目の王ミンドン(Mindon Min)自身や、続く11代目ティーボーの時代の大臣などが中心となって近代化を進め対抗しようとするも、国内的にはティーボーの王妃スパラヤッ(Supayalat)ら保守派の抵抗に遭い、国外的にはイギリスにコメの一大生産地で海外との玄関口にもなっていた下ビルマを割譲させられたため、抵抗を続けることができなかった[1]

ビルマを手にしたイギリスは1886年1月1日にビルマ全土の併合を宣言し、3月1日には英領インド帝国の州の一つとして英領インド帝国ビルマ州を発足させた。ビルマは平野部を中心とする「管区ビルマ」と山岳・丘陵地帯を中心とする「辺境地域」に分けられ、「管区ビルマ」はインド総督が指名するビルマ州知事が統治することになったが、1897年までは準州扱いだったために準州弁務長官が、同年5月1日に正規州に昇格されたのちには準知事が任命され、植民地政庁の直接統治がおこなわれた。一方の「辺境地域」には古くからの藩王を利用した間接統治が敷かれ、「管区ビルマ」との分割統治がなされた[2]

20世紀に入るとイギリスはビルマに対して段階的な自治の付与を検討し始める。まず1923年にはモンタギュー・チェルムスフォード改正インド統治法によってビルマに両頭制が導入された。これはビルマ人に政治と行政に参加させるため、選挙によって選出される立法参事会(植民地議会)とビルマ州知事[注釈 1]が任命する行政参事会にそれぞれビルマ人の議席や役職を設けたものである。さらに1935年4月にはビルマ統治法(Government of Burma Act)が公布され、ビルマ州は英領インド帝国から切り離されて直轄植民地の英領ビルマとされた。この体制においてビルマ総督の下に立法府には上院と下院(定数132)が置かれ、行政府にも総督が任命する首相の下で内閣を形成することができるようになったため、ビルマ人は大幅に政治に参加することができるようになった。こうした自治権付与の延長線上には、イギリスへの戦争協力と引き換えに将来的にビルマをコモンウェルスに参加する自治領(ドミニオン)にすることを約束しようという構想があった[4]

社会構造の変化とビルマ・ナショナリズムの擡頭[編集]

ラングーン大学の前身、ラングーン・カレッジ(1910年)

20世紀初頭から第一次世界大戦期にかけて、管区ビルマにはビルマ初のミドルクラスとして「ビルマ人中間層」が登場した。彼らは地主や教員、公務員、弁護士、商工業経営者などに従事する階層であり、その家族を含めると1931年当時の総人口の1割程度を占めていたと考えられているが、ビルマ人中間層は大きく二世代に分かれていた。第一世代は1880〜1900年生まれの集団で、彼らは青年期(1910年代)にビルマ植民地経済の安定ないし成長を体験しており、資本主義に対する反感があまり強くなかった。一方で第二世代は1901〜1920年生まれの集団であり、彼らの青年期は1920〜30年代であったために、世界恐慌によるビルマ経済の混乱を目の当たりにしていたために資本主義への反感を持っていた。また1920年に創設されたラングーン大学(Rangoon University)で教育を受けたことから、はっきりと反英独立を主張する集団でもあり、彼らはのちにビルマ・ナショナリストとしての政治エリートになっていた。ウー・ヌ(1907年生)やネ・ウィン(1911年生)、アウンサン(1915年生)はこの集団に属していた[5]

こうした中でビルマ・ナショナリズムが徐々に擡頭していった。まず1906年には仏教青年会(Young Men's Buddhist Association, YMBA)が結成され、当初は非政治的な宗教団体として活動を行なっていたが、ビルマ人中間層の擡頭とアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの第一次世界大戦下での民族自決原理の主張に刺激されて1917年からは急速に政治化が進んだ。続いて1920年には分裂したYMBAの中からビルマ人団体総評議会(General Council of Burmese Associations, GCBA)が誕生した。彼らは明確に政治団体としてビルマ・ナショナリズム運動を牽引したが、植民地議会への参加や英領インド帝国からの分離をめぐって分裂を繰り返し、最終的には植民地議会を通じたイギリスとの交渉(バーゲニング)を通じてドミニオンの地位獲得に向けて行動するようになっていった。しかしこのようにイギリスの設置した植民地議会でしか闘おうとしないGCBA系の政治家をナショナリズムに対する「裏切り」として非難したビルマ人中間層第二世代に当たるナショナリストたちは1930年6月に「我らビルマ人協会(ドバマー・アスィーアヨウン)」、通称タキン党を結成したのであった[6]

タキン党の成立[編集]

DAAが創設されたのは1930年ラングーンであり、ビルマ系インド人の港湾労働者とその家族がビルマ人によって殺害された後のことであった。これらのビルマ人たちはインド人が本来自分が得るはずの職を奪っていると信じ込んでいた[7][8][9]。ドバマー協会はナショナリスト的な性質を持つものであり、ビルマ至上主義を支持した。その会員たちは「ウー」や「マウン」といった一般的な敬称ではなく、ビルマ語で「主人」を意味する「タキン」(Thakhin、「主人」の意味)を敬称として使った。これは「タキン」という言葉が伝統的にイギリス人を呼ぶ際に使われていたからであった[10]。ドバマー協会のスローガンは「ビルマは我々の国、ビルマ文学は我々の文学、ビルマ語は我々の言語。我々の国を愛し、我々の文学の水準を上げ、我々の言語に敬意を払え」であった[11]。タキン党は民族的少数者をビルマ文化に同化させることに熱心であり、大半の活動はラングーン大学から行われていた[11]。ビルマの既存の政党とは違って、DAAは外国の資金や修道僧からの援助に依存しておらず、その創設によってビルマの政治は大きく変化した[10]

1935年、密接な関係があった全ビルマ青年連盟がDAAに合流し、最初の会議がシュウェボで行われた。続いて2回目の会議は1936年にミンジャン(Myingyan)で行われ[10]1936年の選挙(1936 Burmese general elections)に「我が王・我が種族」を意味する「コウミーン・コウチーン結社」(Komin Kochin Aphwe)という名前で参加することが決められた。28人の候補者を擁立し、そのうち3人が当選した[12]タヤワディ南選挙区のタキン・ミャ(Thakhin Mya)、ヘンザダ東選挙区のタキン・フラ・ティン(Thakhin Hla Tin)、パコック南選挙区のタキン・アン・チー(Thakhin Ant Gyi)の3人である[13]

3議席を獲得したにも関わらず、タキン党は一時的に活動を休止し、のちにアウンサンウー・ヌといった1936年の学生ストライキ(1936 student strike)の参加者の主導によって1937年に復活した[10]。このことは党内に分断をもたらし、旧来の指導部は新たな指導部の左翼的傾向に反発した[10]

1930年代末までに、タキン党は主要なナショナリスト団体として浮上することで地位を向上させた。この目標に到達するために、タキン党はストライキや軍事行動といった暴力的手段に関与した。1937年、タキン党の指導者が明確に現れた。その名もアウンサンと呼ばれていた、若き法律家である。1939年にはタキン党がドバマー・アスィーアヨウンを乗っ取り、当時の国家元首であったバー・モウ政権の崩壊を引き起こした。1940年にタキン党とバー・モウの貧民党が合流して自由ブロックを形成した。しかし一方でDAAは密かにビルマ人民革命党(People's Revolutionary Party)を結成していた[14]

1946年に新たなDAAがバ・セイン(Ba Sein)とトゥン・オウッ(Tun Oke)によって設立された。新DAAは広く支持を得ることには失敗したが、バ・セインとトゥン・オウッはどちらも1946年に英領ビルマ総督レジナルド・ドーマン=スミス(Reginald Dorman-Smith)の行政参事会に参加した。党は1950年代まで存在し続けたが、選挙においてはほとんど成功しなかった[14]

思想[編集]

初期の思想[編集]

思想体系[編集]

ビルマ史家の根本敬はタキン党の思想体系について以下の5点に整理している[15]

  1. ビルマ人こそビルマの主人(タキン)であるという意識:ビルマを支配する「主人」はイギリス人ではなくビルマ人だという強烈な主張があった。
  2. 「バマー(ビルマ)」の使用:「ミャンマー」の口語である「バマー」を党名に使用した理由には、破裂音である「バマー」の方が力強い響きになるため、またカレン族カチン族シャン族といった英領下に住む全ての土着民族を統一した主体として反英運動に動員するためであった。つまり、「バマー」という口語表現に非ビルマ系諸民族とビルマ民族を合わせた一つの「ビルマ国民」としての意味を付与しようとした試みであったといえる。
  3. 「我らのビルマ(ドバマー)」の意識:イギリスやその植民地体制に参加・協力するGCBA系政治家をイギリスの側につく「本物ではないビルマ人」、すなわち「彼らのビルマ人(トゥード・バマー)」と認識して打倒対象に位置付け、その一方で植民地支配にいっさい協力しない「我らのビルマ人」としてタキン党を捉えていた。
  4. 団結の誇示:「協会」を意味する「アスィーアヨウン」はビルマ語の「束ねて集める」という動詞を名詞化した造語であり、分裂を繰り返すGCBAに対するタキン党の抗議の姿勢、そして強い団結を誇る新しいナショナリスト団体を作る目的が反映されていた。
  5. 社会主義受容の形としての「コウミーン・コウチーン思想」:1930年代に世界恐慌によって資本主義への懐疑が高まると、マルクス主義からフェビアン主義民族社会主義までさまざまな社会主義思想が流入したが、1937年にはそれらがビルマ民族・ビルマ文化中心主義と結びついて「コウミーン・コウチーン思想」として定義され、党是となった。これは直訳すると「我が王・我が種族」を表す言葉であったが、イギリスの帝国主義が資本主義の派生であることを断定した上で、イギリスの支配体制を打倒するだけでなく資本主義をも拒絶する社会主義国家ビルマを、あくまでビルマ民族・ビルマ文化中心主義に基づいて独立させようとするものであった。

シンボル[編集]

党旗[編集]

党歌[編集]

標語[編集]

軍事[編集]

タキン党はビルマ独立義勇軍(Burma Independence Army)の結成に功績を残した。1940年に日本の陸軍将校、鈴木敬司大佐はアウンサンネ・ウィンなどの30人のタキン党員に、台湾海南島にあった日本の学校で軍事教練を受けさせた。この30人のタキン党員たちは「三十人の志士」として知られ、のちに8000人近くにのぼるビルマ独立義勇軍の創設メンバーとなった。1941年末から1942年初頭にかけて日本がビルマに侵攻した際、ビルマ独立義勇軍はイギリス軍を追放するために日本軍と行動をともにした。1943年8月1日、日本はビルマに独立を付与した。ビルマ独立義勇軍はビルマ国民軍に名前が変えられた。しかし日本軍はビルマ人が求めていたような独立を付与したいのではなく、単にイギリス軍を追放したかっただけなのだと気づいたビルマ国民軍は、1945年3月にイギリス第14軍(Fourteenth Army)がラングーンに侵攻するのと合わせて日本軍に立ち向かった。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 両頭制の導入に伴い、準知事から正規の知事に格上げされた[3]

出典[編集]

  1. ^ 根本 2014, pp. 57–67
  2. ^ 根本 2014, pp. 71–73
  3. ^ 根本 2014, p. 90
  4. ^ 根本 2014, pp. 90–96
  5. ^ 根本 2014, pp. 113–117
  6. ^ 根本 2014, pp. 120–139
  7. ^ Gravers 1999
  8. ^ Kratoska 2001
  9. ^ 目撃談はモーリス・コリス(Maurice Collis)の『ビルマの裁判(Trials in Burma)』(1937)に描かれている。
  10. ^ a b c d e Fukui 1985, p. 128
  11. ^ a b Tarling 1999
  12. ^ Fukui 1985, p. 138
  13. ^ Khin Yi 1988, p. 39
  14. ^ a b Fukui, p129
  15. ^ 根本 2014, pp. 142–148


参考文献[編集]

英語文献[編集]

  • Fukui, Haruhiro (1985), Political parties of Asia and the Pacific, Greenwood Press 
  • Gravers, Mikael (1999), Nationalism as Political Paranoia in Burma: an essay on the historical practice of power, Routledge 
  • Khin Yi (1988), The Dobama Movement in Burma (1930–1938), SEAP 
  • Kratoska, Paul H. (2001), South East Asia: Colonial History (1st ed.), Routledge, ISBN 0-415-21539-0 
  • Tarling, Nicholas (1999), The Cambridge History of Southeast Asia, Cambridge UP, ISBN 0-521-66369-5 

日本語文献[編集]