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レマン湖畔の小さな家
Villa "Le Lac" Le Corbusier
概要
住所 Route de Lavaux, CH-1802, Corseaux[1]
自治体 コルソー英語版
スイス
座標 北緯46度28分06秒 東経6度49分46秒 / 北緯46.46840度 東経6.82941度 / 46.46840; 6.82941座標: 北緯46度28分06秒 東経6度49分46秒 / 北緯46.46840度 東経6.82941度 / 46.46840; 6.82941
設計・建設
建築家 ル・コルビュジエ
ピエール・ジャンヌレ[2]
登録名Villa "Le Lac" Le Corbusier
登録日2016年7月17日
登録コード1321-002
登録名Villa "Le Lac" Le Corbusier
登録コード6020
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レマン湖畔の小さな家フランス語: Villa Le Lac)は、スイスヴォー州ヴヴェイ郊外コルソーCorseaux)のレマン湖畔に建てられた住宅。建築家ル・コルビュジエピエール・ジャンヌレによって設計され、1923年から1924年にかけて造られた[3]。「母の家」とも呼ばれる[4]

歴史

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ル・コルビュジエ(1964年)

「レマン湖畔の小さな家」は1923年に年老いた両親のための別宅として設計された。1917年にパリに上京して以来、経済的に困窮していた状況が雑誌『エスプリ・ヌーヴォーL'Esprit Nouveau)』の刊行や従兄弟のピエール・ジャンヌレとの協働のなかでようやく好転してきたのが1922年ごろであり、この頃からル・コルビュジエへの注目度が上昇していった、いわゆる「白の時代」が到来する。「小さな家」はちょうどそうした時期にデザインされた作品であり、その他同年の作品としては「ラ・ロシュ邸Villa La Roche)」や「ジャンヌレ邸Villa Jeanneret)」といった代表的な住宅、また「ウィークエンドハウス」といった都市計画がある[5]

この家を建設するにあたって両親にはラ・ショー・ド・フォンの「白い家」を無理矢理売却させたが[6]、<書簡撰集から家族の期待に沿ってた的なこと書く>

父ジョルジュ(Georges-Édouard Jeanneret)は1929年に亡くなったが、母マリー(Marie-Charlotte-Amélie Jeanneret)は1960年に100歳で亡くなるまでこの家に暮らし続けた[7]。その後、彼の兄で作曲家のアルベール・ジャンヌレAlbert Jeanneret)もスタジオとして利用した[3]

1971年以降はル・コルビュジエ財団の管理下に置かれ[8][9]、1984年から一般公開、2010年には博物館となった[9]。2013年からは博物館の運営元が「レマン湖畔の小さな家」協会(the Association Villa “Le Lac” Le Corbusier)に移っている[9]

2016年には後述の通り、「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の構成資産として世界遺産に登録された。

建築計画

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計画

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課題は、使用人なしの2人だけのための住居。場所、レマン湖畔の東端。丘がせまっている湖畔。南のすばらしい眺め。通常とは反対の方法でとり組んだ。まず要求として、ほんとの小さな住む機械に応じる機能的な住居の厳密な平面を作った。この図をポケットに、それに適合する敷地を探した。この方法は思ったよりよい考えである。 — ル・コルビュジエ、『ル・コルビュジエ全作品集 第1巻』[10]

計画段階では具体的な敷地を想定せず、普遍的な「住む機械」としての住居が設計された。当初想定された総面積に関する記述には若干の違いがあるにせよ、最終的にはほぼ同一の平面構成で60平方メートルの住宅が設計され、それにあった敷地に当てはめられた。ル・コルビュジエ自身はこの方法について、「一見矛盾しているようですが、現代住宅の問題の鍵が隠されているのを、認めようではありませんか。……私は既に、現代建築の諸新要素の恩恵で、どのような状況の敷地にも適合できるということを明示いたしました。」と述べており、敷地にとらわれない普遍的な住居を志向していた[11][12]

レマン湖から見たコルソーの風景

敷地の選定

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こうした事情から、ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレは完成した設計図を手に「完璧な敷地」を探し、ヴヴェイ[注釈 1]において「まるで大きさがぴったりの手袋のように適した」場所を見出したのだという[14]。それはレマン湖上流の小さな町コルソーCorseaux)であり、南側からは太陽の光を映す湖、そしてその背景にある南斜面の段々に連なった葡萄畑とアルプスの山並みを見渡すことができる場所であった[15][16]。実際彼自身もこの光景を「世界にも比類のない美しい水平線」と評している[15]

彼がこの場所を選んだ理由の一つとして、創造性のあるプランには、ただ理想的な風景と関連づけられる場合にのみ、その家が完全に自己を表現し得るという、彼ら自身の住まいに対する理想があったことが明らかにされている。デボラ・ガンズ(Deborah Gans)は「その横長水平窓には粗い表面の石壁で囲まれたエディキュラが必要であったのだし、また、その住機械には庭が必要であったのだ」と述べている[17]

またその他の理由として、ル・コルビュジエ自身の広い水の空間への指向性についても指摘されている。水との関係からル・コルビュジエの作品を見る研究において、「小さな家」は1920年代の作品の中でも水との関わりが深い作品として位置づけられており、プランが完成した上でふさわしい風景が探し求められたこの家にとって、レマン湖の景色は重要なテーマであったとされている。ただ同時に、簡単にレマン湖の水に触れられる場所にあるにもかかわらず、湖に近づくための仕掛けが何一つないことについては、ル・コルビュジエにとって水は単に美しい景色として眺めるものであり、手を触れて身を浸すものではなかったのだという指摘もある[18]

設計

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「住む機械」

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ル・コルビュジエはこの住宅計画案を「住む機械」と評し、部分部分の正確な機能・規模はそこに効率性と空間利用の経済性をもたらしたと述べている[19]。実際「レマン湖畔の小さな家」は本来ル・コルビュジエが両親の休暇用の別邸を長さ約20メートル、幅約3メートル、建築面積60平方メートルの平家建てとして設計したものであるので、高齢な両親が手狭なスペースの中でも快適に過ごせるように、一方を壁に固定した家具や陶器が置かれていたり、急な来客時にはベッドを間仕切りによって隠すことができたり、また寝室の壁を開けると床下の貯蔵キャビネットが出てきたりといった工夫が凝らされている[8][19]

南側の水平連続窓

水平連続窓

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目の前に広がるレマン湖とその後方に聳えるアルプス山脈の借景を取り込むべく、南側の壁面には約11メートル[注釈 2]の開口部が設けられ、この居間、寝室、バスルームを貫く水平連続窓は各部屋に開放的な眺望と均一な採光をもたらしている[21][22]。構造としては、4スパンにまたがっていながら、外壁を持ち出すことなく、細い鋼管の柱を25センチメートル厚の外壁の中に設置して梁を支えている[23]。こうして窓は家の中でも修辞的な意味において中心に位置づけられ、さらにのちにオーギュスト・ペレとの「窓論争」の中でル・コルビュジエ自身が述べている通り、彼にとって水平連続窓は黄道および「水平な視線」との関係性に基づいて、目の高さのところへと光をもたらすという点で必然的・科学的なものであった[24]

この水平連続窓はル・コルビュジエのピクチャーウィンドウの代表的な例の一つとされているとともに[4]、1920年代におけるル・コルビュジエの住宅群の過渡的変化を表していると言われている[23]。例えば、同時期に建築された「ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸」は窓の水平距離が柱間の内のりに限定されていたが、「小さな家」は柱を外壁の中に内包することで梁を支え、スパンを跨ぐ帯状窓を実現している。ただ、ただドミノ住宅においてはさらに外壁をカンチレバーで持ち出すことでスパンを超えた帯状窓を実現するという手法がとられており、実際ギャルシュの「スタイン邸Villa Stein)」(1927)や「サヴォア邸」(1928-31)では外壁のカンチレバー化が行われている。つまり「小さな家」は「スタイン邸」や「サヴォア邸」で実現するドミノ住宅の水平連続窓に関する潜在的可能性を顕現する架け橋になったのだと評価されているのである[23]

こうして「小さな家」に先駆的に取り入れられた水平連続窓は1926年に発表される「近代建築の5原則」へと繋がっていく。しかしながらこうした工夫はかつて師事したオーギュスト・ペレによって装飾的で実用性を持たないものとして批判の対象になった。しかしこの後、ル・コルビュジエも反論と自己正当化を繰り返し、『パリ・ジャーナル』誌を舞台に「窓論争」と呼ばれる意見の応酬が繰り返されることとなるのであった[22]

ル・コルビュジエの言い分としては、ドミノ式のコンクリート・フレームを用いることで細長い窓が生じ、これによって継続的かつ程よい具合に室内で最も必要とされる光の高さ、すなわち目の高さに光がもたらされる、というものだった。著書『小さな家』でも水平窓は黄道および「水平な視線」との関係性から「規定され得る」、必然的・科学的なものとして紹介している。しかしペレにしてみれば水平窓を用いることで室内の閾が失われ、空間の定義が乱されることになる上、これは前庭や空の眺めを切り取ってしまい、外部空間を見る行為さえ、奪い取ってしまうため、あらゆる観点を立体派の構成に落とし込めてしまっているという解釈であった[24]

近代建築として

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上述のように「住む機械」としてのあり方や水平連続窓の採用はドミノ方式Dom-Ino House[注釈 3]を予見させるものであるが、実際「小さな家」においても(予算上の制約から部分的かつ家庭的にアレンジされたものに過ぎないが)この方式の端緒が見て取れる。例えば支持柱はセメントを充填した金属製パイプであり、屋根は無瓦工法を用いたコンクリート製、さらに壁は中空コンクリートブロックを積み重ね石膏仕上げとなっている。こうしたハイテク機構は極めて計画的に行われたが、細部については不十分であったため、完成から数年すると漆喰仕上げの表面にヒビが現れ始めた。しかしル・コルビュジエはこれを老朽化と自然に関する科学的な検証の機会と捉え、南の壁面を波型の金属板で覆った。1945年にも地下水の圧力で南面部分にヒビが生じたが、これもカバーで覆われた[16]

また平面構成としては反復規則が特徴的である。初期の案では幅2.5メートル、奥行き4メートルの10平方メートルを単位とする長方形を5つ並べたものに、アブリと呼ばれる10平方メートルの屋根付き外部空間と階段室、そして25センチメートルの外壁を付加したものであり、つまりそれは10平方メートルの矩形を25センチメートルの(仮想)壁を挟んで5つ連続させた構造であった。一方、最終案では屋内部分が5単位から6単位となり、60平方メートルの住宅となったが、ここにおいては実態としての構造壁を内部に持たず、連続した空間として構想された。構造体を抱いているのは厚さ25センチメートルの外壁とセメントが注入された鋼管に過ぎなかった[26]

こうして近代建築運動の二つの重要課題であった最小限住宅と量産住宅に応えるものとして、この「レマン湖畔の小さな家」はその最初期の作品と位置付けられている。また具体的には、一層1スパン骨組が長手方向に展開する単純な空間の中に機能に応じた家具が配置され、回遊性のある平面計画が実現されている点や、1923年の建築当時では珍しかった機能的・人間工学的分析に基づいた厳格な寸法である点、そして家具の可変性・可動性によって空間の多義性が作り出され、最小限の空間でも最大限の快適さを提供している点などが評価されている[27]

石壁と開口部、その手前にはダイニングテーブル

風景との調和

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敷地は粗い表面の石造りの壁によって囲い込まれ、住居の領域と風景全体の領域とを接続する一つの空間としての庭が屋外に創り出されているが、この石壁の南面には矩形の窓が設けられ、湖そのものの本質を妨げないように制御された光景を供している。これによって庭においても屋内の横長窓から見える湖の姿が石壁の窓によって再現されていると言える。窓から覗いていった視線の先は遠景の湖の彼方で消失して完結しており、前景にはダイニングテーブルと陶器の花瓶が佇んでいる[28]

こうした石壁のデザインの解釈として、この前景−遠景の考え方がこの家の現実の敷地−想像上の敷地との関係にも結び付けられていると言われている。すなわち、前景に当たるのが植栽まで詳細に記述された前庭であり、中間の領域として欧州の中心としてのレマン湖が、そして遠景としては実際に見えることはないものの低く抑えられた空想上の地中海の景色が想定されているのである。これらが一体となることによって、この家にヴァナキュラーな別荘の風景が漂っていることが指摘されている[29]

世界遺産への登録

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2004年12月、スイスに残る4つのル・コルビュジエ建築がユネスコ世界遺産の暫定リストに登録された。当時は「レマン湖畔の小さな家」に加えて、シュウォブ邸やジャンヌレ邸イムーブル・クラルテの4つが推薦の対象であった[30]。フランス、ドイツ、アルゼンチン、ベルギー、日本、インド、スイスの7カ国は共同で、2009年に「ル・コルビュジエの建築と都市計画」の世界遺産リスト登録を推薦した。ここには上述の4作品を含む23の建築物が含まれており、立候補のための書類は2008年1月30日にフランスの文化・コミュニケーション大臣クリスティーヌ・アルバネルによって、ユネスコとル・コルビュジエ財団の代表者の立ち会いのもとで署名されていた。

しかし2009年の第33回世界遺産委員会での審議では見送りという結果に終わったため、関係各国はその後推薦資産の見直しを行い、19作品にまで絞り込んだ。その際にスイスはシュウォブ邸を除外し、3件を推薦することとした。しかしながら2011年の再推薦も第35回世界遺産委員会によって却下され、スイスはジャンヌレ邸を除外するなど、更なる絞り込みを行っていった。

2015年に3回目の推薦を行った段階では各国合わせて17件の作品をリストアップした。2016年にはICOMOSから「登録」勧告を受け取り、第40回世界遺産委員会で「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」(フランス語: L’œuvre architecturale de Le Corbusier, une contribution exceptionnelle au Mouvement Moderne[31])として正式に世界遺産に登録された[32]

アクセス

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近辺の俯瞰図。手前に見えるのがネスレ本部。

ジュネーヴから78キロメートル(電車で1時間)、ローザンヌから19キロメートル(電車で0.5時間)、モントルーから7キロメートルの地点にある。ヴヴェイ駅Vevey station)で下車後、ローザンヌの方向にavenue General Guisan通りを歩いていくとroute de Lavauxにつながるので、西に徒歩20分。ネスレ本部を超えた辺りで、道路の湖側に見つかる[19]

脚注

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注釈

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  1. ^ ヴヴェイはレマン湖畔に位置するリゾート地。「小さな家」の建設当初は古代ローマ以来の道路が「小さな家」とヴヴェイを結ぶ唯一の道路であったが、今日ではローザンヌへと抜ける幹線道路によって結ばれている[13]
  2. ^ 厳密には10.75メートル[20]
  3. ^ ドミノ方式(ドム-イノ方式)とはル・コルビュジエによる鉄筋コンクリートフレーム構造の型である。梁を露出しない平らな床スラブと柱頭のない直線上の柱、2辺の持ち出し(カンティレバー)を特徴とする。中間の作る矩形は、正方形か黄金比矩形である[25]

出典

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  1. ^ Gans 2008, p. 123
  2. ^ Gans 2008, p. 123
  3. ^ a b Gans 2008, p. 123
  4. ^ a b 林 2000, p. 53
  5. ^ 暮沢 2009, pp. 20–25
  6. ^ コーエン 2006, p. 26
  7. ^ 世界文化遺産 | Galerie Taisei | 大成建設”. www.galerie-taisei.jp. 2021年9月22日閲覧。
  8. ^ a b 暮沢 2009, p. 217
  9. ^ a b c Villa «Le Lac» Le Corbusier |”. www.villalelac.ch. 2021年10月3日閲覧。
  10. ^ ル・コルビュジエ 1979, pp. 66–67
  11. ^ 加藤 2012, pp. 114–116
  12. ^ 括弧内は(ル・コルビュジエ 著、井田安弘、芝優子 訳『プレシジョン 新世界を拓く建築と都市計画(下)』鹿島出版会、1994年、16頁。 )が加藤 2012, pp. 115–116で引用されたもの。
  13. ^ Gans 2008, p. 124
  14. ^ Gans 2008, p. 126
  15. ^ a b 山名 2018, p. 240
  16. ^ a b Gans 2008, pp. 124–125
  17. ^ Gans 2008, p. 126
  18. ^ 林 2000, pp. 132–133
  19. ^ a b c Gans 2008, p. 124
  20. ^ 加藤 2012, p. 116
  21. ^ 暮沢 2009, p. 218
  22. ^ a b 暮沢 2009, pp. 46–47
  23. ^ a b c 加藤 2012, pp. 116–117
  24. ^ a b Gans 2008, pp. 123–124
  25. ^ Gans 2008, p. 223
  26. ^ 加藤 2012, p. 119
  27. ^ 山名 2018, pp. 240–241
  28. ^ Gans 2008, p. 125
  29. ^ Gans 2008, pp. 125–126
  30. ^ Œuvre urbaine et architecturale de Le Corbusier. Eintrag in der Tentativliste der UNESCO auf deren Website, abgerufen am 7. April 2014 (französisch)
  31. ^ Informationen zur Welterbestätte auf der Website der UNESCO, abgerufen am 18. Juli 2016 (französisch, englisch, spanisch)
  32. ^ Le Corbusiers architektonisches Werk ist Welterbe. NZZ, 17. Juli 2016, abgerufen am gleichen Tage.

参考文献

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非日本語文献(翻訳含む)

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  • ル・コルビュジエ 著、吉阪隆正 訳、ウィリ・ボジガー; オスカル・ストノロフ 編『ル・コルビュジエ全作品集 第1巻』A.D.A.EDITA Tokyo、1979年。 
  • Gans, Deborah 加藤道夫訳 (2008), ル・コルビュジエ全作品ガイドブック, 丸善, ISBN 9784621079324 
  • コーエン, ジャン=ルイ 著、大野千鶴 訳『ル・コルビュジェ : 機械時代における建築の叙情性 : 1887-1965』Taschen、2006年。ISBN 9784887833067 

日本語文献

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関連項目

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外部リンク

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南側(2008年、改修前)
入り口のうちの1つがある湖畔側のファサード

イムーブル・クラルテフランス語: Immeuble Clarté)はスイスジュネーヴに建設された集合住宅ル・コルビュジエの設計で1930年から1932年にかけて造られた。

名称

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「イムーブル(immeuble)」とはフランス語で「大きな建物」の意味なので、和訳してクラルテ集合住宅とも呼ばれる。なおクラルテClarté)とは「明るさ、透明さ」を表しているが、これは外装や内部の階段がガラスでできていて採光性が高いことに由来する[1]

歴史

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エドモン・ヴァネール

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イムーブル・クラルテの不動産開発をおこなったエドモン・ヴァネール(Edmond Wanner[注釈 1])はジュネーヴの企業家で、不動産開発者であった。1853年に祖父のウジェーヌ・ヴァネールが創業した工場で代表を務めながらも見習いを終えたのちにジュネーヴの技術学校に通い、1916年に彼の父が亡くなると、叔父とともに経営を行うようになる。ガラスと鉄でできたファサードの標準部材、特に「ヴァネール型」スライド窓の供給と設置を行っており、1900年以降には2名のデザイナーを含めた100人以上の社員を抱えていた[2]

1920年代にはさまざまな種類の金属製サッシュを製造するなど建設工業化の製品開発を進め、特に藁を圧縮した「ソロミット」という噴射コンクリート用の断熱パネルは「エスプリ・ヌーヴォー館Pavillon de l'Esprit Nouveau)」(1924)でも使用された[3]。また、1925年にパリで開催された国際装飾芸術展においても、ヴァネールの会社は工芸金物の伝統的工法による照明器具で審査員賞を獲得する[2]

1927年、ヴァネール夫妻はシュトゥットガルトヴァイゼンホーフ・ジードルンクを訪れていることから、この時にはル・コルビュジエを認識していたとされ、1927年には初めて手紙が交わされている。1928年にはル・コルビュジエはピエール・ジャンヌレとともに、実現しなかったもののヴァネールの計画案に取り掛かることになるが、ヴァネールからするとル・コルビュジエとの協力関係は熱狂的な指示というよりむしろ、実理的なものであったとされている。ヴァネールの注意を引いたのは、ル・コルビュジエが異なる部材の厳密な標準化を行うときに示す、建築業の工業化への要求であり、この新しい考え方をプレファブ部材の近代的な会社に向けた販路拡大に利用しようとしていたとされる。実際、この共同作業の中では横長窓の特許をめぐってル・コルビュジエとヴァネールの間に論争が起こっており、ル・コルビュジエは「横長窓の考案者」を自認して、ヴァネールの会社が生産する横長窓一つにつき3%の利益を要求する一方で、ヴァネールはこれを突き返している[4]

ル・コルビュジエ

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1922年ごろからル・コルビュジエの注目度が高まり、充実した建築家人生を歩んでいた時期、いわゆる「白の時代」に入るも、1927年のヴァイゼンホフ・ジートルングでの活躍を頂点に1928年ごろには終わりを迎える。当時彼は近代建築国際会議(CIAM)の創設に中心的な役割を果たしており、また代表作「サヴォア邸」が設計されたのもこの頃であった。その後「ソヴィエトパレス」のコンペに参加したり、協同組合の建物「セントロソユーズ」を設計するなど、ソ連でいくつかの仕事を行った[5]

そうした中で、ル・コルビュジエの住宅に関する考え方は徐々に変化し、この頃から家具をあらかじめ住宅にビルトインすることにこだわりを見せ始めていた[6]

イムーブル・クラルテ

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1930年になると、ル・コルビュジエはイムーブル・クラルテの設計を始める。第一案ではイムーブル・モデルから生み出された、2列に並んだ廊下(内包された街路)に沿って配されたメゾネットタイプの住居を想定し、「輝く都市」の構想と実質的に調和しながらもジュネーヴにおける敷地の実態や中産階級の住宅の伝統とも矛盾しない形で標準化を軸としたスキームを構想した。しかし施主のヴァネールが方角、12kmの廊下にいっさい照明が無いこと、あまりに大きすぎることなどを批判したため、デザインは変更された[7]

こうして、エドモン・ヴァネールをデベロッパー兼施工者としてイムーブル・クラルテの建設は始まった。現場では主任建築家のジョン・トーカペル、実施設計主任のフランシス・クタン、現場主任のボリス・ナザリエフなどが活動し、13ヶ月ほどで工期が終了した。しかし適用された技術的解決法の多くが労働者にとっては予想外のことであったため、特別に予算を調整しなければならなかったことや、1929年からの経済危機に際して、生産方法の収益率が悪かったことなどにより、予算は当初より上回った。特に後者に関しては、失業によって余剰労働力が大きくなっている中で建築業を工業化し、完成度は高いが費用のかかる技術システムのために労働力を削減するという考え方は一般的な経済条件に反していた。当初は増築も計画していたが、こうした不利な要因から1930年以降は空室が過剰発生して実現しなかった[8]

建設後には徐々に傷みが激しくなり、過去2回解体の危機に見舞われた。ジュネーヴ州が建築家の指示で「州の建築物」に指定し、保護に乗り出したのは1986年になってからであった。2003年からは建築史家、修復専門家が修復の研究プロジェクトを開始し、2007年6月から修復工事が行われた。この工事では最大限1932年に建設された当時の姿へ修復することが目指されたもので、ベランダの撤去や色の修復などが行われたほか、日除け用の布製ブラインドも1930年代に主に使われていたベージュの布が用いられた[9]

設計を依頼したのはスイスの実業家エドモン・ヴァネールであった。彼は建築請負業者でもあったため、鉄骨構造に必要な溶接技術の質を担保することができた。そこで当時名の通った建築家であるル・コルビュジエに設計を依頼したのであった。ル・コルビュジエとしては初めての手がけたアパートだった[10][11]

2016年には後述の通り、「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の構成資産として世界遺産に登録された。

建築

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立地

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イムーブル・クラルテはジュネーヴ市中心部の端に位置し、レマン湖の景色を望むことができる。

建築

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輝く都市』にも見られような可動する仕切り壁やビルトインの家具などを備えている[11]。また、依頼者ヴァネールの協力で、この建物は初めてスチール・フレームが採用された[11]。さらに、旧市街のレイアウトに適合するよう、小さな路地を形成している一階部分からは、ほぼ同時期に建設されたスイス学生会館Pavillon Suisse)や救世軍難民院Cité de Refuge)にも見られるような急進性を見てとることが出来る。

全部で48部屋あり、附属施設として医務室や事務室、また半円形の本館にはレストランもある。二階ごとに外部に突き出た天井は広々としたバルコニーの役割を果たしており、またガラス張りの南側には陽射しをさえぎるための赤いブラインドが付けられていたが、ル・コルビュジエ自身は後に、この恒常的なブラインドをブリーズ・ソレイユの淵源のひとつとして挙げた[12]

評価

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イムーブル・クラルテはル・コルビュジエが集合住宅におけるモダニズム建築の原則を打ち立て、後のユニテ・ダビタシオン建設へとつながる重要な初期の計画であると評価される[13]。また集合住宅のプレファブ化につながり、第二次世界大戦後に住居を大量に供給する必要が生じた際に向けて影響が大きかったともされる[14]。実際、2009年の世界遺産推薦時は「集合住宅」に分類され[10]、構成資産としては「最小限住宅のアーキタイプ」という点が評価された[14]

世界遺産

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2004年12月、スイスにある4件のル・コルビュジエによる建築物が、ユネスコ世界遺産暫定リストに登録された。このイムーブル・クラルテに加えて、ジャンヌレ=ペレ邸やシュウォブ邸、レマン湖畔の小さな家などが推薦されていた[15]

2008年1月にフランス文化省主導で、ル・コルビュジエ建築の世界遺産リスト登録を推薦する書類が作成された。署名は当時の文化・コミュニケーション大臣クリスティーヌ・アルバネルがユネスコとル・コルビュジエ財団の担当者立ち合いのもと行った。「ル・コルビュジエの建築と都市計画」(フランス語: Œuvre urbaine et architecturale de Le Corbusier)と題され、アルゼンチン、ベルギー、ドイツ、フランス、インド、日本、スイスの7カ国にある23件(うちスイスは4件)の建築物及び都市計画が含まれていた[16]。しかし2009年の第33回世界遺産委員会では登録は見送りという結果に終わった。再立候補には積極的であったが、委員会は2012年までの見直しを提案した。

これに伴って、2011年1月には19件に絞り込まれた新しいリストが提出された[17]。スイスでは4件のうちシュウォブ邸が除外され、3件の立候補となった。しかし、この再推薦も2011年の第35回世界遺産委員会では過半数の賛同をえられず、登録は見送られた[18]。当時はル・コルビュジエ作品が実際、世界的に重要であるのかどうかさえ明らかではなかった。

2015年に再々推薦を行った段階では各国合わせて17件がリストアップされていた。この3回目の推薦では2016年にICOMOSから「登録」勧告を受け、第40回世界遺産委員会で「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」(フランス語: L’œuvre architecturale de Le Corbusier, une contribution exceptionnelle au Mouvement Moderne[19])として正式に世界遺産に登録された[20]

脚注

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  1. ^ よみがえる、ル・コルビュジエの代表作”. SWI swissinfo.ch. 2020年11月29日閲覧。
  2. ^ a b スミ 2007, p. 605
  3. ^ 山名 2018, p. 250
  4. ^ スミ 2007, pp. 605–606
  5. ^ 暮沢 2009, pp. 24–28
  6. ^ 暮沢 2009, p. 227
  7. ^ ガンズ 2008, p. 128
  8. ^ スミ 2007, pp. 112–113
  9. ^ 里信邦子. “よみがえる、ル・コルビュジエの代表作”. SWI swissinfo.ch. 2022年2月8日閲覧。
  10. ^ a b 暮沢剛巳 (2009). ル・コルビュジエ - 近代建築を広報した男. 朝日新聞出版. ISBN 978-4022599568 
  11. ^ a b c デボラ・ガンズ 加藤道夫訳 (2008). ル・コルビュジエ全作品ガイドブック. 丸善. pp. 127-129. ISBN 978-4621079324 
  12. ^ 越後島研一 (2007). ル・コルビュジエを見る - 20世紀最高の建築家、創造の軌跡. 中央公論新社. pp. 90-92. ISBN 978-4121019097 
  13. ^ Sherwood, Roger (1978). Modern Housing Prototypes. Harvard University Press. pp. 117 
  14. ^ a b 山名善之 (2017-10). “ル・コルビュジエの建築作品群について”. 月刊文化財 (640): 10. 
  15. ^ Œuvre urbaine et architecturale de Le Corbusier. Eintrag in der Tentativliste der UNESCO auf deren Website, abgerufen am 7. April 2014 (französisch)
  16. ^ UNESCO-Dossier Le Corbusier in Paris unterzeichnet. Pressemitteilung des Schweizerischen Bundesamts für Kultur, 30. Januar 2008, abgerufen am 7. April 2014
  17. ^ Le Corbusier fait son chemin vers l’Unesco. Libération, 12. Februar 2011.
  18. ^ Corbusier-Werk wird nicht UNESCO-Welterbe. Blick.ch, 28. Juni 2011.
  19. ^ Informationen zur Welterbestätte auf der Website der UNESCO, abgerufen am 18. Juli 2016 (französisch, englisch, spanisch)
  20. ^ Le Corbusiers architektonisches Werk ist Welterbe. NZZ, 17. Juli 2016, abgerufen am gleichen Tage.

参考文献

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ドイツ語文献

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  • Christa Zeller: Schweizer Architekturführer ; Band 3: Westschweiz, Wallis, Tessin. Zürich: Werk Verlag 1996. ISBN 3-909145-13-2
  • Florian Adler, Hans Girsberger, Olinde Riege (HG.): Architekturführer Schweiz, Zürich: Les Editions d'Architecture Artemis erw. Neuausgabe 1978, ISBN 3-7608-8004-5
  • William J. R. Curtis: Le Corbusier. Ideen und Formen, Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt 1987, ISBN 3-421-02883-4
  • Christian Sumi: Immeuble Clarté Genf 1932 von Le Corbusier & Pierre Jeanneret, Zürich: gta, ETH Zürich 1989, ISBN 3-250-50106-9

非日本語文献(翻訳含む)

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  • ガンズ, デボラ 著、加藤道夫 訳『ル・コルビュジエ全作品ガイドブック』丸善、2008年。ISBN 9784621079324 
  • リュカン, ジャック 編『ル・コルビュジエ大事典』中央公論美術出版、2007年。ISBN 978-4-8055-0540-3 
    • スミ, クリスティアン 著、黒岩俊介、迫田正美 訳「イムーブル・クラルテ」、リュカン, ジャック 編『ル・コルビュジエ大事典』中央公論美術出版、2007年、605-606頁。ISBN 978-4-8055-0540-3 
    • スミ, クリスティアン 著、黒岩俊介、迫田正美 訳「ヴァーネル, エドモン」、リュカン, ジャック 編『ル・コルビュジエ大事典』中央公論美術出版、2007年、112-113頁。ISBN 978-4-8055-0540-3 

日本語文献

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  • 山名善之『世界遺産 ル・コルビュジエ作品群 国立西洋美術館を含む17作品登録までの軌跡』TOTO出版、2018年。ISBN 978-4-88706-368-6 

関連項目

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